「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

第57回・新発田城下・会津城下

今回は、新発田市、そして阿賀川でつながる会津若松市からのゲストです。


 新発田市立歴史図書館・鶴巻康志副参与の話から紹介する。
この図書館は、加賀国大聖寺領主から幕末まで新発田藩主を務めた溝口氏の古文書を中心に展示している全国でも珍しい、歴史に特化した図書館

提供 新発田市立歴史図書館

 
図書館は、新発田城日本100名城)近くにあり、二の丸から堀を渡ると、土橋門跡の脇に堀部安兵衛の像が江戸の方角を向いて建っている。

新発田城 2015.8


 鶴巻さんは、「正保越後国絵図」から河口の港を紹介している。 

 
この時代の絵図では、阿賀野川信濃川は河口で合流している。

河口は大小の潟湖が点在し、海岸線にできた砂丘の山が河川の流路を妨げ、雪解けや梅雨の時期になると氾濫していた。

 

 
正保2年(1645)頃の越後絵図 出典 国交省 阿賀野川河川事務所のHP  

 

 この為、新発田藩は新たに河口を開削し、湿地帯を整備し新田の開発を行っている。

 
 出典 国交省 阿賀野川河川事務所のHP  
 
沼垂港は、1760年頃まで、新潟港の右岸にあつたが、河口付近は大量の土砂でたびたび地形が変わり、港の位置も変わり、江戸中期に入ると阿賀野川側に港に移っている。

 
沼垂港は、会津などの年貢米の積み出し港だった事から会津との関わりは深く、新発田藩領のまま幕末まで残った。

 

戊辰戦争150年の企画展」提供 新発田市立歴史図書館

 
戊辰戦争150年の企画展の朝日新聞のインタビューに鶴巻さんは、

「越後の戦いの最中に新政府軍についた新発田藩は、会津などで長く『裏切り』と評されてきた。様々な情報をもとに、ぎりぎりの選択をして城下が戦火に巻き込まれることを防いだ。この判断は後世に誇るべきことだと思う」と答えている。

 

次は、会津若松市教育委員会・近藤真佐夫さんのお話です。

近藤さんはブラタモリにも出演され、日本100名城 鶴ヶ城会津若松城)や会津藩の水確保の秘策等を案内していただいた。

 

(当時はまだ珍しい御朱印 今は全国の城に御朱印がある)

 

  初代会津藩保科正之は、家光の異母兄弟で江戸大火の復興や、玉川上水敷設でも知られている。正之は、「家訓(かきん)15条」で徳川家を第一に、親や子供を大切にする事を教えている。また会津藩山鹿素行朱子学批判の罪で赤穂藩浅野家に預けられ、素行の思想は赤穂藩に大きな影響を与えたエピソードも紹介している。


 保科正之会津阿賀川に着目し、藩財政と領民の生活を考え、阿賀川整備をしている。こうしたことから舟運が活躍になり会津には北前船の食文化が残っている。
 
出典 国交省 阿賀野川河川事務所HP

 「新潟では、ニシンの相場は会津によって決まる」と言われるほど会津北前船と深いつながりがある。

「ニシンの田楽」や、干し貝柱を出汁に7種の具をいれた正月の料理「こづゆ」、この他、工夫された「ニシン料理」は北前船が運んだ会津の郷土料理となった。

屏風絵に見る当時の舟運の様子

出典 国交省 
阿賀野川河川事務所HP
 

 会津から阿賀川(新潟では阿賀野川)の舟運で運んだ特産品は、米、煙草、漆器、炭、蠟などがある。津川までは舟運により、途中舟運の困難な区間は馬で運び、津川からは舟で新潟港へ送り北前船で各地へ運ばれた。

 北前船でもたらされた瀬戸内の塩、古着、蝦夷地の海産物等の物資は、阿賀野川を遡り会津へ運ばれた。

 会津の職人が特産の製蝋の技術を桜島に伝えていることも紹介している。

製蠟に使われる原料は 西は「櫨」、東は「漆」と言われ、長野県あたりがその境になっているという。

  
幕末、討幕派と最後まで闘い戊辰戦争で破れた旧会津藩士は、小樽・余市等に屯田兵として入植し、北海道開拓の重要な役割を果たした。青森県の斗南(現むつ市など)にも江戸から入植している。


 港町新潟市と城下町会津若松市は,舟運で結ばれた歴史から平成24年から観光交流をしている。

今回の企画から沼垂港が天領にならなかった背景が想像できた。