
続いて、その倉敷市から日本遺産推進室・藤原憲芳氏に話していただいた。
藤原さんは、2回にわたりブラタモリで案内役を務めている。
備中松山城(日本100名城)の初代藩主水谷勝隆が、飛び地だった玉島の地形に着目し、点在する小さな島々を干拓し、堤防を築き玉島港を開く。この玉島港と高梁川の間には「高瀬通し」といわれる運河も造っている。
海岸沿いの堤防には商家や土蔵が次々と建てられ、43の問屋やその蔵が立ち並んでいたという。残っている町並み保存地区は、日本遺産構成文化財に認定されている。
良寛会館の前から見る玉島のまち並み(2019,11)
かつて海岸沿いの堤防に北前船が横付けし、綿花の肥料・〆カスが北海道から運ばれ、積み荷を降ろしていた。最盛期は西の浪速といわれ、備中一の賑わいだったという。
備中松山藩は良質の砂鉄がとれたことから「備中鍬」の特産品を、高梁川の舟運で35キロメートル下流の玉島港から江戸、大坂に運び山田方谷が財政再建を果たす。
玉島には、廻船問屋に関連する「書」と「茶」と「和菓子」の文化が多くのこされている。江戸期は400程の茶室があり、廻船問屋や船主のもてなし等の商談に使われた。
現在も、40の茶室が保存され、茶の湯文化が生活に根を下している。
毎年春に良寛茶会が開かれ、良寛は玉島でも親しまれている。
新幹線新倉敷駅(旧玉島駅)の良寛像(2019.11)
玉島や下津井では埋め立て地で綿花栽培していたことから良質の綿が大量に生産された。
足袋の生産では、大正期には2000万足に及ぶようになる。足袋の需要が減少すると、児島地区では学生服の生産で、国内メーカーの90%を占めるようになっていく。
戦後、縫製技術から国内で初めてのジーンズを作ったのが1965年で、更にストーンウオッシュの技術を見出しブランドになった。
児島地区のジーンズ街 出典 岡山観光WEB