「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅」第49回⑩岩国城

名城巡りと北前船寄港地の旅⑩  岩国城

今回は、山口県東部に位置していた岩国城下について、岩国市教育委員会文化財専門員の藤田慎一さんのインタビュ-からです。

岩国城は、毛利家の吉川広家が防御のために横山山頂に建てた城だが、1615年の「一国一城令」で廃城になる。
この岩国が、岩国藩として認められたのは幕末の慶応4年(1867)で、それまでは、藩のようで藩でない状況と藤田さんは説明している。

初代吉川広家は、築城に並行して錦川を天然の外堀とし、山の麓の横山地区には藩主の居館・武家屋敷を築き、
対岸の錦見地区に中下級武士や町民の居住区を置いた。
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錦見地区に住む中下級武士にとって、藩政の中心地横山地区へ行くには幅200m の錦川を渡る橋は重要だった。
しかし豪雨災害で度々橋は流失し、藩政に与える影響は深刻で、流されない橋の実現が藩の悲願になっていた。


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佐々木小次郎像と山頂に小さく見える岩国城
3代目吉川広嘉は早くから、流されない橋の実現のため研究と検討や創意工夫を重ね1673年錦帯橋を造る。 
 約200mの錦川の川幅の両岸をアーチでつないだのは、中国の僧侶独立(どくりゅう)から紹介された『西湖志』を参考に造られた。
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           2016年8月
錦帯橋は、江戸期の橋の番付で東の日本橋、西の錦帯橋と言われ、当時から沢山の見物客が訪れにぎわっていた。
 
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 出典『岩国城下町』岩国市教育委員会発行
  岩国城下には、錦川にそった陸の道「岩国往来」と、錦川の舟運で海へとつないだ廻船業が発達している。
この陸の道 岩国往来は、2019年文化庁の歴史の道100選に選ばれた。
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萩藩主や役人が岩国藩を視察のために整備された歴史的な道 (写真は藤田さん提供)

 錦川の下流今津の港には、萩藩の蔵があり防長4白のうち、綿、紙は陸路で運ばれた。
 岩国に城下町ができるまでは、藩主の屋敷が由宇(ゆう)にあった。由宇の港は、明治に入ると鉄道・蒸気船が発達し、廻船業は衰退していく。f:id:chopini:20201017144902j:plain
写真提供 伊東直人氏(小樽市在住)

 藤田さんは、由宇の廻船業者の中でいち早く蒸気船を導入した嶋谷汽船が、小樽等にも展開していたとはなす。
 嶋谷家は、大正12年拠点を神戸に移したが、故郷の岩国由宇の学校建設に協力した事も紹介している。
 この嶋谷汽船については、神戸市在住の嶋谷徹氏が『嶋谷海運業史』を出版している。
 これは、戦前に国策で嶋谷海運が三井船舶と合併させられたとき、社員によって編集されたを『嶋谷汽船略史』をベースに出版されたもので小樽など北前船研究者に注目されている。
  

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藤田さんの紹介で、『岩国市史』、『岩国城下町』を参考にしています