名城と北前船寄港地巡りの旅⑫七尾城
七尾の城と湊
その文化について七尾市教育委員会の北林雅康学芸員のインタビューから紹介します。
七尾湾には能登島があり七尾北湾が大口瀬戸、南湾が小口瀬戸とよばれ天然の良港である。
七尾は今から1300年前の養老2年(718)に国府が置かれる前から能登の中心地だった。
七尾湊
天正10年(1582)前田利家は、山城の七尾城(日本100名城)に入封するが、海に面した小丸山城を築城し居住した。
しかし1615年「一国一城令」で翌年、小丸山城は廃城され七尾湊は加賀藩の管理下に入る。
七尾城 (2015.10)
寛永15年(1638)には、加賀藩の御蔵米を七尾湊から大坂に運んでいる。
大坂への御蔵米輸送の成功から、大坂への航路を河村瑞賢が参考にして西回り航路を開発している。
この地域では自然を生かし昔ながらの農林漁業を守り続けてきたことから、「能登の里山里海」は2011年世界農業遺産に認定されている。
さらに、毎年5月1日から5日に開催される七尾の祭り「青柏祭の曳山行事」は、2016年ユネスコの無形文化遺産(国の重要無形民俗文化財)に認定されている。
これは、3つの地区から奉納される曳山、通称「でか山」の車輪は直径2メートル、高さ約12メートル、重さ約20トンあるという。
七尾の祭りについては、毎年5月3日から5日に開催されているユネスコの無形文化遺産(国の重要無形民俗文化財)「青柏祭の曳山行事」で、3つの山町から奉納される曳山・通称「でか山」の車輪は直径2m、高さ約12メートル、重さ約20トンあるという。
この「でか山」は、北前船を模すしたものと言われ、船の建造の技術が活かされその資金も北前船の交易で豊かになり祭りを続けられたようだ。
(和倉温泉お祭り会館)トリップアドバイザー提供
今回のインタビューから、昨年2019年1月に行った七尾市「のと里山里海ミュージアム」で見た展示物の2つの点について考えた。
その一つは、北海道から大坂までの各地の客船帳に七尾の記録が展示されていた。
これを具体的に知りたかったので北林さんに『七尾市史15~16通史編』を紹介していただいた。
15通史編には、享保 2 年(1717)に加賀藩の森田盛昌が著した『能州紀行』に以下の詳しい記述があった。
「越中・越後・佐渡・出羽・奥州・松前なぞへ船便り宜しき故、繁昌の所なり、酒屋数百余軒、是ハ佐渡、松前・えぞへ酒を商売する故也」このことから七尾港の北前船の活躍がよくわかった。
七尾市史海運編には、ほぼ全国の客船帳が掲載され、『佐渡両津市浦川湊入津船』も掲載されていた。ここには薩摩の廻船が6隻掲載され播磨からは坂越が51隻あった。
2つ目は、北前船の帆に使われていた特産の七尾 筵(むしろ)が展示されていたが、
19世紀初頭に松右衛門帆の開発で使われなくなった筵は、どうなったのだろうと思っていた。
(のと里山里海ミュージアム)の掲示
この筵についてもは『16通史編』に北前船との関係を以下の記述で伝えている。
「文政の頃(1820年代)松前と交易をしていた七尾商人上村屋金右衛門が、松前から筵を数枚持ち帰り八幡村の七之助らに製造を託した。
八幡村では筵生産が盛んになり、七尾筵として七尾商人が松前などで売り出して、多くの利益を得ていたといわれる。
加賀藩は天保の飢饉では、農民達に「松前行目形筵」の生産を奨励している。
明治に入っても鰊を肥料として七尾へ運び入れるための袋として筵は必要だったことも掲載されていた。
工楽松右衛門帆が全国に普及した後、七尾筵は松前等で幅広く使われ、その用途から北前船では塩俵、酒樽、醤油樽、縄など不可欠なものだった。
小説『菜の花の沖』では、北前航路の往路で筵を買い、蝦夷地で干鰯、鰊粕をかますに袋詰め大坂に持ち帰る様子が描写されている。
参考文献
『七尾市史15通史編2』
『七尾市史16通史編3』
『七尾市史 海運編』