「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

『名城巡りと北前船の旅』第62回岡山城(日生・牛窓)

第62回岡山城(日生・牛窓

はじめに、岡山市産業観光局 観光振興課 岡山城学芸員 小野田伸さんにFM番組のインタビューを紹介する。

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 岡山市観光連盟 提供

 岡山城日本100名城)は、秀吉の指導を受け宇喜多秀家が慶長2年(1597)に完成する。3年後、関ヶ原の戦いで西軍の宇喜多秀家軍は壊滅、小早川秀秋がその後を継ぐが2年足らずで病死し、池田氏に替わり幕末まで続いた。
 シンボルの「黒い天守」は第二次大戦で焼失したが、昭和41年に再建された。耐震工事が終わる2022年11月、郷里出身の歴史学者 磯田道史氏監修でリニューアルオープンする。

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  岡山後楽園提供

 岡山城の直下を流れる旭川の北側に、藩主が憩いと趣を楽しむ大名庭園として造られた後楽園は、水戸偕楽園・金沢兼六園と並び日本3庭園の一つ。水戸偕楽園水戸藩の江戸上屋敷の庭園の小石川後楽園と同じく中国の古典から命名された。 

幕末の藩主「池田茂政」は水戸藩主「徳川斉昭」の九男で、最後の将軍「徳川慶喜」の弟だった。

備前市の「閑谷学校」は岡山藩が庶民のために造った学校で、水戸藩の藩校「弘道館」等と共に日本遺産に認定されている。

 

閑谷学校
(小豆島の南堀英ニさんと2018.2)

 岡山藩は沿岸の埋め立てを加速させ、島だった児島と陸続きとなる。干拓地では綿、塩などが生産され、内陸からは紙、木材、年貢の米など特産品が舟で運ばれた。砂鉄は「まかねふく」の枕詞としてもちいられるほどの歴史があり、瀬戸内市備前長船が知られている。

 備前焼は茶陶器、置物、生活道具として普及したが、岡山藩が保護統制したため自由には各地には運ばれなかった。(備前市の日本遺産)

岡山藩が力をいれた湊に、下津井湊(現倉敷市)、日比湊(現玉野市)、牛窓湊(現瀬戸内市)、日生沖の大多府島(現備前市)、西大寺湊(現岡山市)がある。

次に備前市日生町 加子浦歴史文化館・学芸員 西崎美香さんの話を紹介する。

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 加子浦歴史文化館 (岡山市観光連盟提供)

 赤穂線日生駅前に小豆島へ発着する中日生港があるが、加子浦歴史文化館は日生諸島への定期船の発着所である日生港に近い。

 この館の「加浦」の名は江戸中期の参勤交代の諸大名に、水や薪を供給等・水主役の労役が課された日生の歴史に由来しており、西崎さんはこれを紐解いている。

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  (備前観光協会提供 提供)

 元禄10年(1697)、薩摩の島津公が参勤の航海中、暴風雨にあい大多府島に無事避難する。島津公は、「この島を譲ってほしい」と岡山藩主池田綱政に申し出たが、聞き入れられなかった。藩主綱政は東端にある大多府島の存在すら知らなかったが、この話から藩はすぐに大多府島整備に着手。

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 元禄防波堤 (岡山市観光連盟提供)

閑谷学校建設に関わった津田永忠の指揮のもと、翌元禄11年防波堤を完成させた。 300 年以上経過した今も残る「元禄防波堤」で、2段に石を組んだ直立式石積の構造である。

 この開港で、島に加子番所を置き移民を奨励し、幕府の用船、諸藩の航海の便に備える島になった。こうして、日生沖は岡山藩の公用船に対する水夫(かこ)労役奉仕の義務を課され、「加子浦」とよばれるようになった。


 やがて日生を拠点に廻船業を営み一代で巨万の富を築いた伝説がある、姓は末友、屋号田渕屋の話になる。

48隻の千石船を所有し、蝦夷地から九州やルソンまで活躍し交易を繰り広げた伝説は、岡山藩の公式文書に残っていない。これは密貿易をしていた為、藩の記録に残すことが出来なかったと考えられている。

 しかし昭和26年偶然、日生町西念寺の裏山で埋もれていた石碑が発見された。それが廻船で活躍していた田渕屋甚九郎を顕彰したもので、勘九郎の実在を証明する資料となる。

 勘九郎西念寺の本堂及び鐘楼、山門、庫裡修築を始め、地域の神社などを修復している。この碑文には赤穂市の浄念寺の記述があり、浄念寺の住職は勘九郎が残した文があると話している。

牛窓については牛窓神社宮司 ・岡崎義弘さんの話を紹介する。


 岡崎宮司は、牛窓の名の由来を『備前国風土記逸文』にある神功皇后から紐解き、古来より多くの船が立ち寄っている。

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 牛窓神社(2017.6)

 江戸期に入ると参勤交代・朝鮮通信使・廻船で賑わった他、
古くから木造船の技術があり、小さな漁船から千石船まで建造し多くの船大工が見習いに来ている。この技術は、牛窓の祭りで、船の形のダンジリに生かされている。

 

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牛窓海遊文化館で(2017.6)

筆者の牛窓の縁は、北海道余市の福原漁場に展示の坂越湊と牛窓湊の絵の写真を頂いたのがきっかけである。
牛窓の絵の場所を解明する為、岡山市の清須浩光さん、高祖良子さんと探し、牛窓の廻船についても調べたのは2017年だった。f:id:chopini:20211122171215j:plain

 牛窓神社の玉垣(2017.6)
この玉垣にある「中屋傳四郎」は、高祖さんの先祖の屋号で赤穂の塩田の地主でもあった。

 牛窓は1445年の「兵庫北関入船納帳」に、牛窓船133隻が入港するなどもっとも多く、その後の『備陽記』(1721年)でも、牛窓の廻船の活躍が掲載されていた。
 
しかし、『牛窓町史』(資料編2)では、牛窓1810年、船の小型化が目立ち、大型廻船が激減したとあった。瀬戸内市民図書館・館長学芸員・村上 岳 氏は、「牛窓の隣の尻海に大型船が集約され、牛窓湊は小型化し近海で生き残りをはかった」と話していた。浜田市の「諸国御客船帳」からも、隣の尻海が主流になっていたのがわかった。

最後に、山陽新聞社(岡山本社)相談役・越宗孝昌氏は、
2017年7月「第20回北前船寄港地フォーラムinおかやま」のシンポジウムが瀬戸内市牛窓で開かれ、後夜祭でもフォーラム実行委員長としてここでも開会の挨拶をされた。
 越宗さんは、大連と地元岡山との交流、北前船寄港地フォーラムが開催が役割されてきた意義を話す中で、これまで知らなかった地域と広がりについて語っている。この岡山市のフォーラム開催は、岡山市玉野市倉敷市瀬戸内市の4都市の共同開催だった。


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 岡山市にはあまり話題にならない西大寺湊(旧西大寺市)があり、津山城市下の吉井川の高瀬舟の終着の港である。津山には高瀬舟の発着跡がある。いずれ津山城下から調べてみたいと考えている。