『北前船浪漫紀行』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」をFBとブログで発信しています

第48回すすめ北前船⑨八戸城

名城巡りと北前船寄港地の旅⑨八戸城

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東廻り航路で活躍していた八戸藩の廻船を、八戸市教育委員会の柏井容子学芸員のインタビューから八戸城とその城下と共に紹介します。
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出典 八戸市博物館

 日本100名城の「根城」は、南北朝時代から江戸初頭までの約300年間、「根城南部氏」が拠点としていた。
 「根城南部氏」は、1627年盛岡藩初代藩主南部利直の命により遠野へ移封され、八戸地方の支配は盛岡藩(盛岡南部氏)が行うことになった。
藩庁は、この盛岡藩直轄領時代に造営され利直自らが町割りも利直が縄張りをしたと伝えられ、八戸城は利直の陣屋敷になっていた。
 
内陸部の盛岡と異なり、湊がある八戸は、盛岡藩にとって重要な土地であつた。
 遠野移封から約40年後の1664年、盛岡藩2代藩主南部重直が跡継ぎを決めないまま死去した。
 このため、幕府の裁定で10万石だった盛岡藩は8万石を盛岡藩、2万石を八戸藩に分割し重直の2人の弟に与えた。
 八戸地方は「八戸南部氏」による統治がスタートし明治まで続いた。

 柏井さんは、八戸の港として、東の鮫・中央の白銀浜・西の湊の3港も紹介している。

 このうち 鮫港は、馬淵川新井田川が合流する河口にあり、この川に挟まれた地域が八戸藩の城下町だった
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出典 八戸市博物館

八戸には数字がついた町名がたくさんある。

城の南側に東西に細長い
「町人町」と「武家町」が置かれ、町名が城下に12の町がまとまってある。
 これは、舟運や廻船での交易にとって最適な築城だったに違いない。

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出典  八戸市博物館
 当初(1664年)は、江戸と八戸の必要物資を相互に運んでいた。
これは河村瑞賢が東廻り航路を開発(1671)以前から江戸との廻船が活発だったことになる。
 わずか2万石の藩自体が、地元の産物を全国に遠隔地交易が始めたのは元禄の頃(1690年頃)からである。
 柏井さんから紹介された三浦忠司著
『海をつなぐ道〜八戸藩の海運の歴史』には、文献から詳細に紹介している。
 八戸藩の交易圏は、東廻り航路だったことから江戸、銚子、浦賀だったが大坂との産物の交易も文政4年(1821)からおこなわれていた。

 この海運史によると、大坂の改勢丸が木綿、古着を積んで八戸に入津し、売却代金で大豆を購入した記録も掲載している。

特産品に鰯や南部鉄があるが、米が採れなかった為大豆が最大の特産品で専売制をとっていた。

 大豆は、千葉銚子に運ばれ野田醤油になり、行徳塩から次第に良質な赤穂塩が使われるようになる。
赤穂塩は赤穂からは塩廻船で江戸に運ばれていたが、八戸の廻船も赤穂塩を江戸で商いをしていた記述がこの書では以下のように掲載されいる。

 八戸から大坂方面への廻船の航行は、御手船(官船)鶴栄丸が文政12年(1829)〆カス、魚油を積載して直接大坂に入津しその代金で、兵庫で赤穂塩を買い、江戸で赤穂塩を売却したと文書『為御登御産物江戸浦賀銚子規定写』から紹介している。
 これは、八戸藩の買積み商法だが、廻船問屋も買積み廻船で活発に交易している
八戸には、文化・文政期、藩の財政を肩代わりできるほどの商人もいた。
 掲載の常夜灯の写真は 大坂の商人が寄進したもので、多くの廻船が八戸港に入津していたようだ。
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三浦忠司氏提供
『海をつなぐ道〜八戸藩の海運の歴史』より

 この他『街道をゆく』で、司馬遼太郎が「名勝種差海岸」へ取材に来たこと、ユネスコの世界無形文化遺産に登録された八戸三社大祭は300年の歴史も紹介している。

 参考文献

『海をつなぐ道〜八戸藩の海運の歴史』 三浦忠司