『北前船浪漫紀行』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」をFBとブログで発信しています

第45回すすめ北前船⑥富山城

名城巡りと北前船寄港地の旅⑥富山城

富山市郷土博物館 の坂森幹浩館長(主幹学芸員)のインタビュー紹介します。

 

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日本100名城の一つ富山城(富山市郷土博物館)は、天守閣を模した3重4階の建物で、富山産業大博覧会の記念建築物として昭和29年富山城址公園内に 建設された。
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(トリップアドバイザー2次使用)

 この博物館(富山城)では、400年に及ぶ富山城の歴史を常設展示している。  

 富山、石川は、江戸期は、越中、加賀、能登の3つの国に分かれ富山は越中だった。

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 いずれも前田家の領地でそれぞれの地で違う文化が根付いていたと紹介している。 

 このうち富山城は1615年の一国一城令で一旦廃城になったが、1639年加賀藩から分藩した富山藩ができ富山城が築城された。

 

富山藩は、多くの家臣を抱え、参勤交代等で財政難に加え、生産性の低い領地に苦しめられていた。
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(トリップアドバイザー2次使用)
 そこで富山藩第2代藩主・前田正甫(1649~1706年)が力をいれたのが売薬「反魂丹」を広めた正甫の銅像が公演に残されている。

f:id:chopini:20200801100121j:plain富山市郷土博物館のHPより

 これが、元禄の頃から売薬の販路を広げる原点になった。

 坂森氏はペリーが来航する頃には、  松前から鹿児島まで約2000人以上(20組)活躍していたと紹介している。   

  この20組の中に売薬組織薩摩組があり仲間組として強い団結力があった。 その売薬の積荷は、1000箱以上で富山の北前船がこれに貢献している。(富山市は、2018年北前船寄港地として日本遺産に認定された) 

 富山藩がとった政策は、中国と昆布交易をしていた薩摩の利益、中国の薬種を持ち帰り富山の売薬、そして関連の「ものづくり」にも及んている

 幕末になると、どの藩も財政難に陥り多くの藩は、自藩の産業の保護から「差し止め」をし、今で云う保護貿易にも話が及んでいる。


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(トリップアドバイザー2次使用)

 そこで得意先には進物として、浮世絵の版画を訪問時に渡す等で心を繋いでいた。 

 この売薬版画には、「忠臣蔵四段」と「忠臣蔵七段」もある。  

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富山市郷土博物館のHPより)
 平成11年12月の「博物館だより」第36号のテーマは「忠臣蔵」で、 大石内蔵助と富山藩士とのつながりを紹介している。  

 大石家と富山藩士の奥村家の家系図を掲載し、梅堂国政が手がけた討ち入りの場面を描いた浮世絵版画 が多数ある。 

この博物館では薬の生産から、原材料や包装等.への波及をHPで紹介している。 これらの 詳細は下記のサイトでご覧くださいhttps://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/index.html  

 この2020年5月鹿児島からNHKの「歴史ヒストリア」に出演された原口泉教授のこのFM番組については、前回紹介している。

 この鹿児島、富山双方のインタビューで、その時代の姿が具体的にわかった。