「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「北前船寄港地・船主集落の旅」第13回 酒田市・鶴岡市

第13回 酒田市鶴岡市

庄内酒田古文書館館長で地域史研究者 ・杉原丈夫さんのインタビューから紹介する。

 

杉原さんの近著『北前船と酒田』『絵図面の世界』の紹介と、酒田と薩摩の繫がりを本間郡兵衛と西郷隆盛の関係から話して頂いた。

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北前船と酒田』は、2013年に発見された「宮野浦阿部家の客船帳7冊」で寛政3年(1791)から明治29年(1896)までの酒田港に入船の記録を杉原さんが翻刻したもの。西廻り・東廻り・南海路、そして薩摩など九州の船が酒田港に寄港した記録である。

巻頭言には、鹿児島市志學館大学・原口泉教授が寄せられている。

酒田市丸山至市長が発刊に寄せての言葉、そして赤穂塩をFM番組で紹介した千原義春さん、このブログ筆者の私も祝辞を寄した。

 

 酒田港には瀬戸内海の塩や全国から特産品が運ばれ、上り船では最上川の水運で周辺の紅花や米等が酒田港に集積し北前船で運ばれていた。酒田港は西風が強く入港が難しく、蝦夷地に行くには酒田沖の飛島に寄港することが多いかったという。

そんなことから、飛島の鈴木家の客船帳には大量の記録が残っている。

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この客船帳が千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館に保管されており、2020年11月、私も閲覧したが杉原さんは70冊全を撮影していた。

 酒田の客船帳にはない高田屋嘉兵衛・薩摩の豪商濱崎家の記録がここにはあり、蝦夷地に向かう際、寄港していたことがわかる。この他、赤穂の塩田王・田淵家の記載もあった。

 飛島の客船帳は、富山市日本海文化研究所発行の『酒田市飛島・津国屋「御客船帳控」』と、長井政太郎氏の『飛島誌』がある。『飛島誌』は鈴木家の客船帳の集計のみなので、この客船帳も翻刻に期待が集まっている。

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『絵図面の世界』は、杉原さんが古書店で原画を購入し復刻したもので、天保年間の庄内藩の絵図など3部構成で、北前船研究にとっても貴重である。

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『絵図面の世界』(出典 秋田領国図)

私のブログ『北前船寄港地・船主集落の旅』第5回「 にかほ市能代市秋田県)」で、この絵図面を使い地名の由来の説明した。

 能代では1694年と1704年の2度の大地震で「野代」は壊滅的打撃を受けた。「野」は焼け野原の印象が強く、縁起が悪いと「能代」に地名変更の願いを出た記録があることからこの地図の時期がわかる。

また1689年、芭蕉が象潟に来た当時は西の松島といわれ、絵図でも潟が確認できる。1804年鳥海山噴火で潟が隆起し現在の姿になった事からこの地図の年代がわかる。

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杉原さん提供

北前船と酒田』には、本間郡兵衛のことも書かれている。

杉原さんは、本間郡兵衛研究会の会長で酒田と薩摩の関係を、本間郡兵衛、西郷隆盛から話していていた。 

 本間家に生まれた郡兵衛は、長崎で洋学の知識を得、英語が堪能だったことから、薩摩が必要とした人物だった。

 郡兵衛は小松帯刀に多くの上書し「薩州商社草案」もその一つで、日本で一番早く株式会社を考え提案していた史料。しかし、庄内藩から薩摩のスパイと疑われ、明治の改元される直前に何者かに毒殺された。

 庄内藩西郷隆盛とのつながりがあったことから、幕府側だったが軽い処分で終わった。このことから庄内では南洲語録「南洲翁遺訓」を自費出版し、全国に配布していた。

 杉原さんは、現在母校山形大学庄内地域文化研究所の研究員として「即身仏」の研究もされている。「即身仏」とは僧侶のミイラのことで、江戸後期の「鉄門海上人」は、湯殿山で修行をくり返し「即身仏」をめざした。

 杉原さんとは2016年9月酒田市資料館で、このブログ著者の私は初めて会い、2020年2月鹿児島の北前船寄港地フォーラムで再会した。f:id:chopini:20211109093049p:plain

 杉原さん提供

このフォーラムで、丸山至酒田市長が杉原さん作成の「酒田港北前船地図」と酒田の史料と私の企画制作した『酒田から全国帆船リスト』が、森博幸鹿児島市長に渡された。

コーディネーターを務められた原口泉志學館大学教授は、鹿児島もいよいよ北前船の仲間入りが出来たと話されていた。

 

 次に鶴岡市役所観光物産課 五十嵐崇さんに、「第27回北前船寄港地フォーラムin庄内山形」と鶴岡市の日本遺産の話をしていただいた。

 フォーラムは、酒田で第4回中日文化観光大連交流大会に続き、翌9月12日鶴岡市文化会館で開催し、翌日のエクスカッションは、酒田コースと、鶴岡コースがあると紹介。

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 鶴岡市は、山(出羽三山)、里(サムライシルク)海(北前船寄港地)の3つの日本遺産があり、北前船の構成文化財は以下のものと紹介している。

加茂港周辺の町並み
石名坂家住宅主屋・蔵(国登録、北前船船主の家屋及び蔵)
浄禅寺の釣鐘
善寳寺五百羅漢堂(国登録で531体の仏像も寄進で作られている)
致道博物館所蔵の北前船関連資料群(船模型、船絵馬、四爪錨、出船手形、船鑑札)
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浄禅寺の釣鐘(にかほ市の茂木仁さん提供)

 浄禅寺の釣鐘は、1790年に坂越(赤穂市)から運ばれたものだが地元坂越では知る人もなく、北前船の日本遺産が各地の歴史を発掘しつないだ一つ例である。

ブログ著者私は、鶴岡のエㇰスカーションに参加した。

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左が大貫さん(庄内刺し子を宣伝の為に着用している)


ギネス世界記録に認定されたことがある世界一の“クラゲ水族館”加茂水族館では、クラゲを見ながら専門家の解説があり興味深かった。また庄内藩主は釣り好きで、藩主の長い釣り竿が展示されていた。

 藤沢周平はこれを「海坂藩」小説で描いていたのを思い出し杉原さんに聞いた。

 出羽三山の国宝羽黒山五重塔のガイドは山伏姿で、一緒に回った山形市の大貫和春さんは、ここまで詳しく親切なガイドに出会ったことがないと話していた。

『名城巡りと北前船の旅』第41山形城のブログは大貫さんが語ったものだ。

 この放送から半年後、鹿児島のフォーラムのレセプションで五十嵐崇さんに会った。

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筆者 杉原丈夫さん 五十嵐崇さん(2020.02 鹿児島のフォーラムで)