「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

『北前船寄港地・船主集落の旅』第5回 にかほ市・能代市(秋田県)

秋田県では「北前船寄港地・船主集落」で日本遺産に5市が認定された。

 最初に認定された秋田市は『北前船浪漫紀行第1部』で紹介している。

今回は、にかほ市教育委員会の紹介で「象潟郷土資料館」鎌田館長のお話です。この資料館の北前船関連資料は、日本遺産の構成文化財で、写真も提供して頂いた。


写真(上下) 象潟郷土資料館

にかほ市秋田県山形県の県境に位置し、南に鳥海山、西に日本海がある。

鳥海山頂は海岸まで16kmしかなく出羽富士といわれ、北前船の時代、船乗りは航海の目印にしていたという。

 藩主仁賀保氏は跡取りがいなかった為、寛永元年(1624)1万石から2千石に減封され北の本荘藩の領地になった。
にかほ市の港、塩越港、金浦港、三森港、平沢港はそれぞれエピソードがあり北前船が寄港している。

出典 『絵図面の世界』杉原丈夫著

 この地図では、上の金浦から街道沿いに北に向かうと芹田→川を挟んで→三森→鈴→平沢は港で、1689年芭蕉が象潟に来た当時は、まだ潟があった。

 現在の風景は、1804年の象潟地震で隆起して陸に変わった為、この地図とは違う。

 高昌寺の住職と三森港の人たちは、秋田佐竹藩の御用船が難破したさい救助しそのお礼に、佐竹藩主から三森港の高昌寺に弁天丸が寄贈されたもの。現在の弁天丸は、火事で焼けたので2代目だ。(日本遺産構成文化財

 高昌寺の「三森弁天祭り」の御神輿は、弁財天が北前船に(模型)鎮座している。 

 
平沢港にある仁賀保2千石家のすぐ近くに、「飛良泉」という酒蔵がある。漢字で「飛びっきり良い白い水」と書き、飛良泉と呼んだ。

写真提供 飛良泉本舗

 今も、当時の黒壁の建物の中でお酒を造っており室町時代からの歴史がある。

 夏は凍らせて飲むお酒「氷結生酒」がお勧めだという。屋号「和泉屋」は、この地域の北前船の取引等の古文書などもたくさんあり、日本遺産構成文化財

写真「象潟郷土資料館内」

 右側の壁三列目中央の写真が、「船絵馬及びまげ絵馬」で、帆船で航海中にシケに合った船頭が、助からないと思い自分のちょんまげを切り一心不乱に祈ったところ、無事に港にたどり着き、感謝を込めてこの髪の毛を絵馬と一緒に奉納したという。(日本遺産構成文化財

 左側(北前船の解説パネルの下)にはアトゥシ(北前船で伝わったと思われるアイヌの民族衣装)が展示されている。この他、『蝦夷方言藻汐草』(アイヌの言葉の辞典)やアイヌの古地図もある。(日本遺産構成文化財

 

 金浦港は探検家・白瀬中尉が江戸末期に生まれ北前船を見て育った地で、北前船と南極探検に繋がるエピソードもある。

 象潟郷土資料館では、「象潟」(国指定天然記念物)や「おくのほそ道の風景地」(国指定名勝)などを、毎年内容を少しずつ変えながら展示している。 

「象潟」は松尾芭蕉が訪れた最北の地で、2020年は「おくのほそ道紀行330年 歌枕・象潟の旅」の企画展を開催した。


 次のお話、能代秋田県の北部に位置し江戸初期まで檜山城があったが、一国一城令により1620年に廃城、久保田城(日本100名城)の秋田藩の管理下となっている

 インタビューは井坂記念館(「木都の父」と木材に関する資料館)の佐藤忠良館長で、秋田県文化財保護協会能代支部理事でもある。

 井坂記念館

 井坂直幹は、28歳で能代に入り明治末に「秋田木材株式会社」創業し、東洋一の「木都能代」として、秋田杉の集積地能代で活躍した人物。

 秋田杉は、米代川流域を中心に分布し、信長の時代から米代川を下り能代港から京などに運ばれて築城や船建造に使われている。

 秋田藩の時代になると貴重な財源になり、木材を統括する能代奉行をおき、米代川流域一帯を治め秋田杉は藩財政を支えた。

 
出典 『絵図面の世界』杉原丈夫著 ’野代の地名が見える)
1704年、2度の大地震で「野代」は壊滅的打撃を受けたことにより、「能代」に地名変更を願い出ている。

 秋田杉から樽や桶が作られ、タガには佐渡の竹が使われ、銚子、小豆島にも運ばれた。この他、北前船の積み荷には米・銅がある。

写真 能代市教育委員会提供  井坂記念館の展示 (右下に桶がみえる)

 銅は米代川上流の阿仁銅山のもので、秋田市土崎、野辺地の所で紹介している。

 能代は米の産地だったが、天保の飢饉では多くの人が餓死している。

 弘前藩に米を運んでいた塩飽の紙谷仁蔵は、能代の窮状をみて住民にお粥を振る舞う話は『塩飽史』を出版された吉田幸男さんもこの番組で紹介している。

 

提供 能代市光久寺(浄土真宗)仁蔵の臼の墓(日本遺産構成文化財

 能代の海岸は鳥取砂丘より広大で、強い海風から大火にみまわれる事が多かった。

風と飛砂を防ぐため、廻船で財を成した人達が自費で松の「砂防林」を植栽している。

 この海岸防砂林は、日本一長い松原の美しい景色で「風の松原」と名付けられ「21世紀に引き継ぎたい日本の名松」や「日本の自然100選」等に選ばれている。