「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

『名城巡りと北前船の旅』第55回島原城

今回は、島原城史料館・専門員の松尾卓次さんと、
小豆島在住のノンフィクション作家、 南堀英二さんの、島原城下のお話です。

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著者と監修 松尾卓次氏提供

 松尾さんは、『島原半島の歴史』など多数の著書があり、地元「FMしまばら」から毎週金曜日9時半から島鉄沿線歴史の旅で4年以上出演されている。

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島原半島の歴史を語る松尾氏(FMしまばら提供)

島原半島南端の口之津港は、有明海の入り口に位置することからそう呼ばれ、日野江城、藩主有馬義貞の外港でキリスト教が伝わった港だ。(1563年)

日野江城初代藩主晴信は南蛮貿易に力を入れたため、この地方にキリスト教が根付き、晴信の名代でローマへ派遣された「天正遣欧少年使節」4名は、ローマ法王に謁見しラテン語で島原を紹介している。

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4名は1586年ドイツの新聞に掲載された『島原半島の歴史』
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 京都大学デジタルアーカイブの写真

1590年に帰国し、グーテンベルク印刷機や、それぞれが西洋楽器を持ち帰っている。(マンショ(上段右)がバイオリン、ミゲル(下段左)がチェンバロ、マルティノ(下段右)がハープ、ジュリアン(上段左)がリュート

 
 徳川政権下(1603年)でも島原藩日野江城)の藩主だった晴信は朱印船貿易で活躍したが、1608年マカオで沢山の家臣が殺されたことから1612年自害に追い込まれた。

その後の藩主松倉重政は、新たに島原城(日本100名城)を7年の歳月をかけ、大規模な築城をした。

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昔の写真から島原城の規模が分かる『島原半島の歴史』

 この築城のための厳しい労役や年貢取りたての圧政に、庄屋達が立ちあがった。これにキリシタン弾圧の不満が重なり、島原天草の乱(1637年)が起こる。幕府軍の攻撃と、その後の処刑により37,000人が命を落とした。

 
この乱以降、朱印船貿易は途絶えたが、口之津港は40軒の廻船問屋で栄えた。

 島原の乱から約150年、雲仙岳の噴火で再び災難に見舞われた島原藩
 この窮地を救ったのは、藩が力を入れていた「ハゼ蠟」を大坂等に運んだ口之津港の廻船業者だった。
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白地図使用

 江戸末期には大牟田の石炭の専売権を得、瀬戸内海の塩生産地に燃料として運んでいる。明治に入ると三池石炭の海外積み出し港として再び世界に開かれ、税関事務所もあった。
この賑わいは、大牟田に三池築港が完成するまで続いた。

 
また、この口之津には漂流の記録が多く残っている。

漂流しメキシコから無事帰還し、世界を見た「太吉」は、後に『墨是可新話』を残している。
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島原半島の歴史』

日本に帰国できなかった「力松」は、香港で余生を送り、ペリーの来航を日本に知らせた。
明治に入り「永野万蔵」はカナダに漂流し、そのまま移民第1号になった。これら漂流者の話は、松尾さんの著書に詳しく書かれている。

 

 続いて『奇跡の医師』など地元小豆島の人物を描くノンフィクション作家南堀英二さんに、島原半島に小豆島から移住者があった話をしていただいた。

 島原の乱島原半島南部は荒廃し、幕府は天領であった小豆島の住民の移住を決めた。
 このうち土庄町の住民の多くは、雲仙市南串山町に移住した。島原には小豆島のそうめん等の食文化や、小豆島の方言が残る。島原そうめんは、小豆島の移住者が製法を伝えたと言われ今では、全国のそうめんの3割が生産されているという。

この深い歴史の縁を後世に伝えるため、2017年雲仙市南串山町と土庄町は友好交流協定を締結している。

2019年11月、雲仙市から末裔の方75名のが土庄町に訪れた。
 この日、雲仙市との文化・歴史・観光の交流発展に寄与したとして、雲仙市の小豆島交流推進委員会から、南堀さんに感謝状が贈られた。 

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土庄町役場で(雲仙への移住者の子孫の方と南堀さん)
 
その翌月南堀さんは、雲仙市から招かれ講演している。


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 雲仙市での南堀さん

 この放送のあと、雲仙での講演の内容について南堀さんに聞いた。

 小豆島は天領だった時代があり,
小豆郡誌第四編第八章』に「加子浦の制度」の記述がある。

この制度により、紛争地や朝鮮などの戦場に軍兵、兵糧、武器弾薬を船で運ぶという非常に危険な仕事に従事しなければならなかったが、半面、検地の後は「畑方麦斗代」という年貢に寛大な恩恵を受けていた。

この優遇は元禄2年(1689)の検地で廃止になり、小豆島も他の直轄地と同じく年貢が課せられ、幕藩体制の辛く厳しい暮らしをしいられた。
 
『南串山村郷土誌』に、寛永19年(1642)に17軒が移住して以来、明暦3年(1657)土庄町の百姓700名が移住した文書が雲仙市歴史資料館南串山展示館にある。


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南串山町口之津港のすぐ北にある
島原半島の歴史』より

 小豆島から島原半島には口之津港から上陸していたのが掲載の地図からわかる。
 
 司馬遼太郎街道をゆく17』には「島原半島に入るには、陸路はこの半島の柄の部分では諫早方面からの道があるに過ぎない。外界からくる者は、多くは船に拠り、南端にある口之津湊をめざした」とある。

 現在でも島原城に行くには、熊本港から船で行くのが便利だ。

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熊本港から島原港に行く船(筆者)