「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「北前船寄港地船主集落の旅」第6回 金沢 輪島(石川県)

第6回

 金沢市は、「北前船寄港地・船主集落」で日本遺産に認定され、その構成文化財が2つある「銭屋五兵衛記念館」の田中重之さんにお話していただいた。
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「銭屋五兵衛記念館」(2015年10月)

 五兵衛は、安永2年(1773)、日本海に面した金沢市北部の金石町に生まれ、17歳で6代前の吉右衛門から両替商(銭を扱う)の屋号「銭屋」の家督を引き継いでいる。

 呉服、古着、木材、海産物、米穀を商う問屋だったが、五兵衛は50歳代後半から新たに海運業に本格的に乗り出している。

水産物の生産状況や価格を便船・飛脚に託し、買い積み商法に大切な価格や商品情報を得る仕組みを、得意先商人と全国的ネットワークをつくり確立。
 江戸、大坂、青森、等34に及ぶ支店を持ち、大小200艘の大船団を擁した北前船史上最大の豪商だったという。
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  銭屋五兵衛記念館 (全国の支店網2015年10月)
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金沢城日本100名城)を藩庁とする加賀藩は100万石だったが、参勤交代など幕府の弱体化政策で財政難に陥っていた。この為、藩はしばしば豪商たちに資金提供を命じた。

藩の年寄奥村栄実(てるざね)の要請に対する見返りに、五兵衛には加賀100万石の御用船として全国諸港を自由に航行できる「永代渡海免許状」が与えられる。
この加賀藩の後押しで藩営商法による販路を拡充確立させ、加賀藩の金融経済の重要な役割を果たていた。
 晩年、河北潟干拓事業に着手した際、反対派の中傷による無実の罪で、嘉永5年(1852)獄中で80歳の生涯を終えた。

この記念館では、2020年日本遺産追加認定一周年記念 「北前船の誇り」を開催し、10点の日本遺産構成文化財や、この館所有の五兵衛の自筆で書かれた『銭屋五兵衛家年々留附留帳』、専長寺の旧銭屋五兵衛の隠居所に松帆榭の茶室も公開された。

また銭屋五兵衛の生い立ちから晩年に至るまでの偉業の数々を、シアターや北前船実物1/4の模型(写真)、商圏マップ検索で学べる。
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銭屋五兵衛記念館内1/4の模型(2015年10月)

ロシアとも交易をしていた銭屋五兵衛の記念碑が、北海道最北端の礼文島にある。これは昭和に入り礼文島の人たちが五兵衛を偲んで建立したものでその写真もこの館にあると語っている。

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写真提供  石黒 隆一氏

写真は石狩市在住の石黒隆一氏が礼文島に行かれた際に撮影した銭谷五兵衛記念碑である。
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 礼文町教育委員会が発行する「礼文島遺産マップ」では、銭屋五兵衛について「伝説」「うわさ話」として紹介している。 

 西廻り、東廻り航路、南海航路でも活躍した五兵衛の全盛期だった頃、薩摩の豪商・濱崎太平次も同じ航路で活躍していた。

志學館大学・原口泉教授は、2人が出会った事は推測できるが、文献として残っていないと大正15年発行の『南国史話』を紹介して頂いた。
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出典 国会図書館デジタルアーカイブ

この本には、口永良部港で五兵衛が活躍していたことが書かれていた。

 口永良部港は、薩摩藩の貿易の拠点で、箱館佐渡等に支店を持ち中国とも交易をしていた濵﨑太平次の情報を、五兵衛が見逃すわけがないと思った。

次に紹介するのは、能登半島西、輪島市門前町黒島地区。
この地区は北前船の船主・船頭・水夫が多く居住した集落で、「伝統的建造物群保存地区」、「黒島天領祭」等の日本遺産構成文化財がある。
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黒島天領祭りの大神興
提供 石黒隆一氏

 明治初期、北前船で栄えた旧門前町から旧厚田村(現石狩市)に多数の人が移住した背景から、旧門前町が平成元年、日本海に関わりのある市町村の「第1回日本海・文化交流会議」を企画、これを契機に旧厚田村との交流が始まった。

平成30 年5 月「北前船寄港地・船主集落」で輪島市石狩市は、同時に日本遺産に認定された。

令和2年4月「BS新日本風土記 北前船のおくりもの」で黒島地区が紹介され、出演された川端一人さんにFM放送で語って頂いた。
 
川端さんは、北前船の船乗りの血を引き、世界の海を航海した経験を活かし、母校国立富山商船高専助教授として活躍され退官後は、生まれた黒島地区会長として黒島の振興に尽力された方。


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天領黒島北前船資料館(日本遺産構成文化財
川端氏と写真を提供して頂いた石黒氏

 川端さんと長年交流がある石黒隆一さんのコメントを要約して紹介します。石黒さんは現在、石狩市郷土研究会の事務局長で、道の駅石狩「あいろーど厚田」で自作の北前船ジオラマを展示し
ている。

石狩市と合併した旧厚田村の厚田中学校の教頭だった私は、平成17年、門前・黒島を事務局長として訪問して以来、毎年、訪問団として中学2年生全員を派遣。
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子どもたちは、黒島天領北前船資料館に残る道具や模型に見入り、海に接した廻船問屋角海家の壮大で美しいたたずまいから当時の繁栄を実感していました。
  
その2年後の平成19年3月にマグニチュード6.9の能登半島地震が発生し、黒島地区は、廻船問屋角海家が全壊するほどの大被害を受けた。
 この復興の中心となったのが川端さんで、北前船の里としての地域の誇りを復興する象徴として文化財・角海家に注目し、4年をかけて再建させた。
 
 復興後の平成24年、「これまでの交流を踏まえ、今後お互いの災害時支援を行う」として、石狩市と「友好都市提携」を行い「図書館交流事業」が始まった。  平成28 年、石狩市に川端さんをお招きして、貴重な経験をお話しいただくことができました」
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平成30 年5 月、両市が同時に日本遺産に認定されたことを記念し、同年9 月石黒さんは輪島市で「北前船の時代から現在まで結ばれてきた両市の絆が、更に未来を切り拓くことを期待したい」と講演の中で話をされている。