「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅」第45回富山城

 富山城

 

 富山市郷土博物館 の坂森幹浩館長(主幹学芸員)のはなしを紹介する。

 続日本100名城の富山城(富山市郷土博物館)は、天守閣を模した3重4階の建物で、富山産業大博覧会の記念建築物として昭和29年富山城址公園内に 建設された。
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(トリップアドバイザー2次使用)

 この博物館(富山城)では、400年に及ぶ富山城の歴史を常設展示している。  

 富山、石川は、江戸期は、越中、加賀、能登の3つの国に分かれ富山は越中だった。

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 いずれも前田家の支藩でそれぞれの地で違う文化が根付いていた。 

 このうち富山城は1615年の一国一城令で一旦廃城になったが、1639年加賀藩から分藩した富山藩ができ富山城が築城された。

 

 富山藩は、多くの家臣を抱え、参勤交代等で財政難に加え、生産性の低い領地に苦しめられていた。
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(トリップアドバイザー2次使用)
 そこで富山藩第2代藩主・前田正甫(1649~1706年)が力をいれたのが売薬「反魂丹」を広めた正甫の銅像が残されている。

f:id:chopini:20200801100121j:plain富山市郷土博物館のHPより

 これが、元禄の頃から売薬の販路を広げる原点になった。

 坂森氏はペリーが来航する頃には、  松前から鹿児島まで約2000人以上(20組)活躍していたという。   

  この20組の中に売薬組織薩摩組があり仲間組として強い団結力があった。 その売薬の積荷は、1000箱以上で富山の北前船がこれに貢献している。(富山市は、2018年北前船寄港地として日本遺産に認定された) 

 

 富山藩がとった政策は、中国と昆布交易をしていた薩摩の利益、中国の薬種を持ち帰り富山の売薬、そして関連の「ものづくり」にも及んている

 幕末になると、どの藩も財政難に陥り多くの藩は、自藩の産業の保護から「差し止め」をし、今で云う保護貿易にも話が及んでいる。


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(トリップアドバイザー2次使用)

 そこで得意先には進物として、浮世絵の版画を訪問時に渡す等で心を繋いでいた。 

 この売薬版画には、「忠臣蔵四段」と「忠臣蔵七段」もある。  

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富山市郷土博物館のHPより)
 平成11年12月の「博物館だより」第36号のテーマは「忠臣蔵」で、 大石内蔵助と富山藩士とのつながりを紹介している。  

 大石家と富山藩士の奥村家の家系図を掲載し、梅堂国政が手がけた討ち入りの場面を描いた浮世絵版画 が多数ある。 

この博物館では薬の生産から、原材料や包装等.への波及をHPで紹介している。 これらの 詳細は下記のサイトでご覧くださいhttps://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/index.html  

 この2020年5月鹿児島からNHKの「歴史ヒストリア」に出演された原口泉教授のこのFM番組については、前回紹介している。

 この鹿児島、富山双方のインタビューで、その時代の姿が具体的にわかった。