『北前船浪漫紀行』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」をFBとブログで発信しています

第43回すすめ北前船 飫肥城 延岡城

北前船の寄港地と名城めぐりの旅④日向国

 
 かっての日向国延岡市と日南市のお二人の学芸員のインタビューから紹介します。
 
  薩摩とともに日向国北前船で活躍していた足跡が出雲崎海運史、酒田で2018年公開された客船帳に記載されている。
  
 

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 延岡市の内藤記念館の専門学芸員の増田豪さんの務める記念館は、延岡城(続日本100名城)の藩主だった内藤家から寄贈されたもの。
 

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この 内藤家は、譜代のいわきから赴任してから明治まで123年続き、延岡を繁栄させたことからいわき市とは兄弟都市。
 
能楽は、江戸期から続く歴史があり、内藤記念館には能面が72展示され、その裏に
「天下一」の称号が書かれ、ドイツにも展示に行ったと紹介している。
 
 去年23年目になった城山城址で天下一が舞う「第23回のべおか天下一薪能」の最後のグランドフィナーレに延岡城の石垣(写真)をバックに披露された。
 この石垣は千人殺しと云われ、ここに野村萬斎氏、京都の片山九郎右衛門 氏をお迎えしたと語っている。
 
 廻船については、大坂まで、日向木炭、椎茸、木材等を運び、太物等を上方から延岡にもたらしたと紹介。
 備前等瀬戸内の廻船問屋が寄進した常夜燈(天保時代)が東海港に残されている。

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 藤仲興産(株)では、近江国蒲生郡日野から文政4年(1821年)息子五兵衛と延岡に転住し、その後の活躍が詳しく紹介している。
 内藤藩有数の商家「藤屋五兵衛-藤五」を築いていた近江商人は、「質素、倹約、信用」と「三方よし」の商法で延岡藩にもいい影響をしていたようだ。
 
文久2年(1862年)発行の「日州延岡藩町家中金持商人番付一覧」に、藤屋五兵衛が『東の横綱』(写真)が掲載されている。

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この日南市については、 前シリーズの「第35回坂越の芸能」で延岡と赤穂について関係を紹介している。延岡の「ばんば踊り」は、赤穂から伝わった事(延岡市観光協会のサイト)
 延岡の盆踊りの、このルーツを長年研究されている筑波学院大学の坂本要名誉教授が、延岡市や赤穂でも調査中である。 ...

 赤穂の入り浜式塩田も延岡に伝えていた事が、赤穂市の歴史構想の地図に掲載されている。
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日南市教育委員会の長友禎治さんは、日本100名城の一つ飫肥城(おび)の学芸員
 飫肥には、新幹線鹿児島中央駅から4時間、宮崎空港駅からなら1時間余りで行ける(写真)。
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 飫肥城には、飫肥駅前で自転車を借り城は10分程の所にある。
  廻船の町として豊かにした飫肥藩について事前に予約があれば学芸員の長友さんの飫肥城の資料館や、小村寿太郎の記念館の詳しい説明をしていただける。
 
長友さんは、城下町としての風情が残っている江戸初期の飫肥藩5万石と薩摩藩77万石が、山境の境界線をめぐり50年の長い紛争は、徳川幕府裁定で小藩の飫肥藩が勝利した事から紹介している。

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 薩摩藩とは、木材、炭、黒砂糖の商売仇でこの境界線には、良質の巨木があり飫肥藩の財政を支えていた。
 その木材もやがて枯渇したので、成長が早い飫肥杉を植林したと応えている。
 
 5代藩主伊東祐実は、広渡川河口近くから岩山を掘り通し、油津港までの堀川を開削し1687年運河を完成させている。
 この完成で効率的に、杉などの木材、藩の各種専売品を油津港に運送し、飫肥藩の外港として、船奉行や船倉奉行を油津港で役人が直接管理していた。
 
飫肥藩は早くから廻船ビジネスで豊かな藩だったようだ。
 飫肥杉は、軽く木造船に有利で安政年間には船建造がさかんな牛窓、大坂にまで販路を拡大させている。

 2012年運河サミットがあり、九州の小京都飫肥は、小樽運河のように
堀川運河を観光資源にし、海や山の幸から、飫肥の厚焼きも紹介していた。
 
日向国も湊と藩(城)と密接な関係があり酒田には、日向国の廻船の足跡を写真で紹介します。
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