「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

『北前船寄港地船主集落の旅』第4回 野辺地(青森県)


 

野辺地は青森県陸奥湾に面した地で、2018年『北前船寄港地 船主集落』で日本遺産認定された。

 

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この船主集落について「野辺地町歴史を探る会」の鈴木幹人会長のインタビューを紹介する。

 鈴木さんは「青森古文書解読研究会」の理事でもあり、歴史上、「野辺地湊」が出てくるのは、文禄2年(1592)南部信直の手紙からと語る。

 

下北半島周辺は日本有数のヒバの産地で野辺地湊は、北陸へ木材を運ぶ陸奥湾の田名部湊の補助港だった。

その野辺地が脚光を浴びるようになったのは、鹿角地方の尾去沢銅山から産出された銅だったという。

この銅山は明和2年(1765)盛岡藩直轄になり、産出された銅を野辺地から大坂に廻漕されるようになったのは、明和3年(1766)だった。

 尾去沢銅山の銅は、阿仁銅山(秋田)・別子銅山(愛媛))と共に、大坂に銅座に運ばれた。この銅座は明和3年幕府がつくり管理下に置いていたためである。

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青い森鉄道野辺地駅前(2016 9)

 青い森鉄道野辺地駅で下車すると、左手案内板に盛岡藩とあり現在と行政区分が違っていたのがわかった。

 

野辺地湊には銅や大豆(銅とセットで移出された)を保管する倉庫もあり、干しアワビ、イリコ、フカヒレは俵詰めされ、野辺地から田名部に陸送されて中国に輸出された。俵物を一手に引き請けていたのは仙臺屋彦兵衛で、その方の家の記録が永記録で、北国船・羽賀瀬船。 弁才船。 蝦夷船等の運んでいたと、鈴木さんのコメントを頂いています。

 野辺地湊がなぜ重要な湊になったのか、当時の幕府の財政状態から調べた。

新井白石と対立した荻原重秀は、小判の金の含有量を減らし、貿易決済に金から銅を使われるようになり野辺地が重要になってくる。

その後、田沼意次が活躍する時代になり、意次は自由な経済活動を促進させ 野辺地や秋田で採れた銅を積み出す湊として重要になり、特産品も運んでいたのではないかと考えた。

 

鈴木さんは、野辺地は度重なる火事で木造物が少なく、構成文化財に町並みはないが石造物等は沢山残っていると話している。

 野辺地湊の浜町の常夜燈(写真)は、5代目野村治三郎により建立された。(日本遺産構成文化財

  

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2017年北前船寄港地フォーラムのへじで案内する鈴木幹人さん

 

 これは塩飽の橘屋吉五郎が、文政10年(1827)に運んできたもので、3月から10月迄毎晩灯りを灯していたという。この常夜燈の近くに陸揚げされた北前船を再現した「みちのく丸」が展示されている。

 秋田、江差等、北前船で伝わった祭りは多く、構成文化財「のへじ祇園祭」は、北前船の他、盛岡藩八戸藩などの陸地からの影響もあった。

 

和磁石、船箪笥、古文書、客船帳等があり野辺地町立歴史民俗資料館に展示されていた。(日本遺産構成文化財

『野辺地町史通説編第1巻』には、この資料館周辺は野辺地代官所の跡地で、貞享元年(1684)からの歴代代官の名前が記載され、野辺地湊は、西廻り、東廻り、蝦夷地の交易の重要な拠点となっていたことがわかる。

 

私がこの資料館にいったのは2016年9月のことで、野辺地の歴史と現状を教えくれたのが鈴木幹人さんだった。

 

 

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野辺地民俗資料館(2016.9)

ここには、五十嵐家の『久星客船帳』に坂越の大西家の名もあり、竹原の古文書が沢山展示されていた。

  野辺地には、この他尾道、小豆島、塩飽諸島等の瀬戸内海の廻船の活躍の足跡が多くある。尾道で加工され塩飽が運んだ手水石が常光寺にある他、廻船問屋野村治三郎により瀬戸内海から運んだ手水石等の石が残る。

 その一部が野辺地の愛宕公園の石段で、小豆島の土庄町小海産の花崗岩だった事がわかり、平成22年「大坂城残石記念公園(土庄町)」と「愛宕公園」は友好公園として調印を交わしていた。

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小豆島土庄町の大坂城残石記念公園 2018.8

 これをブログで発信したことから、南堀英二さんから野辺地の話を「大坂城残石記念公園」で聞くことができた。

 

 調印式に野辺地に行ったのが土庄町の当時の岡田好平町長と南堀さんだったからだ。

 その後、北前船寄港地フォーラム淡路で鈴木さん、南堀さんに会った。

 

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南堀さん 野辺地町中谷元町長 筆者(2017淡路の北前船寄港地フォーラム)

  

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 左から 南堀さん、野辺地の鈴木さんと 職員  (淡路)

「2つの公園の石が兄弟石だと突き止めたのが、野辺地町の江渡正樹議員だった」とうい話で盛り上がった。

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 小豆島土庄町の「大坂城残石記念公園」内の展示(2018.8)

 

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2019年、長岡市北前船寄港地フォーラムで、この江渡議員著の『塩飽橘屋廻船資料集』をフォーラム役員の茂木仁さんから頂いた

 

  陸奥湾と塩飽との繋がりについて塩飽出身の吉田幸男さんが、この放送で語っている。

「塩飽は幕府の御用船として抱えられていたが、吉宗の改革で職を失った人達が陸奥湾に移住し、ヒバで船を建造した」話しもあった。この資料集に吉田幸男さんの名もあった。

 浜町の常夜燈にある橘屋吉五郎について鈴木さんは、塩飽の船頭で後に船問屋を営んだ人で、塩飽諸島の広島に居宅があり、別名尾上吉五郎とも云い、江渡議員が尾上家の古文書を解読し前出書を出版されと教えていただいた。