第58回今治城と能島城
平成28年「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊」で今治市が日本遺産に認定された。
その構成文化財に今治城(日本100名城)と能島城(続日本100名城)の城跡がある。
関ヶ原の戦いの功により藤堂高虎が1602年から今治城を築城し居城とした。
今治城 (いよネット提供)
瀬戸内海では豊臣氏勢力がまだ残っていた事から、徳川方が睨みを利かすために徳川家康の側近だった藤堂高虎がこの地に城を築いた。
2015,7 日本100名城巡りで筆者撮影
その為、今治城を海岸線に築き、海上交通の要所今治港を最大限に活用し海から城内へ直接船で出入りさせた。今治港は今治城内に今も残る。
2015,7 日本100名城巡りで筆者撮影
今治藩には菊間瓦・伊予木綿・桜井漆器・大島石・塩などの特産品があり、伊予木綿は今治港から大坂に運ばれ、今治藩の重要な財源になっていた。伊予木綿を専売制とし18軒の問屋を指定し、抜け売りの禁止をした。
筆者が制作した『酒田から全国帆船リスト』(2020年発行)の中に今治の弓削島の入船記録があり、特産品が日本海にも運ばれていたことを示す史料と推察できた。このことを藤本学芸員にお伝えした。
2013年酒田市で発見された阿部家の客船帳より(酒田あいおい工藤美術館蔵)
伊予木綿の産地だった事から明治に入るとその伝統の加工技術を生かし、今治タオルの生産を始め、それがブランドになり今日に続く。
2015,7 天守から筆者撮影 (神社は明治に入り城内に移築された)
今治城博物館では、「海に大きく関わる城である海城が、村上海賊がいた能島城・来島城のような中世の海城から、大名の居城になった今治城のような近世の海城へ、どのように形が変わっていったのか」をテーマとしたパネル展を開催している。
藤堂高虎は、今治の海域にあった中世の能島城等を近世城郭に改修し、瀬戸内海を警備していたが、大坂夏の陣(1615)で豊臣家が滅亡したことから、海の城の役目は終わったのではないかと藤本さんに放送の後聞いた。
続いてこの能島城について、村上海賊ミュージアム 学芸員・田中謙さんに話して頂いた。
村上海賊ミュージアム いよネット提供
村上海賊ミュージアムは、「しまなみ海道」で本州(尾道)と芸予諸島と今治市を結ぶ海辺にあり、このミュージアム前の発着場から能島城に行く船があり能島上陸ツアーもある。
「しまなみ海道」 いよネット提供
能島城は天守も石垣もない古い形で、1周1キロメートル程の島全体が海城で南の鯛崎島もその一部で芸予諸島には10か所ほどの海城がある。唯一、能島城が国指定史跡である。
能島 いよネット提供
鯛崎島付近は潮の流れが激しく天然の要塞になっており、見張り台の役割をしていたという。 島の周りの海に潜む岩礁は複雑で、激しい潮流を理解していないと城に行けなかった。
能島城付近のうず潮 いよネット提供
村上海賊は、因島村上(尾道市)、能島村上 来島村上の3家あり、南北朝時代から豊臣秀吉の時代までは、瀬戸内海の水先案内の対価として通行料を徴し、他の海賊や複雑な潮流から船を守った。時の権勢次第で味方にも敵にもなり、日本最大の海賊として活躍していた。
このFM放送の翌日NHK「ブラタモリ」に出演した田中さんはタモリの放送で印象に残ったのは、和船で能島に上陸した事という。
それは、能島城の花崗岩でできた砂浜と、同じくしまなみ海道沿線にある弓削島の製塩との関係を結びつけ、村上海賊の誕生の秘密に迫ったのは新鮮だったと語っている。
..
弓削島は東寺領の「塩の荘園」で、村上海賊は歴史上に姿を現した14世紀塩運搬の警護も行っていたかもしれないとこのFM番組で指摘している。
能島城の城主能島村上武吉は、関ケ原の戦いの後「船手組」として萩藩の、船手組頭を務めて瀬戸内海で活躍する。その孫元武は、後に塩の産地になる三田尻(萩藩飛び地)に1611年から居住している。
もともと「海賊」と言われていた村上氏が、「水軍」と言われるようになったのは江戸時代後期のことで、昭和のはじめからは「村上水軍」という固有名詞が表面化してきた。
これは明治に入り日本海軍が、村上海賊の戦術をまとめたとされる江戸時代の兵法書から「海賊」の教え(知識や心構え)を研究し、海軍の前進と位置付けたことから「水軍」という言葉が軍人や研究者に使われ定着するようになったと推測している。
松山市出身の秋山真之は村上海賊の戦法を研究し、日露戦争の日本海海戦の勝利に結びつけたという。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』ではその活躍が描かれている関係から、松山市の坂の上の雲ミュージアム「秋山真之と海軍兵学校」と呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)「呉と海軍組織」で相互に連携した企画展をしている。
この村上海賊ミュージアムでも近代日本海軍が学んだ「海賊」の教えである「大将たる人道を正しく行うべし―」など、「海軍」の前史にスポットを当て、館蔵品と写真パネルを中心とした企画展を開催していた。
田中さんは、考古学が専門で今後の発掘から新たな発見をしたいと最後に語っている。