「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅」第68回 備中松山城(玉島)

 
岡山県立博物館館長(学芸員)だった田村啓介氏は退官後故郷高梁市教育委員会の参与として活躍中の方である。 
 「備中松山城」(日本100名城)は天守が現存する、国内に12残る天守の一つで「天空の山城」と言われている。高梁川の霧で、海抜430メートルの城が雲海に浮かんだように見え、兵庫県竹田城跡と比較される。

出典 岡山観光ウェブ
 近年、この城の飼い猫が住み着き「猫城主さんじゅうろう」として活躍し、城と共に高梁市の観光の目玉になっている。
 出典 岡山観光ウェブ
1642年この城に、水谷勝隆が備中松山藩主として5万石で入封したが、3代目の水谷勝美に継嗣がなく、お家断絶で元禄6年(1693)改易となる。
 幕府からこの城の引取役に播州赤穂藩の大石内蔵助が命じられ、備中松山藩家老、鶴見内蔵助との話し合いで、無血開城が実現する。2人の内蔵助の話は、後に歌舞伎にもなったという。この8年後、赤穂藩もまた無血開城でお家断絶に大石内蔵助が関わることになる。写真の説明はありません。
2015年3月備中松山城 筆者 
水谷3代47年にわたり、高梁川で運河「高瀬通し」(倉敷市船穂~玉島港間)の整備、飛び地の玉島港(現倉敷市)を干拓し新田開発をする等、城下の整備に力を注い藩の基盤を築いた。
干拓地に出来た玉島では綿花栽培を奨励し、西廻り航路では鰊カスがくる港で賑わった。
 
 城主水谷公が玉島開発の礎を築いたことから、玉島港の高台にある羽黒神社に「水谷神社」の御霊が祀られている。水谷氏の城下整備から160年ほど後、藩は10万両の借財に苦慮していた。
 山田方谷(1805~1877年)は、財政改革でこの借財を10万両の蓄財に7年で実現させた。
 農民で儒学者山田方谷を登用した7代藩主板倉勝静は、松平定信の孫だった。
 勝静は最後の将軍徳川慶喜を支え、老中首座を務めたこともある。
 特産品(鉄・煙草・漆・和紙・吹屋弁柄)は、高梁川高瀬舟で下り、玉島港から運ばれた。中でも、「備中鍬」は江戸でのヒット商品になった。(馬や牛を飼えない農家にも必需品だった)。山田方谷は多くの人材を育成、国内最古の郷学「閑谷学校」の再興、三島三州(二松學舍創学)等を育成。JR伯備線方谷駅」の駅名がある。
 この方谷を題材にした大河ドラマを求め、100万人の署名があったことも紹介している
 

 続いて、その倉敷市から日本遺産推進室・藤原憲芳さんに話していただいた。
藤原さんは、2回にわたりブラタモリで案内役を務めている。

 備中松山城日本100名城)の初代藩主水谷勝隆が、飛び地だった玉島の地形に着目し、点在する小さな島々を干拓し、堤防を築き玉島港を開く。この玉島港と高梁川の間には「高瀬通し」といわれる運河も造っている。

 海岸沿いの堤防には商家や土蔵が次々と建てられ、43の問屋やその蔵が立ち並んでいたという。残っている町並み保存地区は、日本遺産構成文化財に認定されている。
 
良寛会館の前から見る玉島のまち並み(2019,11)
 
かつて海岸沿いの堤防に北前船が横付けし、綿花の肥料・〆カスが北海道から運ばれ、積み荷を降ろしていた。最盛期は西の浪速といわれ、備中一の賑わいだったという。

備中松山藩は良質の砂鉄がとれたことから「備中鍬」の特産品を、高梁川の舟運で35キロメートル下流の玉島港から江戸、大坂に運び山田方谷財政再建を果たす。


高梁川の舟運 国土交通省のHPより

玉島には、廻船問屋に関連する「書」と「茶」と「和菓子」の文化が多くのこされている。江戸期は400程の茶室があり、廻船問屋や船主のもてなし等の商談に使われた。
 現在も、40の茶室が保存され、茶の湯文化が生活に根を生やしている。
 
 毎年春に良寛茶会が開かれ、良寛は玉島でも親しまれている。
 
 新幹線新倉敷駅(旧玉島駅)の良寛像(2019.11)

 玉島や下津井では埋め立て地で綿花栽培していたことから良質の綿が大量に生産された。

 足袋の生産では、大正期には2000万足に及ぶようになる。足袋の需要が減少すると、児島地区では学生服の生産で、国内メーカーの90%を占めるようになっていく。
 戦後、縫製技術から国内で初めてのジーンズを作ったのが1965年で、更にストーンウオッシュの技術を見出しブランドになった。
 
 児島地区のジーンズ街 出典 岡山観光WEB

 倉敷美観地区にある洋風の美術館は、クラボウの紡績工場跡地である。