すすめ北前船

北海道発のFM放送「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」を瀬戸内海からFBとブログで発信しています

「すすめ北前船」第23回(塩飽廻船第2回)  

「すすめ北前船」第23回(塩飽廻船第2回)

  これは、塩飽出身で諫早市在住の吉田幸男さんの5回のインタビューを歴史に沿って再構成していたもので2回目です。

 第1回は下記のクリックすればわかります

「すすめ北前船」第20回(塩飽廻船第1回) - すすめ北前船

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 江戸の人口急増、財源確保の問題から、仙台平野の天領米を幕命で江戸迄安全に運ぶよう指示された河村瑞賢は、下田を迂回して江戸湾に入るルートを開発します。

この時は、出身地の伊勢の廻船から起用しています。

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伊勢市の東村篤さんより贈呈)
 

 その翌年1672年5月2日、瑞賢が見守る中、酒田を初出帆した御城米は、下関、大坂経由で7月に江戸に無事に着き、瑞賢は、陸路で江戸に戻り御城米の確認をしています。


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 それまでは、琵琶湖経由で1年3ヶ月要しており、この成功で瑞賢は3000両の褒美をもらっています。

 これには、難しい日本海航路を塩飽廻船に任せ、加賀藩が使用していた大坂迄のルートを使っています。

 瑞賢は、伊勢商人でそれまでにも、奇抜な考えで成功した例の数々が、南伊勢町教育委員会が発行した『河村瑞賢』にありました。

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 4月20日放送で吉田さんは、新井白石の『奥羽海運記』の河村瑞賢「塩飽船隻、特に完堅精好、他州に視るべきにあらず」と、瑞賢の地元、尾張、伊勢等の船隻より塩飽船がすぐれていたと紹介しています。

 こうして1672年より吉宗の享保の改革までの約50年、ほぼ独占的に塩飽廻船が酒田の御城米を運ぶ事になり、大船団を持つようになり船建造技術は更に磨かれます。

 吉田さんは、公儀の荷は、集荷集金の必要がなく船さえあれば大きな収入となり、公儀もまた、天領米を江戸に運ぶだけで大きな財源になったと語っていました。

これを2ヶ月余りで実現させた、瑞賢に3000両もの褒美を与えたのがよくわかります。

 こうして、江戸では米が余り下落する年が多くなります。

 当時、武士への給金が米だった時代、目減から武士は生活苦に落ち入り幕府の財政も圧迫するまでになっていました。

 吉宗は、享保の改革の中でそれまで米を運んでいた御用船から、民間の廻船問屋に任せ財政を立て直しを図ります。

 (これ以後、越前や加賀の廻船問屋が、瀬戸内から大坂まで活躍するようになり、後に北前船とよばれるようになりました。)
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 打撃を受けた塩飽廻船は、それまでの技術を陸で生かし、ヒバの産地青森蟹田で弁財船の建造、対岸の児島や倉敷等で神宮建造等に携わっています。下津井祇園神社の宮司は、塩飽の大工の素晴らしさを語っていました

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また、廻船問屋としても活躍していた足跡が野辺地にありました。

これは、 今年8月末の長岡市での北前船寄港地フォーラムでわかったものです。

 塩飽の廻船業ついて、野辺地の江渡政樹町議会議員が執筆した『讃州塩飽橘屋廻船資料集』が、長岡市の高橋渡教育長に贈呈され、この中に詳しく書かれていました。
 
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この時、私にも北前船寄港地フォーラムの茂木仁相談役から贈呈して頂けました。

 

 現在の青森県では、飢饉から食料不足になった時代があったようです。

 第3回は、飢饉の時の話がミュージカルにもなった話からで11月迄に紹介します