天草の牛深港から日本各地に伝わった「牛深ハイヤ節」は、小樽 鹿児島の北前船寄港地フォーラムで披露された。
牛深ハイヤ節 北前船寄港地フォーラムIN 鹿児島で 2020年2月
この「牛深ハイヤ節」は、佐渡市では「佐渡おけさ」、秋田市では「大正寺おけさ」、出雲崎町では「出雲崎おけさ」、長岡市では「寺泊おけさ」、宮津市では「宮津おどり」の起源にとされそれぞれ「北前船寄港地・船主集落」の日本遺産構成文化財である。
いずれも北前船が伝えた芸能だ。
『天草 人と歴史』(山口修)によれば天草は、天草島原の乱(1637年)の後、天領になり、明治まで続いた。
天草下島北西部の富岡港近くの富岡城に代官所が置かれ、武士は港やキリシタンを監視の為に住み、明治まで天草の中心は富岡だった。
この富岡と、南の埼津そして最も南の牛深は漁港として繁栄していた。
提供 天草下田温泉 「夢ほたる」
そこで天草市教育委員会の紹介で、牛深ハイヤ保存会の吉川茂文会長にお話していただいた。
吉川さんは「牛深歴史文化遺産の会」の会長でもあり、『牛深今昔』等、多数の著書がある。今回のブログ掲載にあたり写真を提供していただいた。
(『牛深今昔』より)
中でも牛深港は、江戸後期には海上交通の要衝として、海産物などを運搬する帆船が全国各地からの入港でにぎわっていた。
昭和30年頃の牛深湊(『牛深今昔』より)
この船乗りたちと牛深の女性たちが歌い踊っていたのが 「牛深ハイヤ節」だった。
軽快な調子に乗せて三味線や太鼓の興じた騒ぎ唄は、海の仕事の苦労を忘れさせ、常に陽気な心にさせてくれる等不思議な力があるという。
牛深ハイヤ祭り 出典『牛深今昔』
全国40の港に牛深ハイヤ節が伝わり、今では「牛深ハイヤ節全国大会」が、出雲崎の他、東京等各地で開催されている、
牛深でハイヤ節の教室を開いている奥様の妙子さんが、この放送で牛深ハイヤ節を披露してくれた。
「ハイヤエ ハイヤ可愛いや 今朝出た船は どこの港に サーマ とまるやら 黒島沖から やって来た 新造か白帆か 白鳥か よくよく見たれば わが夫さまだよ」
牛深はイワシ漁がさかんで、食用の他、干して肥料にも用いられていた。
イワシの〆カスは、阿波の藍の肥料として阿波に運ばれていたことからダイレクトに交流していた事も紹介している。
阿波藍は全国に販路網があり、生産者や藍商人も関わっていたことから、阿波踊りも牛深ハイヤ節のリズムの影響を受けてえいたことは知られている。
そこで、阿波藍について、藍住町教育委員会の重見高博氏の紹介で、徳島県立文書館の金原祐樹課長に藍と徳島藩の関わりを語って頂いた。
阿波藍は室町時代には税として納められていたと文献から紹介している。
その後、1585年に入封した蜂須賀家政は、吉野川下流の海の近くに徳島城(日本100名城)を完成させ、城下町をつくった。
金原さんは、この築城は海運の重要性を考えた築城だったのではないかと語る。
徳川政権になると淡路島が加増され四国で一番大きな藩になった。
初代家政は藍の生産に力をいれ、1625年には藩内に「藍方役所」を置き、藍の栽培、製造の監督を行った。その後の藩主も奨励政策をとり江戸中頃には、吉野川の下流域から中流域まで藍栽培を広げた。
吉野川 藍のふるさと阿波魅力発進協議会提供
藍玉の専売制をとった藩は、極秘にして藍の製法等を守ってきたという。
これら藩の政策に加え、吉野川流域は稲作には適さなかったが、藍栽培には適していたことも大きく影響している
(写真 藍のふるさと阿波魅力発進協議会提供 )
秋の台風が来る前に藍を刈り取り、特別な倉庫に入れ発酵させ「寝床」でつくるのは「(すくも)」である
この過程に秘伝の発酵技術を生み出し、収益が高かった藍玉は江戸後期の徳島藩の産業の柱になったのも「(すくも)」づくりです
藍住町の奥村家屋敷 阿波藍の日本遺産構成文化財(藍住町教育委員会提供)
藍栽培には、莫大な肥料が必要で、近海のイワシ肥料では間に合わなくなり、北海道の大量のニシン粕が必要となっていく。
こうしたことから阿波でも廻船問屋が活躍するようになり、撫養は(鳴門市)は、撫養の塩、吉野川の中下流域で栽培される藍等を大坂、遠くは東北方面まで積み出し、近世まで阿波第一の商港として栄えた。
2018年酒田市光丘文庫で一般公開された客船帳の阿波船籍は、瀬戸内海地域の船籍記録の中で大坂に負けない程多かった。これには明治7年まで、徳島藩領だった淡路島船籍が含まれていたかもしれない。
私が企画制作した『酒田から全国帆船リスト』でも、瀬戸内海の船籍で阿波が圧倒的に多かった。