「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

名城巡りと北前船の旅第73回 津山藩の舟運と西大寺港

名城巡りと北前船の旅第73回 津山藩の舟運と西大寺港

 

 津山城近くの津山郷土博物館・学芸員 東万里子氏に津山藩の飛び地小豆島で、元赤穂藩士、鞍懸寅二郎の活躍について取材し文献も見せて頂いたのが2017年12月だった。

 

  津山徳森神社の小豆島の常夜灯(筆者)

 

 東氏に津山藩の藩政と舟運についてFM番組の話をベースに紹介する。  

 津山藩初代藩主・森忠政は、慶長8年(1603)、美作国18万石余りを与えられると、津山城を拠点に城下のまちづくりに取り掛かり、治水対策として吉井川左岸に堤防を築き、船着き場を整備している。

 船着き場の周辺に舟運関係者に加え旧領や近隣の町から商人や職人を集住させ、吉井川沿いの船頭町の名が残っている。 

 津山城下の発展におおきく寄与した高瀬舟は、吉井川上流から年貢米や特産品を西大寺港まで運んでいた。一部は大坂・江戸などに廻漕され、上り舟は塩などの海産物、醤油・酒などが運ばれた。

 川を上る時は、帆を張り風の力で進み、風の力だけで進めない所では、舟に綱をはり、川岸から綱を引っ張って上流に引き上げていたという。

 吉井川の舟運は、室町時代から発達しており、慶長9年(1604)京都の豪商、角倉了以は河川交通の視察の為、吉井川を訪れ、急流を逆行する平底の高瀬舟をみて、これを範として京都等で就航さた東氏は話していた。

『図説岡山県の歴史』(河出書房新書)には、大堰川・富士川・天竜川・高瀬川などを開鑿、高瀬舟を就航させ、舟運による物資流通の基礎を確立し、それが日本全国へ伝播したと、「角倉了以翁碑」から紹介している。

 

  

  津山市船頭町の吉井川沿いにある高瀬舟乗場跡には西大寺港の名が見える。(筆者撮影)

 

またこの書には、延宝7年(1679】に吉井川岸の吉井村から平井村まで約17メートルの倉安川がつくられ、開通直後の50日間で1000隻が交通していたと池田文庫「御留長評定書」の文献から紹介している。

 

 

 

岡山商工会議所西大寺支部・支所長 内田薫氏

(国土交通省のHPより)

岡山藩領内では室町時代から瀬戸内海で廻船が活躍していたのは広く知られているが、

吉井川下流の西大寺での廻船についてその研究をみつけることが出来なかった。

 

 そんな中、2023年2月沖縄での北前船寄港地フォーラムに、岡山商工会議所の松田久会頭に西大寺の舟運と北前船について詳しい方を紹介をお願いしていた。

 

 岡山商工会議所西大寺支部・内田薫支所長を紹介していただき、明楽氏の番組で話していただいた。

 西大寺市は、昭和44年岡山市と合併し岡山市東区西大寺となり、最寄駅はJR赤穂線の西大寺駅。

 

(

 金陵山西大寺観音院(2023.7筆者)

 

西大寺の名は、金陵山西大寺観音院が由来で、この大切な年頭行事に西大寺会陽「裸祭り」(国の重要無形民俗文化財)から打田氏は紹介している。

 2023年の開催で連続514回目となり、その始まりが1509年だったのが分かる。裸衆の参加数は1万人で観客は3万人の来場があり、コロナ禍の3年間は争奪戦を見送り、観客を入れず宝木の授与を行っていたことから来年の会陽に期待を寄せていた。

 西大寺の北前船入門セミナーイで(2023年7月)

この「裸祭り」の絵馬に注目したのが、岡山商工会議所の松田久会頭だった。本堂大床の東壁面に明治10年に奉納された「狩野永朝会陽絵馬」があり、縦3.3メートル、横5.16メートルにも及び、そこに見られる北前船の船影として船尾が見ることができるという。

    沖縄での北前船寄港地フォーラムでの岡山市のブースで

 内田氏は港跡の調査で、九蟠港から西大寺の干拓前の海岸線に沿って、常夜燈や、舟をつないだエノキを確認している。

 この「九蟠港」について、岡山県刊行(1928年)の「港湾調査報告」から紹介している。

「本港は明治初年頃より19年頃迄、毎年秋季に至り北海道より魚肥を積載し千石船數隻入港し陸揚、又は本港を経て近港へ移出するに1ケ月以上碇泊するを常とする。又和歌山地方より木材、線香粉等を移入し、作州からは茶、木炭、木材等を移入する等、吉井川の舟運を利用した。」

『九蟠村史』(岡山市立公民館九蟠分館刊行 1971年 )には、「北海道から魚肥を積んで来る、北前船純日本古来型の大巨体の私船で、一かかえもある一本柱に真帆を掲げ船首に大きな総をさげ入港して来る姿は、何ともいえぬ威勢なものである」と記載があるという。

 江差町関川家の1753年の『永代客船帳』に、「備前沖新田板屋源五郎様、御船頭源七郎様」、青森野辺地町五十嵐家の『久星客船帳』(1790~1870)に「西大寺町平野屋平吉」の行安丸の名前が見えるという。これは『岡山県史 第7巻 近世Ⅱ』に述べられいるたことは、内田氏の調べでわかったものである。

 

 

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 久山雅生氏提供 (中福町町内会 会長)

 
西大寺周辺は門前町として発展し、周辺の経済の中心に賑わい、中でも五福通り一帯は、軒先を切った看板建築の建物群が残っている。この景観は「ALWAYS三丁目の夕日」など多くの映画やテレビのロケ地として活用されている。

  (写真を提供していただいた久山氏の実家がこの一角にある)

 また西大寺文化資料館には「弁財船の模型」や、綿花などの展示があり、北前船に関心のある方は是非訪ねてほしい。

 

 打田氏が全国の客船帳を調べる中、酒田市の杉原丈夫氏が発行した2冊の客船帳から、西大寺の足跡の他、吉井川上流の津山藩の村に昆布が運ばれてきたとことを町史にその記述も発見している。

今後はこの歴史的事実を背景に北前船の寄港地として日本遺産の追加認定に期待を寄せていた。