『名城巡りと北前船の旅』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の企画し紹介している

「名城巡りと北前船の旅」 第63回首里城

 第63回(首里城

沖縄には首里城、中城城(なかぐすくじょう)、今帰仁城(なきじんじょう)の3つの日本100名城と、座喜味城(ざきみぐすく)と勝連城(かつれんぐすく)の2つの続日本100名城がある。これらの城は、2000年何れも世界遺産に登録された。
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出典 沖縄県立図書館

 琉球王国成立の原点、浦添グスクは国史跡だか日本の100名城・続100名城に入っていない。
 この浦添グスクについて、沖縄県浦添市 教育委員会文化財課史跡整備係・仁王浩司さんに話をして頂いた。
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提供 浦添市文化振興課

 仁王さんは、浦添グスク跡の復元・整備工事、発掘調査や整備を手がけ、浦添考古学の第一人者。

 浦添市那覇市の北に位置し、この20年で人口は1万人程増加し、現在は11万人余り。「浦添」の名の由来は、津々浦々を支配する「浦襲い(うらおそい)」が語源で、これが転じて「浦添」があてられたという。
 
 
 14世紀までは、琉球は「北山」「中山」「南山」3つの小国で勢力抗争をしていた。最も有力な勢力が浦添グスクに拠点を置く中山で開祖である舜天(しゅんてん)で、後に英祖・察度(さっと)が王位をつぐ。中国との朝貢貿易を始めたのが察度王の頃で、現在の浦添市の牧港が中心だった。


 仁王さんの発掘調査では、長さ40cm・重さ5㎏もある高麗系瓦(“高麗の瓦職人が造った”との文字が刻まれた瓦)が沢山発見された他、中国の大量の陶磁器・日本の鎧なども発掘され「中山」 の海外交易の証となっている。
 
15世紀に入ると三山が統一され、都を浦添から首里に移した事から交易の港も浦添から那覇に移る。

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浦添グスク・ようどれ館内」提供 浦添市文化振興課 
浦添グスク・ようどれ館」では原寸大レプリカで英祖王の墓の内部を見ることができ、発掘された瓦などの品々が展示されている。

ようどれの語源は「ゆうなぎ」の言葉からきており、夕凪の静かな様子から王様が眠る所という意味で使われるようになったと考えられており、浦添出身の尚寧王が改修し自らも葬られている。
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提供 浦添市文化振興課

 NHKの歴史番組で、中城グスクで1458年三眼銃(火器)で発砲した弾痕の跡を紹介していた。

 種子島に鉄砲が伝来したのは1543年 だが、それ以前に琉球では、既に火器が使われていたのを知り、仁王さんの朝貢貿易の話が具体的に分かった。

 次は、那覇市歴史博物館の学芸員・外間政明さんに首里城琉球王朝があった時代を話をお願いした。    
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出典 那覇市歴史博物館

 沖縄のグスク(城)の特色は、サンゴ礁石灰岩で石垣や門が造られており、中国など大陸の影響をうけ、有名な守礼門などにその様式がみられる。
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戦前の守礼門 提供 那覇市
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2015.2
 首里城自体は日本様式の木造建築であるが、正殿の装飾など日本・中国の影響を受けつつ、琉球独自に昇華したものになっている。
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 (出典  沖縄県立図書館蔵像)
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米軍空撮写真 昭和20(1945)年4月2日(出典 沖縄県立図書館像)
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提供 那覇市

 琉球が、王国として独自の貿易ができたのは1609年の薩摩藩侵攻までで、以後は、中国のみの交易が許されていた。
 
 昆布を中心にアワビ・フカヒレ等の俵物による輸出で、中国、琉球、薩摩の中継貿易がさかんに行われ、中国福建省からは、生糸・反物・漢方薬の麝香などを仕入れていたが当初は銀で決済していた。

 蝦夷地から薩摩に、富山の売薬商人(薩摩組)や、薩摩藩の廻船によって運ばれて来た昆布は、琉球の昆布座に集積され、さらに中国に運ばれた。

 薩摩の御用商人が昆布を一括して琉球の昆布座に運び、その隣にあった薩摩藩の在番奉行所で薩摩の役人が取り締まりをしていた。

 昆布は、市中にも出回り食生活に影響をあたえ、豚肉とともに琉球料理には欠かせない食品になり日本遺産のストーリーになった
 富山と並び国内有数の昆布の消費地だが、沖縄には何故か昆布を使った出汁文化はなかったという。
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  琉球染織 (出典 沖縄県立図書館蔵)
 浦添グスクと首里城は、沖縄県で初めて認定された日本遺産の構成文化財である。
 そのストーリーは、『琉球王国時代から連綿と続く沖縄の伝統的な「琉球料理」と「泡盛」そして「芸能」』。

 中国使節団から伝わった独自の文化である舞踊・三線・陶芸・漆器・織物等も日本遺産の構成文化財

 那覇市歴史博物館では、本土復帰50年記念の企画展の計画がある。


兵庫県たつの市の「室津海駅館」(北前船の日本遺産構成文化財)に、琉球使節団が薩摩藩と立ち寄った時の絵巻が展示されている。 f:id:chopini:20220126061339p:plain
室津海駅館にある絵巻

 折しも、琉球使節団の「江戸上り」について志學館大学の原口泉教授が2022年1月18日の朝日新聞(鹿児島版)に寄稿された「琉球王国のシンボル 首里城の再建 平和の礎」のなかで紹介されていたのでその一部を先生の承諾を得て掲載する。

『江戸時代、日中両属を余儀なくされた琉球王国は、定期的に中国皇帝と徳川将軍に使節を派遣した。18回に及ぶ「江戸上り」は琉球王子が正使を務め、花尾神社(祭神は源頼朝と島津初代忠久の母丹後の局)と日光東照宮(祭神は徳川家康)へも参拝した。鹿児島と中国福州には、琉球館という王国の出先機関があつた。天保年間、鹿児島城下絵図には錦江湾に浮かぶ琉球櫂船と琉球館が描かれていた。(中略)

 首里城には、大国の心がある。その心とは「守礼之邦」の平和外交の伝統である。1458年、尚泰久王は「万国津梁」の鐘を正殿に掲げ、王国の繁栄をうたった。首里城が再建され、沖縄が東アジアの礎となることを期待したい』
 と締めくくられていた。
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出典 沖縄県立図書館

 尚、原口泉教授には酒田市沖の飛島の客船帳(佐倉市国立民俗歴史博物館蔵)を閲覧出来た日、薩摩の濱崎新十郎は琉球箱館等に支店をもち廻船業を営なみ薩摩藩に貢献した濱崎太平次の一族だと教えて頂いていた。