「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅」第69回 対馬(長崎県)と田代(佐賀県)

 第69回 対馬長崎県)と田代(佐賀県

長崎県対馬歴史研究センターで近世史を研究されている学芸員 丸山大輝氏のお話から紹介する。
 長崎県には日本最多971の島があり、対馬壱岐・五島は大陸との最前線に位置し、国境の島だったことから文化財が数多く残されていると話が始まる。

お城EXPO2018横浜 対馬市教育委員会村瀬氏
  対馬は、「国境の島 壱岐対馬・五島~古代からの架け橋~」のストーリーで日本遺産に認定され、その構成文化財に金田城跡や金石城がある。

金田城跡(続日本100名城)は、7世紀に建造され日本で一番古い城である。

 

金石城
 金石城は対馬藩主宗氏の居城で政庁だったが東隣に新たに桟原城を寛文5年(1665)に整備・拡張され藩庁としていた。

対馬藩お船江跡
 「対馬藩お船江跡」(日本遺産構成文化財)は藩主の乗る船の船溜まりの跡で、藩の船を「船江」に格納し、管理は「船奉行所」がした。「船奉行」を筆頭に「船手」や「船大工」の組織を置き、幕府と朝鮮王朝を取り持つ窓口とし、外交の実務や参勤交代を担った。

 



f:id:chopini:20220707103136j:image

対馬から見える風景(原口泉志学館大学教授提供)

 現在の釜山に、長崎出島の25倍の広さの土地に「倭館」と呼ばれた日本人居留地を置き、500人以上の対馬藩士、対馬島民を居留させ、対馬藩と朝鮮との貿易を行なっていた。

 鎖国という言葉はあるが、丸山氏は、長崎・薩摩(琉球)・松前・対馬の「四つの口」で海外と交易をしていた話す。

18世紀の釜山浦草梁倭館

輸入品は中国産の生糸、絹織物、朝鮮人参で、主な輸出品は銀や長崎貿易で入手した産物だった。

 対馬は平野や河川が少なく米がほとんど採れなかった為、朝鮮からの輸入と現在の佐賀県鳥栖市の田代領の飛び地から運ばれた年貢米が主だった。

 対馬歴史研究センターは、平成29年に休館した長崎県対馬歴史民俗史料館の機能を受け継ぎ、江戸時代に対馬を治めた宗家の「対馬宗家文庫史料」約8万点をはじめ、対馬の歴史資料を保管・研究する施設。朝鮮通信使の行列を描いた「朝鮮国通信使絵巻」はこのセンターに所蔵である。

狩野安信『朝鮮通信使大英博物館蔵1655年・承応4年

丸山氏は、韓国までは50キロメートル、日本本土から100キロメートルある対馬を日本遺産などの文化財からアピールし、対馬の歴史について詳しく知りたい方は対馬歴史研究センターに是非、来訪してほしいと話していた。

 (対馬の写真はウィキペディアを使用)

(写真は原口氏提供)

この碑には、1905日露戦争でロシアのバルチック艦隊を殲滅。撃沈した水兵143名が対馬に上陸した時、島の人は水兵達を手厚く持てなした。地区住人により明治44年建建立されたと記されている。

 

続いて、丸山氏のインタビューにあった「田代領」の米について、重松正道氏に話して頂いた。
 重松氏は田代米研究の第一人者で、鳥栖郷土研究会で日本近世史、交通史を研究されている。2回のインタビューから田代米を搬送した坂越廻船(赤穂市)について紹介する。

 対馬は中世から朝鮮貿易をしていたが秀吉の文禄の役(1595年)の後、朝鮮貿易が断絶した損害補償と戦功の意味で、薩摩藩出水郡(鹿児島県出水市)から1万石を拝領した。その後、島津氏へ返還され、代替地として「田代売薬」で知られる田代(佐賀県鳥栖市の東半分)を拝領し、対馬藩の飛び地となった。

 当初、田代米は馬で博多まで運び海路で対馬に運ぶのが主流だった。それが承応4年(1654)より筑後川水運で赤江から小船で運び、久留米の住吉辺りで大船に積み替えた。

筑後川の上流から河口まで72キロメートルには、久留米藩筑前藩の藩領が面し、篠山城を擁する久留米藩は防衛上で他藩の川舟運航をきらい、問題も多かったという。

(史料提供 重松氏)

延宝5年(1677)以降、水屋濱→瀬の下(久留米)→※橋津(榎津・若津)→対馬(長崎・大坂)の有明海大廻りルートになった。 

(史料提供 重松氏)

対馬藩は輸送に自国船はほとんど使わず、朝鮮から輸入した朝鮮人参等を大坂や京都の蔵屋敷を通じて販売し藩の財源にしていた。
赤穂市史」には、1716年以降、対馬・大坂への田代米22000俵を坂越の廻船が一手に引き受けた記述がある。

 

 重松氏提供 田代覚書
 重松氏は『青木家文書』から、田代側に残された坂越の事例を紹介している。
 「文政13年、朝鮮国からの輸入米が暴風雨にあって漂流したので田代領からの米が一層重要性を増した。そこで一番船は8月下旬~9月上旬の内に到着してほしいという意味である。「当秋廻米積船注文覚」によると、毎年廻送している22000俵を一番から7番船で廻送し、大坂廻米の1300俵程は3番船で廻送する。このことを坂越船持中へ伝えてほしい旨を諸冨津の赤穂屋(廻船問屋)へ仰せ付けられた。また、注文書写を同封して、例年どおり播州赤穂坂越浦船主と船頭衆へ飛脚を差し立て、書状が届けられた。
 下関の虎屋(虎屋惣兵衛・本業は瀬戸物屋)へは廻船の中継連絡を依頼していた。何度も書状を出したがようやく7月28日発信の返事がついた。
両家手持ちの船は出払っており、9月上旬着は難しいので一番船は他船を利用してほしいという返事である。田代役所からも坂越船が遅れるなら他船を借りるような指示があったので坂越両家及び虎屋には今後の船繰をたのむ一方、諸富に行き、柳川領の船を借りるめどがついた。10月5日にやっと坂越と話がついた。
 小市丸船頭庄左右衛門の書状が下関より飛脚が到来したのである。小市丸は21日に下関に着き、直ちに当地へ出発。近日中に当地へ廻着する。また、その後住徳丸が近日下着するというのである。  

また、坂越廻船が田代米輸送の合間に北国米を廻漕していた記載もある。これはおそらく、酒田等に赤穂塩を運んだ帰り米を廻漕していたと考えられる。(酒田市史には1670年代から坂越の廻船の記録がある)

 下の写真は1740年の船賃銀表(坂越大西家本家の安永家蔵)である。
坂越を起点に、北は松前、西は対馬、南は薩摩まで71地域に及んでいる。
 

(左7行目に田代から対馬までの船賃銀は、田代が唯一の起点になっている)

坂越廻船が田代米廻送から撤退した理由として、対馬藩の借銀回収が難しくなっていった他、米などの運賃積から、塩輸送にシフトしていったのが考えられるとしている。

対馬藩は朝鮮からの漂流者を長崎から本国に返す仕事もしていた。田代領では、長崎街道の宿場の役割の他、山陰や九州諸藩領などの漂流民を引率する役人を迎接する役目も担い、長崎護送・出先に「往復書状」のやりとり等の情報も共有をしていたとしている。