④日向国

北前船寄港地『酒田から全国帆船リスト』より
内藤家は、譜代のいわきから赴任してから明治まで123年続き、延岡を繁栄させたことからいわき市とは兄弟都市になっている。
能楽は、江戸期から続く歴史があり、内藤記念館には能面が72展示され、その裏に
「天下一」の称号が書かれ、ドイツにも展示に行ったと紹介している。
廻船については、大坂まで、日向木炭、椎茸、木材等を運び、太物等を上方から延岡にもたらしたと紹介。

前シリーズの「第35回坂越の芸能」で延岡と赤穂について関係を紹介している。延岡の「ばんば踊り」は、赤穂から伝わったと延岡市観光協会のはなしがある
赤穂の入り浜式塩田も延岡に伝えていた事が、赤穂市の歴史構想の地図に掲載されている。
長友さんは、城下町としての風情が残っている江戸初期の飫肥藩5万石と薩摩藩77万石が、山境の境界線をめぐり50年の長い紛争は、徳川幕府裁定で小藩の飫肥藩が勝利した事から紹介している。

薩摩藩とは、木材、炭、黒砂糖の商売仇でこの境界線には、良質の巨木があり飫肥藩の財政を支えていた。

薩摩藩とは、木材、炭、黒砂糖の商売仇でこの境界線には、良質の巨木があり飫肥藩の財政を支えていた。
その木材もやがて枯渇したので、成長が早い飫肥杉を植林したと応えている。
5代藩主伊東祐実は、広渡川河口近くから岩山を掘り通し、油津港までの堀川を開削し1687年運河を完成させている。
この完成で効率的に、杉などの木材、藩の各種専売品を油津港に運送し、飫肥藩の外港として、船奉行や船倉奉行を油津港で役人が直接管理し廻船で豊かな藩だった。
この完成で効率的に、杉などの木材、藩の各種専売品を油津港に運送し、飫肥藩の外港として、船奉行や船倉奉行を油津港で役人が直接管理し廻船で豊かな藩だった。
飫肥杉は、軽く木造船に有利で安政年間には船建造がさかんな牛窓、大坂にまで販路を拡大させている。
2012年運河サミットがあり、九州の小京都飫肥は、小樽運河のように
堀川運河を観光資源にし、海や山の幸から、飫肥の厚焼きも紹介していた。
2012年運河サミットがあり、九州の小京都飫肥は、小樽運河のように
堀川運河を観光資源にし、海や山の幸から、飫肥の厚焼きも紹介していた。