すすめ北前船

北海道発のFM放送「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」を瀬戸内海からFBとブログで発信しています

「すすめ北前船」第20回(塩飽廻船第1回)  

すすめ北前船」第20回(塩飽廻船第1回)
 今回は、塩飽の廻船について塩飽出身で長崎県諫早市在住の吉田幸男さんのインタビューから紹介します

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  吉田さんは、『塩飽史』を出版され咸臨丸子孫の会の会員でもあります。
 
  放送は、2018年3月30日から4月27日まで5回連続であり塩飽を熱く語っています。
 この放送を歴史にそって再構成して紹介します。次回は9月を予定しています。

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 百姓身分でありながら領地を持った、別名大阪船手組と呼ばれた塩飽の特殊性を吉田さんが紐解いています。

 遣唐使の時代から船で活躍していたのが江戸期の文献にあるといい、源平の合戦の屋島の戦いでも活躍した塩飽。
この時、源氏についたのは村上水軍で、塩飽は対岸の児島と共に源氏と戦っています。

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 対岸にある倉敷市「むかし下津井廻船問屋」の会長だった矢吹勝利さんが、児島は平家びいきと言っていました。

 平家滅亡で瀬戸内海は、信長の時代まで村上水軍の独断場で大阪本願寺側だった村上水軍に信長は手を焼いていました。 
 信長は世界でも類を見ない巨大鉄船をつくり、やっと村上水軍に勝利しています。
 このストリーが「その時歴史は動いた」の動画がユーチューブにありました。
https://www.youtube.com/watch?v=hHprXUWghds

 この時、塩飽水軍は、信長に味方した事からその後朱印状をもらい、秀吉、秀次の朱印状は大切に保管し守ってきたと語っています。
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 秀吉の小田原城攻めでは、大量の米等の食料を船で運ぶ必要があったと。
 遠州灘を無事通過し小田原に予定の日までに運べたのは100隻の船の中で唯一、塩飽の船だけだったと紹介しています。

 こうして秀吉から、この褒美として塩飽船方650人に対して塩飽諸島1250石が与えられこの朱印状が残されています。
 
 また、朝鮮出兵時には塩飽船が32隻、650人の水主を出していていたと話は続き、石田三成ら重要人物も運んだとの秀次の朱印状が残されていた事も紹介していました。

こうして塩飽は、朝鮮出兵した時から西宮から赤間(下関)まで瀬戸内海全域を秀吉の指示の元で活躍していました。

 それまで瀬戸内海の通行の支配していた村上水軍は、秀吉の時代で終わりました。

その後村上水軍は、赤間関を通過する船の通行で活躍していくようになります。

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 これが、関ヶ原の戦いの後の徳川政権でも引き継がれます。この時、全国の水軍を潰したのに対して唯一残したのが塩飽だった事から塩飽の船は、日本の海で独壇場になっていきます。

 2代将軍の時に始まった大阪城の再建では、塩飽の廻船が石の輸送を担い、巨大な花崗岩を運んだと語っていました。それは潮の大きな干満を上手く利用して載せて運ぶとその方法を紹介しています。

 丸亀市学芸員は、塩飽は小豆島の石も大阪城に運んでいたと言っていました。
 
 小豆島町では、数年前100トンの石をどう船に載せ、大阪城まで運んだかのプロジェクトを同志社大学と組み実証実験が日本経済新聞等で報道されています。
 
 しかしこの実験に参加した学生がいく店で、この実験は失敗したと聞いています。

 2018 年、塩飽(丸亀市)は、笠岡諸島、土庄町、小豆島町の4地域でシリアル型で「石の島」で日本遺産申請をしています。
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 申請した塩飽のストリーは、瀬戸内海の石を運んだ塩飽廻船でした。

 城と言えば石!塩飽廻船の活躍で、3代将軍の時に大阪城再建が終わり、徳川政権から絶大な信頼を受けます。
 
吉田さんは、村上水軍を作家が取り上げているので村上水軍の方が知名度が高いと語っていました
 
 次回は、河村瑞賢が開発した航路の話からです
 
この『進め!北前船』は、毎週金曜日14時から札幌しろいし局から放送されている「チェンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の後半で放送されています。
 その後、木曜日のFM七尾を皮切りに北前船寄港地13局で収録放送もされています。