『北前船浪漫紀行』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」をFBとブログで発信しています

第57回すすめ北前船⑱長岡城下・新発田城下・会津城下

今回は、新潟市新発田市、そして、阿賀川で新潟とつながる会津若松市からのゲストです。


まず、新潟市歴史博物館(信濃川河口左岸)小林隆幸副館長に、新潟の港の歴史、博物館の常設展示や年4回の企画展の話をして頂いた。
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提供 新潟市歴史博物館

そして同博物館の安宅俊介学芸員に、長岡城下時代の話をして頂いた。
長岡藩は、信濃川河口左岸に長岡藩の奉行所を置き、廻船をはじめとした港の収入を得ていた。一方、新潟港沖では、薩摩船によって唐物や松前の俵物等の抜け荷(密貿易)が行われていた。この抜け荷が摘発されたことを理由に、河口左岸の新潟町は上知され天保14年(1843)幕府領となった。

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 新潟白山神社にある大船絵馬、約150年前の姿に復元して複製したもの。 提供 新潟市歴史博物館

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こうして幕府直轄の新潟奉行が新設され、初代奉行に任命されたのが江戸から派遣された川村修就(ながたか)だった。川村修就は、薩摩の抜け荷の真偽を調べた文書『北越秘説』を残した。
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 提供 新潟市歴史博物館

安宅さんはこの館にある『北越秘説』から、薩摩船の積み荷のさつま芋や砂糖の下に、唐物が隠されていたと語る。現在、川村家の史料のうち、おもに江戸時代のものは、新潟市歴史博物館が所蔵している。
幕府領になった新潟港は、幕末に開港され、箱館、神戸等開港5港の一つになった。
 
 次に、新発田市立歴史図書館・鶴巻康志副参与の話を紹介する。
この図書館は、加賀国大聖寺領主から幕末まで新発田藩主を務めた溝口氏の古文書を中心に展示している全国でも珍しい、歴史に特化した図書館です。
また郷土の義士・堀部安兵衛を顕彰し、赤穂義士に関係する資料を「堀部安兵衛文庫」として展示している。  
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提供 新発田市立歴史図書館

 
図書館は、新発田城日本100名城)近くにあり、二の丸から堀を渡ると、土橋門跡の脇に堀部安兵衛の像が江戸の方角を向いて建っている。
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新発田城 2015.8


 鶴巻さんは、「正保越後国絵図」から河口の港を紹介している。 

 
この時代の絵図では、阿賀野川信濃川は河口で合流している。

河口は大小の潟湖が点在し、海岸線にできた砂丘の山が河川の流路を妨げ、雪解けや梅雨の時期になると氾濫していた。

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正保2年(1645)頃の越後絵図 出典 国交省 阿賀野川河川事務所のHP  

 

 この為、新発田藩は新たに河口を開削し、湿地帯を整備し新田の開発を行っている。

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 出典 国交省 阿賀野川河川事務所のHP  
 
沼垂港は、1760年頃まで、新潟港の右岸にあつたが、河口付近は大量の土砂でたびたび地形が変わり、港の位置も変わり、江戸中期に入ると阿賀野川側に港に移っている。

 
沼垂港は、会津などの年貢米の積み出し港だった事から会津との関わりは深く、新発田藩領のまま幕末まで残った。
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戊辰戦争150年の企画展」提供 新発田市立歴史図書館

 
戊辰戦争150年の企画展no
朝日新聞のインタビューに鶴巻さんは、

「越後の戦いの最中に新政府軍についた新発田藩は、会津などで長く『裏切り』と評されてきた。様々な情報をもとに、ぎりぎりの選択をして城下が戦火に巻き込まれることを防いだ。この判断は後世に誇るべきことだと思う」と答えている。

 

最後に、会津若松市教育委員会・近藤真佐夫さんのお話です。

近藤さんはブラタモリにも出演され、日本100名城 鶴ヶ城会津若松城)や会津藩の水確保の秘策等を案内している。

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(当時は珍しい御朱印 今は全国の城に御朱印がある)

 

 このFM番組では、会津の舟運と北前船のつながりを語って頂いた。

 初代会津藩保科正之は、家光の異母兄弟で江戸大火の復興や、玉川上水敷設でも知られている。正之は、「家訓(かきん)15条」で徳川家を第一に、親や子供を大切にする事を教えている。また会津藩山鹿素行朱子学批判の罪で赤穂藩浅野家に預けられ、素行の思想は赤穂藩に大きな影響を与えたエピソードも紹介している。


 保科正之会津阿賀川に着目し、藩財政と領民の生活を考え、阿賀川整備をしている。こうしたことから舟運が活躍になり会津には北前船の食文化が残っている。
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出典 国交省 阿賀野川河川事務所HP
「新潟では、ニシンの相場は会津によって決まる」と言われるほど会津北前船と深いつながりがある。

「ニシンの田楽」や、干し貝柱を出汁に7種の具をいれた正月の料理「こづゆ」、この他、工夫された「ニシン料理」は北前船が運んだ会津の郷土料理となった。

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屏風絵に見る当時の舟運の様子

出典 国交省 
阿賀野川河川事務所HP
 

 会津から阿賀川(新潟では阿賀野川)の舟運で運んだ特産品は、米、煙草、漆器、炭、蠟などがある。津川までは舟運により、途中舟運の困難な区間は馬で運び、津川からは舟で新潟港へ送り北前船で各地へ運ばれた。

 北前船でもたらされた瀬戸内の塩、古着、蝦夷地の海産物等の物資は、阿賀野川を遡り会津へ運ばれた。

 会津の職人が特産の製蝋の技術を桜島に伝えていることも紹介している。

製蠟に使われる原料は 西は「櫨」、東は「漆」と言われ、長野県あたりがその境になっているという。

  
幕末、討幕派と最後まで闘い戊辰戦争で破れた旧会津藩士は、小樽・余市等に屯田兵として入植し、北海道開拓の重要な役割を果たした。青森県の斗南(現むつ市など)にも江戸から入植している。

尚、最初に紹介した長岡城は、この戊辰戦争で落城している

港町新潟市と城下町会津若松市は,舟運で結ばれた歴史から平成24年から観光交流をしている。

今回の企画から沼垂港が天領にならなかった背景が想像できた。