「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

『名城巡りと北前船の旅』第61回松坂城

北海道の名付け親「松浦武四郎」と、松坂城下の白子港の船頭の「大黒屋光太夫」の話です。
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まず三重県松阪市松浦武四郎記念館・学芸員 山本命さんの 松坂城(日本百名城)と「松浦武四郎」の話からです。

 松坂城蒲生氏郷が築城し(1588)城下を整備と、伊勢への参拝客が城下を通るよう街道のルートを変え、多くの人を呼び込んだ。楽市・楽座を進め、「豪商のまち」としての礎を築いき、縦縞が印象的な松阪の木綿を商いで発展させた豪商三井高利の他・本居宣長松浦武四郎の生誕地であった。

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2018.9 松坂城
蒲生氏郷は僅か2年で会津城主に栄進し、4代目藩主古田重治は1619年浜田藩主となり、松坂城下は紀州藩支藩になった。
 浜田藩第12代藩主・松平康定公が、本居宣長の「源氏物語」を聴講した返礼に贈った駅鈴が松阪のシンボルとして受け継がれ、2016年には「駅鈴で結ぶ松阪市浜田市観光・文化交流協定」が締結され、松阪には 駅鈴をかたどったもなか「鈴最中がある。
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松阪市三雲町の武四郎の生家
(津市在住の久保田としひろさん提供)
 松浦武四郎は17才から26才まで旅をしその間、家に帰らず沖縄と隠岐以外は全国を歩き生涯にわたり探検をしている。
長崎でロシアが蝦夷地を狙っている危機を知り、28才で蝦夷地に渡り、41才まで6回にわたり蝦夷の調査を行っている。
 アイヌの人々の協力で、6回の調査は樺太も含め1万キロメートルに及び、151冊の探検記録、9800におよぶアイヌ語の地名が書かれた地図がある。それには北方四島も描かれている。
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 2018.9 松坂市役所前
2018年の「松浦武四郎 生誕200年記念」の年に、北海道では北海道命名150年記念事業があり、武四郎はキーパーソンに選ばれた。
 北海道各地には、松浦武四郎の記念碑が60基近く建てられ、1500点余りの重要文化財の中には、幕末にアイヌ民族の女性から武四郎にプレゼントされた民族衣装もこの館あるという。
 山本さんは20年この館の学芸員を務め、松阪市・東京・北海道でも講演し、テレビでも武四郎を紹介している。
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山本命さん著『松浦武四郎 入門』は、本居宣長の書籍は多岐にわたるが、松浦武四郎はわかりやすい本がないことから、子孫の方からの、わかりやすい入門書を望む話から出来たという。
 松浦武四郎記念館は平成6年に開館し、現在リニューアル工事中で、令和4年4月下旬のオープンでは、松浦家から寄贈された貴重な資料を展示するほか、幕末の日本の歴史と共に武四郎の生涯の姿を紹介する予定である
武四郎から学ぶこととして、様々な価値観を受け入れ、偏見を持つことなく自分の目で大切だとインタビューを締めくくっている。

 
 続いて鈴鹿市文化スポーツ部文化財学芸員・代田美里さんに大黒屋光太夫の話をしていただいた。
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 紀州藩松坂城下の白子には、代官所が置かれ白子港から紀州藩の米を江戸に運び、輸送にあたる船には「紀」の字の印を掲かげることが義務づけられていた。「竹口家文書」の史料は、『鈴鹿市史』第五巻の「回船関係文書」にあり松坂木綿も運ばれ江戸との関わりは深かった。

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鈴鹿市若松の白子の浜にある井上靖氏が書いた光太夫の記念碑
(情報と写真は津市在住の久保田としひろさん提供)

 白子で船頭をしていた大黒屋光太夫の話になる。天明2年(1782)白子港から紀州藩の囲米を積み、17名を乗せた神昌丸は、江戸に向けて出航したが、暴風雨に巻き込まれカムチャッカのアムチトカ島へ流される。
 厳寒の過酷な中で生存者は6人となり、船を建造しシベリアを横断しイルクーツク到着時の寛政元年(1789)には、仲間は3人になる。
 光太夫は、現地の人と温かい交流でロシア語を覚え、ロシアから助成金をもらい生活していた。
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出典 国立公文書館デジタルアーカイブ
イルクーツクにはこの100年程前から日本語学校があり、光太夫日本語学校の講師を勧められるが帰国の願いが強く断った為、ロシア政府から助成金をもらえなくなる。
探検家キリル・ラクスマンフィンランド人)の援助で、当時の首都・サンクトペテルブルクへ行き、ロシア皇帝エカテェリーナ2世に帰国願いの許しを得ている。
寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われて根室へ上陸、ひと冬を過ごし、松前経由で江戸に送られる。
10年ぶりに日本へ帰国した光太夫の体験、情報をもとに『北槎聞略』が書かれ全国で読まれた。当時のロシア研究の最高峰で国の重要文化財になっている。
当時日本では知られていなかったオーストラリアの地図、スケート、紅茶を持ち帰り、ピアノの紹介もしている。
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鈴鹿はサーキットの他、華やかな春の祭りは歴史があり地域の誇りで、匠の里、ものづくりの里でもある。
伊勢型紙は鈴鹿市の白子地区を中心に生産されていたが、現在でも、型紙の99パーセントがこの白子地区で作られている。伊勢参りが盛んだったことから街道や宿場に関する資料も多く、東海道五十三次の45番目の庄野宿については、庄野宿資料館に宿場関係資料がある。

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代田さんが中心に開催している企画展

  これは3から4枚の和紙を柿渋で貼り合せ防水加工した「型地紙」に、専用の彫刻刀で様々な文様を彫り抜いて作り、江戸小紋や型友禅、印伝、茶碗などの染色用の型等に使われ、行商人が陸路で運んでいたという。