「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅」第71回利根川の舟運①

利根川の舟運①

群馬から埼玉そして千葉の太平洋に流れる利根川沿いに、続日本100名城の沼田城と日本100名城(箕輪城、鉢型城、忍城、佐倉城)そして関宿城があった。また利根川の東遷で活躍したのが佐原の伊能忠敬だった。 

今回は沼田城と関宿城を紹介する。

 はじめに群馬の沼田城について、沼田城歴史資料館・館長 小池雅典氏に話して頂いた。小池氏は、市の文化財保護課で学芸員として35年勤務し遺跡の発掘調査に関わってきている。

 


  沼田城絵図 出典 国立公文書

 沼田城が、「天空の城下町」といわれているのは、段丘下にあるJR沼田駅と、段丘上の城跡と城下町は高低差が80m以上もあり、年に数回、利根川とその支流の薄根川に川霧が立ちこめ、高い段丘上にある城跡と城下町が宙に浮かんでいるかのように見えるからだという。

 沼田の特産品は姫小松・黑檜木・竹などで、利根川を利用して輸送されていた。 上流の利根川は急流で瀬が多く舟が上がれない為、下りの一方通行で、木材は筏に組んで下流へ流し、川幅が広がる中流域で大きな筏に組み直し、江戸などへ送られた。

 

出典  国会図書館デジタルアーカイブ

 この中で、江戸両国橋の架け直しに使う資材を真田信利氏が請け負ったが、木材伐りだしの遅延と失政を幕府にとがめられ改易となり、長男真田信就は赤穂藩浅野氏へ預けられた。

 この為、真田氏は90年と短く、天和2年(1682)沼田城は破却され、堀も埋められ、その後、沼田は一時天領になった。

 

国土交通省HP

 利根川は東遷(写真)で銚子に流れが変えられたが、江戸後期には柵木の需要が急増し、年間千本以上が送られていた。

 沼田市歴史資料館は2019年、7階建ての商業ビルを改修した複合施設「テラス沼田」に市役所が移転し、その2階にオープンしている。

 「天空の城下町 沼田の歴史をたどる」をコンセプトに、原始・古代から現代までの沼田の歴史の他、空撮した動画や河岸段丘のジオラマ、そして城の建物に使用された金箔瓦を含む瓦、陶磁器など発掘調査で出土したものを常設展示している

  「名城巡り」で沼田に来られた節は、この歴史資料館にも寄って欲しいと小池氏は話していた。

 

次に 「利根川上流の舟運」に続き、千葉県立関宿城博物館学芸課長・尾崎晃氏に「利根川の東遷」とその水運について話していただいた。

 尾崎氏は近世史が専門で、佐倉市の国立民俗学博物館を経て2013年4月関宿城博物館に着任。

  関宿城博物館  工楽隆造氏提供

関宿城博物館は、野田市関宿三軒屋(千葉県最北端)の利根川と江戸川の分流点の堤防上にある。ここから少し南にあった関宿城天守を模した4階建ての建物で、平成7年に開館している。
 
 家康は江戸に入封すると、江戸湾に注いでいた利根川本流を銚子につけ替え工事を開始する。これは洪水対策、新田開発、水運の拡大が目的で、東遷工事の完成には60年かかったという。渡良瀬川、鬼怒川等も利根川に合流させ、利根川と江戸川の分岐点になったのが関宿である。
 

利根川の東遷で東北地方の物資は、銚子で荷下ろしされ高瀬舟に積み替え、利根川をさか上り、関宿から江戸川を下り江戸へ運ばれた。
 関宿には「河岸」(船発着場)が四つあり、水陸両面で交通と物流の要衝になり、河岸問屋の蔵が建ち並び、茶屋、旅籠、遊郭などで賑わう城下として発展する。江戸への物資の輸送の必要から利根川水運は盛んになり、その主役高瀬舟は舟底が平らで、水深の浅い川でも運行することができた。江戸後半には工楽松右衛門帆が使われるようになり、たくさんの舟が往来するようになる。

松右衛門帆を使った高瀬舟 提供 関宿城博物館 

 

 工楽松右衛門帆の生地  提供 関宿城博物館 

この博物館では、米1300俵ほどを積載できた横幅3メートル・長さ10メートルの高瀬舟の大型模型を、展示室の中央に配している。この両脇に河岸問屋と醤油蔵の模型を展示している。

 

明治に入ると蒸気船も利根川を往来するようになり、東京湾から江戸川を上り、関宿から銚子まで22時間で行けたことも尾崎氏は紹介している。
 関宿城博物館に展示されている松右衛門帆については2022年4月に発売された『工楽松右衛門伝』で紹介している。