「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「北前船寄港地・船主集落の旅」 第15回長岡

第15回 長岡

 新潟の港の歴史を紹介している新潟市歴史博物館・学芸員 安宅俊介氏に、長岡藩領だった頃の信濃川左岸河口、新潟港の話をしていただいた。

 写真の説明はありません。

 提供 新潟市歴史博物館

 長岡藩は、新潟町の港に元和2年(1616)奉行所を置き港を管理していた。

 河村瑞賢が西廻り航路(1672)の開発以降、北前船で賑わう港になり各地からの入港税・廻船をはじめとした上納金で、長岡藩の繁栄は200年近く続いていた。

 この繁栄の中、新潟港沖で薩摩船が唐物や松前の俵物等の抜け荷(密貿易)が幕府に摘発された。長岡藩は薩摩船の抜け荷の取り締まりをしていなかったとして、新潟町は上知され天保14年(1843)幕府領となった。

 新潟港   提供  新潟市歴史博物館

 新潟町に幕府直轄の新潟奉行所が新設され、初代奉行に川村修就(ながたか)が江戸から派遣された。川村修就は、薩摩の抜け荷の真偽を調べた文書『北越秘説』を残している。

 

 安宅氏はこの館にある『北越秘説』から、薩摩船は新潟港には年間約6隻が入港し、積み荷のさつま芋や砂糖の下に唐物を隠し薬種、朱などの抜荷を大量に持ち込み、新潟から各地へと売りさばいていたと話をしている。現在、川村家の史料のうち、おもに江戸時代のものは、新潟市歴史博物館が所蔵している。

出典 新発田市立図書館

 幕府領になった新潟港は、幕末に開港され、箱館、神戸等開港5港の一つになった。

 

 次は、長岡市立科学博物館学芸員・加藤由美子氏に、新潟港から得る収益が無くなったその後の長岡藩の話と平成18年に長岡市ろ合併した寺泊について話して頂いた。

この科学博物館には、動物・植物・昆虫・地学・歴史・民俗・
考古・文化財の 8 部門があり、加藤氏は文化財の担当である。

 

 長岡藩は、 新潟港から得る収益が皆無になったことなどから財政難に落ちいっていた。継之助は藩の改革で、長岡藩の累積赤字を解消させ、多額の剰余金を持つまでになるが、この改革は米百俵の小林虎三郎に受け継がれる。

 継之助は文政10年(1827)に長岡藩士の家に生まれ、33歳で生涯師と仰いだ備中松山藩(現高梁市)に財政等を学んでいる

 

 戊辰戦争で、長岡藩の軍事総督となっていた継之助は、幕府方にも新政府方にもつかない「中立」を主張し、長岡藩独自の生き残りの道を目指した。しかし、結果的に新政府軍と戦火を交えることとなり、継之助自身も42歳で命を落とした。

f:id:chopini:20220602083716j:image
2020東京オリンピック開催に合わせつくられたチラシ(加藤氏提供)

 コロナで延期になっていた継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『峠』(役所広司主演)の映画が、いよいよ2022年6月17日、全国に一斉公開される。

   長岡市の北前船寄港地フォーラムで 2018.9

この映画化の話は、平成30年長岡で開催された北前船寄港地フォーラムでも取り上げられ、河合継之助や小林虎三郎の「米百俵の精神」がフォーラムのメインテーマとなった。

 

写真は河井継之助記念館の稲川明雄館長の講演(赤穂ロイヤルホテルで2018.11)

(長岡のフォーラムから2か月、赤穂市で開催された「坂越の北前船寄港地セミナー」で、河井継之助記念館稲川明雄館長(当時)が、継之助の財政再建を赤穂塩の付加価値の例から講演している。)

f:id:chopini:20220601171323j:image

寺井秀光坂越まち並みを創る現会長、稲川館長、筆者 門田守弘坂越まち並みを創る会前会長

 戊辰戦争に敗れ、困窮する長岡藩に支藩(三根山藩)から救援米が贈られた。

 小林虎三郎は、「食べられないときにこそ、教育に力を入れなければならない」と、見舞いの米を食べずに国漢学校を開校する資金に充てた。これが「米百俵の精神」で「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の礎となる」という思想は、その後の長岡空襲、中越大震災などの災禍に何度も遭いながら、その都度復興を遂げてきた長岡のまちづくりの指針や人材教育の理念となり長岡で生かされている。 


 毎年8月に行われる長岡の大花火大会は、昭和20年8月長岡空襲で亡くなった人への慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いが込められている。 

出典  ウキぺリア

寺泊は2006年に長岡市と合併するがその8年後、寺泊で「第10回北前船寄港地フォーラム」が開催された。

 

 提供 加藤由美子氏

 寺泊の日本遺産構成文化財の「寺泊おけさ」は、熊本天草のハイヤ節の流れを汲み、三味線と打楽器が一緒に演奏しているかのような独特の音色で、歌詞にわざと残響を抑えて弾く「殺し撥」という三味線奏法に特徴があるという。

 この歌詞に「佐渡へヤー エヤー  八里のさざ波越えてヨ  鐘が聞こゆるヤーレ寺泊」がある。この歌詞から、江戸から佐渡へと送られる無宿人の港として、信州からの陸路を海路で結び、奉行、役人などの渡海場としてもにぎわい、遊郭や芸妓さんの出番が多かった話していた。

 

 加藤氏は、長岡の誇りである継之助の生き様を描いた映画『峠』をご覧になり、継之助をはじめとした、当市が誇る歴史・文化に触れていたき、多くの皆様が長岡市にお越しいただきると幸いですと締めくくった。