「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「北前船寄港地・船主集落の旅」第12回志賀町・泉佐野市

2020年6月石川県から白山市志賀町大阪府から泉佐野市の3市町が「北前船寄港地・船主集落」で日本遺産に追加認定された。今回は志賀町泉佐野市の話である。
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 まず泉佐野文化財保護課・中岡勝課長の話からです。


泉佐野市は「平地」「山」「関空のある海」のそれぞれのストーリーで、追加認定された。
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(写真は泉佐野観光協会提供)

2020年には「北前船寄港地・船主集落」(海)「修験道はじまりの地」(山)の2つが認定された。
北前船寄港地・船主集落」では、中世から豪商だった食野家と唐金家の本拠地で、80艘の千石船を持ち、両家は姻戚関係で結ばれ、同時期に全国市場に乗り出していた。
井原西鶴の『日本永大蔵』(1688年)や、古典落語にもでてきてくるという。『日本永代蔵』には、神通丸という3700石積みの当時としては日本一の大型船を所有していたとある。
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京都大学デジタルアーカイブ

今も食野家などの廻船問屋の蔵が残され、屋敷跡は第一小学校になっている。
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泉佐野ふるさと町屋館(いろは蔵 食野家跡)泉佐野観光協会提供
 佐野浦(佐野町場)は和泉国で最も栄えた港で、日本海側や北海道方面へは多数の北前船が、江戸方面へは樽廻船、菱垣廻船で交易し栄えた港だった。
 
 漁業でも対馬まで進出し、佐野浦は、城下町、門前町ではなく自然に出来た町で、道幅が狭く入り組み、天然の迷宮都市とあだ名がついているほどだ。
佐野浦は綿の産地でもあり、綿花を育てるための大量の鰊カスを北海道から北前船で運ばれていた歴史がありその足跡が酒田の客船帳に記されていた。
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出典  『北前船寄港地 酒田から全国帆船リスト』

綿織物が発展し、明治に入り泉州タオルの生産を手掛け、日本のタオルの発祥の地となる。
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この地域は昔の職業のままの面白い名字の方が多く、昔の繁栄が色濃く残されている。


 


もう一つ「修験道のはじまりの地」は、和歌山~大阪~奈良の境に聳える「葛城山」と呼ばれる19の峰々は延べ112㎞に及ぶ。
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葛城修験は、七宝瀧寺を中心に今も地域の人々により大切に守り伝えられ、世界遺産の吉野・大峯と並ぶ「修験の二大聖地」で、修験者たちの聖地として、塚、縁の寺社、滝、巨石が残され、誰でも巡ることが出来る。

あと一つは、2019年に認定された「中世日根荘の風景」。

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泉佐野は、鎌倉時代天皇家に仕えた貴族、九条家が荘園として治めており、当時の荘園の風景がそのまま現代に受け継がれている。
 これが書かれた「九条家文書」が宮内庁で発見され、九条政基の日記5冊「旅引付」と、2枚の「絵図」から当時のことが実証された。「歴史館いずみさの」にその写しがあり、この文書の一部は、国会図書館で閲覧できる。

次に、令和2年6月日本遺産の追加認定に関わった志賀町教育委員会・松田睦夫主幹のお話です。
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 志賀町能登半島輪島市の南、七尾市の西に位置し、海の交通に関係する歴史が残り、古くは渤海国との交流があったという。
福浦港は旧富来町にあり、平成17年に志賀町と合併している。

7つの日本遺産構成文化財を、志賀町教育委員会提供写真で紹介する。
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福浦港の日和山台地に位置し日和山に立つと、日本海が一望できる
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旧福浦灯台は、1608年、日和山に篝火を焚き夜の海を航行する船を護ったことに始まる。現存する木造洋式灯台は我が国では最古といわれ、1879年の形状をそのまま復興建造されたものである。
 

2つ目は北前船関係資料群で、この中に『佐渡屋諸国客船帳』がある。これは享保年間 (1729年)から大正末期(1923年)まで約200年間に及ぶ43ヶ国1864隻分の入船記録である。志賀町史続資料編に記載されているので、確認できる。
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佐渡屋」は福浦港の日和山の崖下で廻船業も営み、佐渡出身であることから佐渡屋を名乗った。その入船記録には、佐渡が最も多い。

 3つ目の構成文化財「めぐり」は、岩をえぐり貫いて穴を開け、その穴に綱を通して船を繋いだ施設である。f:id:chopini:20211007154806p:plain
福浦港周辺には約30ケ所も残されており、これだけの数があるのはめずらしく、全国で福浦港が一番多い。また、“めぐり銭”と称して船の停泊料を徴収している。これに似たものが新温泉町にもある。
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 絵馬群のひとつ

4つ目は、奉納された絵馬群で、松田さんは奉納されている絵馬の展示企画展を開いている。「よほどの嵐だったのか難破船が描かれているのは珍しい」と中日新聞のインタビューに答えている。

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5つ目は、志賀町の「福浦祭り」が認定されている。寄港地の日本遺産構成文化財に祭りは多い。
祭りは、猿田彦神社の神輿を船に乗せ、海上渡御を行う船を決める「神籤の儀」が行われる。宵祭り、本祭り、裏祭りが3日間にわたって行われる。
この他、「日和山」「方角石」の2つも認定されている。

志賀町にはこの他、平成27年珠洲市七尾市能登町等シリアル型で日本遺産に認定された「能登のキリコ祭り」がある。
 
この村((安部屋村)から利尻島礼文島等多くの人が北海道に移住し、歴史に残る人物として村山伝兵衛が知られている。
初代村山伝兵衛(1683~1757年)は、松前藩の船頭の娘婿として18歳で松前に移住し、廻船業を営んでいる。

 増毛町のホームページには、「宝暦元年(1751)に松前の商人・村山伝兵衛が、函館奉行所より増毛で場所請けを負い、出張番屋を設け、交易を始めて以降、増毛の地に和人が定着を始めていた。伝兵衛は宗谷・苫前・留萌・石狩など藩主直領の場所経営も任せられ、アイヌに漁法を指導している」と書かれている。