第14回 南越前町
2017年北前船寄港地・船主集落として日本遺産に認定された南越前町から右近家に関わる3人のゲストを紹介する。
一人目は、南越前町の斡旋で「河野北前船主通り案内の会」会長・千馬仁視さんのインタビューからです。
(写真 南越前町提供)
南越前町は、福井県のほぼ中央、越前海岸の南に位置し、海の「河野地区」、山の「今庄地区」、里の「南条地区」の山・海・里(さんかいり)と、それぞれ異なる自然、歴史、文化に特徴がある。
(写真 南越前町提供)
このうち「河野地区」の北前船主通り200mほどに、右近家、中村家の2つの屋敷が建ち並ぶ。「北前船主の館・右近家」、国指定重要文化財の「中村家住宅」、いずれも日本遺産構成文化財である。右近家と中村家は支え合い姻戚関係で、中村家は幕末、沿岸警備の際、松平春嶽が宿泊し、扁額が残されるなど多くの記録が残る。
「北前船主の館・右近家」は、明治期に建てられた本宅や蔵で、右近家12代当主が、本宅等の廻船経営に関わる資料の展示を目的に、平成2年に一般公開した。
常設展示より (写真 南越前町提供)
右近家の成り立ちは、340年程前の江戸初期にさかのぼる。右近家の菩提寺「金相寺」3代目の次男が分家するに際し、田畑山林とともに船1隻を与えられ、初代右近権左衛門を名乗ったことに始まる。家督を相続すると代々権左衛門を11代目まで名乗り、現在は13代目だという。
右近家9代目権左衛門は次々と廻船を増やし北前船で飛躍する。
(写真 南越前町提供)
この蔵の提示物にある船絵馬には、右近家の持ち船「仁恵丸」が住吉神社と船霊の2つの神様が浮いているように描かれ、全国でも珍しい。
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(写真 南越前町提供)
現在の建物は10代目右近権左衛門の代、明治34年に建築された。
この背後の高台に、昭和10年(1935)に別荘として建てられた洋風の「西洋館」(日本遺産構成文化財)は、鉄筋コンクリート2階建(登録有形文化財)で、1階がスペイン風、2階がスイスのシャレー式建築で、「一度は訪ねてみたい洋館」に選出されている。
(写真 南越前町提供)
この西洋館は11代目権左衛門が、昭和恐慌のあおりを受け困窮する村人達の雇用を考え、造ったことから「お助け普請の館」と言われ、これは河野の誇りだと千馬さんは語る。
明治に入り時代の変遷を察し、大型蒸気船から明治29年日本海上保険を設立する。その後、11代目が昭和19年に日本火災と合併するなど近代化の波に対応し、廻船経営から転換し、右近家は難局を乗りきっている。
右近家は、芦屋の川沿いに住居を移したが、現在はこの敷地跡に30-40軒の家が建っていると、このブログ読者の方が教えてくれた。
姫路市の日本遺産構成文化財に、右近権左衛門らが寄進した「牛の石像」を以前紹介したが、千馬さんに他の地域についてたずねると、香川県の金毘羅神社で非公開の右近家の絵馬を拝観したとうかがった。
2人目は、右近家の菩提寺金相寺で生まれ育った書道家・右近桜月さん。
雅号「桜月」(おうげつ)の由来は、桜の品種「鬱金桜」からきており、右近さんの書道の師匠が雅号を考えられた。
右近家住宅を背景に桜月さんが筆文字を提供したポスター
(写真提供 右近桜月さん)
「命を吹き込む書道家」として人々にとって書を身近に感じてほしいと、魂を込め作品を制作している。
住職であった祖父の膝の上で3歳頃には鉛筆で名前を漢字で書くなど書に親しみ、4歳より筆を持ち習字教室に通い書の素晴らしさに魅了されたという。
地元福井県の1500年の歴史と伝統を誇る越前和紙の魅力を書を通して発信し、作品の全てに手漉きの越前和紙を使用している。
デジタルの活字に溢れる現代だからこそ、手から生まれるぬくもりを伝えたいという信念を持っている。
桜月さん書による福井国体限定の日本酒ラベル(写真提供 右近桜月さん)
小樽の北前船シンポジウムに明楽さんと参加した桜月さんは、沢山の人が来られていたのに、若い年代の人がいなかった事にふれ、アニメ等で若者に広め繋ぐ構想を話していた。
「右近桜月」で検索するとブログがあり右近家の歴史を沢山の写真入りで見る事ができる。
3人目は、現在福井市でカメイ珈琲店を経営している竹森政人さん。
竹森さんは学生時代、ウガンダ共和国コーヒーの生育過程、生産過程を目の当たりし、コーヒーにたずさわるようになったという。
その後、日本スペシャリティー協会のコーヒーマイスターを取得している。
竹森さんの母方の先祖は右近家の船頭で、その名字がカメイだった事から「カメイ珈琲」の名前にしたという。
カメイ家の大叔母は、小説『海萌ゆる』で三浦綾子文学賞にノミネートされ、最後迄その候補に残った。竹森さんから頂いたこの書には、北前船の船頭の流転の人生が描かれていた。
2018.7 北前船寄港地フォーラム(坂井市)撮影者 筆者
竹森さんは、2018年7月坂井市の北前船寄港地フォーラム会場のブースで、「北前珈琲」を販売していた。
また「北前船主の館 右近家」の西洋館のしゃれた雰囲気の一角で、「北前珈琲」の名で、1日限定10杯 販売したことがあった。
竹森さんが企画した「北前珈琲」は、コーヒー糖を運んだ右近家文書が発見されてから。
2016年5月4日、日刊県民福井新聞で以下のように紹介されている。
『南越前町の図書館に保管される右近家文書21,000点の文書の中に、右近家所有船の一つ永宝丸の仕入れ記録にコーヒー糖があり、「買仕切」と「売仕切」の記録を、右近恵氏が発見している。「コーヒー糖はどんなものか分からないが、船頭は北海道の得意先へのお土産として買い取ったのではないか」と右近氏はコメントを寄せている。これは明治時代のことである。
この新聞記事をブログで紹介するにあたり、河野北前船研究会会長でもある右近恵氏の貴重なお話をする機会を得とても参考になった。
右近家のコーヒーの話から、コーヒーはいつ頃から飲んでいたのか関心をもつようになった。
そんなある日、江戸時代から飲まれていた事が、2018年8月13日朝日新聞(東京版)夕刊一面トップに「江戸の香り コーヒー再現」のタイトルの記事があつた。
それは、北海道最北の稚内にコーヒー豆の石碑がある話から、江戸期のコーヒー事情について掲載されたものだった。
江戸後期、南下するロシアに対する危機感から幕府は、弘前藩などから蝦夷地警備に派遣していた。当時は「コーヒーが寒気をふせぎ、隠邪を払う」といわれ派遣された武士などに配られていた。薬のように飲まれたその記録が『蝦夷地御用留 第二 』にある。鎖国下、長崎の出島から「コーヒー」が津軽まで運ばれていた。・・・以下略』
当時、日本海を航行していた北前船に積み運ばれていたことが推測できる。
津軽藩兵詰合の記念碑 (幅1.7m、高さ1.4m、台座を含め幅6m、高さ1.5m)
(稚内市教育委員会提供)
稚内市の学芸員斉藤 譲一さんに尋ねたところ、これを建立したのは弘前市でコーヒー店を経営されている方だと写真も送っていただいた。