長野からの最初のゲストは、長野大学の山西敏博教授と前川道博教授。
上田藩が蚕種を日本一へと発展させたお話です。
出典 こもろ観光局
上田城は千曲川沿いにある。この川は、新潟では信濃川と呼ばれ新潟港に注ぐ大河である。
上田城(日本100名城)は、真田昌幸が天正11年(1583)築城した。
元和8年(1622)上流の小諸城藩主だった仙石秀久氏の子忠正が上田城藩主となり、真田時代からあった養蚕や紬の生産を奨励した。
この後に入封(1706年)した松平氏も、上田紬、蚕種に力を入れ、幕末の藩主松平忠優は老中になり、横浜港開港(1859年)に尽力し生糸輸出に貢献した。
千曲川沿いは傾斜地が多くコメ栽培に適さなかったが、雨が少なく乾燥した風が強く吹くため桑の葉に害虫がつかない事から、質の高い蚕から良質の繭を育てることができた。
上田の人々の勤勉さと藩の後押し、信州の蚕糸研究者達の活躍もあり、蚕種製造の一大産地になる。上田藩は養蚕の収益で財政が豊かになるが、養蚕農家に後世に残る大店は生まれていない。
出典 小岩井紬工房協力(上田市)
江戸期の庶民は絹織物の着用が禁止されていた。
しかし、上田紬は廃物のマユを利用して織っていた事で絹織物に含めない事になり庄屋等に着用が許され、その風合いの良さから全国に広がった。
出典
上田紬製造元(有)藤本
(上田市)
放送の後、上田紬はどのように各地に広がったのか文献から調べたので紹介する。
1688年発行の井原西鶴の『日本永代蔵』、1802年の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に上田紬を着た人物が描かれている。(『人づくり風土記長野』)
寛文年間(1661〜73)大坂、京都から移入する商品の見返りの商品が上田紬だった。
享保ー宝暦年間(1716〜63)には江戸から白木屋、越後屋、大丸屋等が、大口の買付に来ている。『長野県の歴史』塚田正朋著
この運送には古くから馬に依存した「中馬」 であつた。 千曲川の舟運が公許されたのは1790年だが、信濃川へは直接通航は出来なかった。『日本交通史』児玉幸多
「中馬」は農民の副業から専業的色彩になり、信州の物資の主な輸送手段だった。『古島敏雄集 信州中馬の研究』
こうして上田紬の9割が江戸方面に馬で運ばれ、文政年間(1820年前後)上田の養蚕は全国に知られるようになる。 『人づくり風土記』
これには江戸から東廻り航路の活躍で全国に普及したと考えられる。
『菜の花の沖』には1800年頃、近江商人が江戸から古着を東廻り航路で八戸に運び、庄屋(地主)に販売し莫大な利益を得ていた小説。
上田紬は、全国の庄屋が好んで買っていた。
次のゲストは、小室節保存会の中山喜重会長で、「中馬」の制度の源流のお話につながっていく。
小諸城(日本100名城)は、上田城の上流の千曲川沿いにある。
築城したのは武田信玄の家臣 山本勘助で本丸が城下町より低い日本唯一の穴城と紹介している。
江戸時代に入ると小諸宿として賑わった。
2017年9月
小諸城址は懐古園として整備され、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」(小諸なる古城のほとり・・)の歌碑が建立されている。
(出典:こもろ観光局)高橋英樹は、島崎藤村の詩に感激しその後に城が好きになったと力説した。
続いて「小諸馬子唄は江差追分けのルーツだと、江差追分会館で語られている」と中山会長の小諸節の話が始まる。
小諸馬子唄は小室節から派生したもので、小室節は、モンゴルの古謡「駿馬の曲」とメロディーが酷似しているという。
小諸市周辺の御牧ヶ原は、平安時代長野最大の牧でモンゴルからの渡来人が馬の飼育に携わり、望郷の念に駆られて歌ったのが原型ではないかという。
平安時代には日本の官牧場が全国に32あり、そのうち16がこの地 にあり、御牧ヶ原牧場が最大だった。『長野県の歴史』塚田正朋には、大宝律令(701年)と、その後改修された養老律令(718年)に「駅制・伝馬制」の交通制度の記述がある。
小諸付近の御牧ヶ原には、馬の逃亡を防ぐため土堤の野馬除け跡がある。
野馬除け跡 出典 gooフォト
遠いモンゴルの地から海を越えやって来た人々の唄の調べが、生活や仕事の中から共有され、自然に唄われ小室節の起源となった。
中山会長は長野県モンゴル親善協会会長でもあり、モンゴルから招かれたり現在も交流が続いている。
出典 長野県モンゴル親善協会提供
江戸時代は、小諸の祇園祭でも歌われ、松尾芭蕉の門下生、水田正秀の「春の日や 茶の木の中の 小室節」、小林一茶の「江戸口や まめで出代る 小室節」等、詠まれている。
越後から江差に北前船で伝わったと言われる中馬たちの小諸馬子唄。
岩手にも似た馬子唄がある事から、江戸から東廻り航路で小諸馬子唄が伝播したとも考えられる。
参考文献
『人づくり風土記長野』
『日本交通史』児玉幸多
『古島敏雄集 信州中馬の研究』
『長野県の歴史』塚田正朋