「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅」第64回 広島城(宮島・安芸津)

 第64回 広島城(宮島・安芸津

始めは、日本100名城広島城について広島市文化財広島城主幹学芸員・小林奈緒美さんの話です。

広島城(2016.7 筆者撮影)

 吉田郡山城安芸高田市日本100名城)城主だった毛利元就の孫輝元は、山城が主流だった時代に、海に近い「五箇村」に城と城下が一体となる広島城を築いた。

 これは豊臣秀吉に京都聚楽第大坂城で謁見したことが影響していた。

 輝元は、水陸交通の重要性から、太田川のデルタ地帯を選び、築城開始と同時に大規模な干拓事業に力をいれ、城の周りには家臣や町人が住む城下町を作り広島発展の礎を築た。

f:id:chopini:20220222070815p:plain 安芸国正保城絵図(出典 国立公文書館デジタルアーカイブ  広島藩が作成した正保元年(1644)の地図で、広島城下の町割・山川の位置・形が詳細に記載があり国指定重要文化財である。

  「五箇村」の地に築いて「広島」と名付けた由来について、「広い島」がある等の説を紹介している。 輝元は、関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれたことからこの戦い後に山口に移封され、その後福島正則そして浅野長晟が入封した。

 浅野家は明治まで約250年にわたり広島を治め、輝元に続き新田開発・大規模な干拓を推進した。

 また舟運に加え、御手洗港で大がかりな石積み・雁木を作り海岸線を埋め立て、尾道では広島藩士平山角左衛門を派遣し、住吉浜を埋め立て港の拡大に力を入れた。

 広島藩赤穂藩浅野家の本家だったことから、1646年赤穂から2人の技術者を竹原に招き、いち早く「入り浜式塩田」を取り入れ、安芸津等で普及させた。

f:id:chopini:20220220182457j:plain  原爆投下前の広島城の絵葉書(出典 広島市デジタルアーカイブ    広島城は、昭和6年天守閣が国宝に指定され、昭和20年原爆の爆風で建物が倒壊したが石垣及び内堀は残った。天守閣は昭和33年に復元され、平成元年に資料や模型等で広島の歴史を伝える広島城博物館になった。

2021年、毛利輝元広島城入城430年目の企画展が開催された。

 

次は、廿日市市の宮島歴史民俗資料館学芸員・順田洋一さんの宮島の話です。

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(出典 ひろしま観光ナビ)

 厳島神社は、原爆ドームと同じ平成8年に、国内では8番目に世界遺産登録された。現在のような海上社殿となったのは平清盛の時代である。

f:id:chopini:20220222111114p:plain (明治時代の厳島神社 国会図書館デジタルアーカイブ

毛利氏時代は代官として役人が塔ノ岡に屋敷を構えたが、浅野氏時代になると宮島奉行所を置き保護した。

 広島城下の港は着岸地点が狭いことから宮島が広島藩の外港になり、燃料源である薪等を城下や近郊へ出荷する重要な港だった。

 しかし、沖乗り航行の北前船は、奥地の宮島の港には入ってこなかった。(この為、浅野氏は、前述の御手洗や尾道で港湾を増強し北前船で栄える港にする。)

f:id:chopini:20220222062348p:plain (出典 国会図書館デジタルアーカイブ)  

 浅野藩主が興行の多くを宮島に許可したことに加え、厳島八景の美しい景色・寺社などの名所・厳島神社の祭礼について十返舎一九の著書で取り上げられたこともあり、それらを一目見ようと大勢の観光客が訪れ大いに賑わった。

 年3回、大きな市がたてられ、芝居小屋では歌舞伎や能といった見世物興行が催され宮島は西海第一の劇場として歌舞伎界にとって重要な地になった。市川海老蔵松本幸四郎ら、あまたの名優の来演があった。  宮島の富座では、富くじが特別に許可され、「大束(薪の束)」が名目上の景品にされたが、景品には各地の特産品があてられた。

f:id:chopini:20220222062848p:plain 御座船と艘を横につないだ絵図((出典 国会図書館デジタルアーカイブ

 厳島神社の管絃祭は、御祭神が御座船と呼ばれる3艘を横につなぎ合わせた専用の船にのり、厳島神社と対岸の外宮・地御前神社を管弦演奏しながら渡御する。  f:id:chopini:20220220221954j:plain

(管絃祭 出典 ひろしま観光ナビ)

この管絃祭は、日本三大船神事(厳島神社の管絃祭・松江のホーランエンヤ祭・大阪の天神祭り)、瀬戸内三大船祭り(厳島神社の管絃祭・大阪の天神祭・坂越の船祭り)でもある。

f:id:chopini:20220220173456j:plain 宮島歴史民俗資料館 外観. (写真 提供 宮島歴史民俗資料館)

 宮島歴史民俗資料館は、江戸後期から明治にかけて醤油醸造・金融業を営んだ豪商「江上家」の主屋と土蔵を利用した施設で、旧宮島町が老舗旅館「岩惣」から譲りうけている。

f:id:chopini:20220220173732j:plain 宮島歴史民俗資料館 庭 錦鯉. (提供 宮島歴史民俗資料館)

 昭和49年に開館し、500坪の敷地に4つの展示館と主屋と復元された町家がある。

f:id:chopini:20220220173943j:plain 宮島の歴史と文化に係る多彩な資料の展示館D内観. (提供 宮島歴史民俗資料館)

順田さんは、歴史遺産等文化財が多い宮島を後世につなげる力に少しでもなれたらと話していた。

   続いて、東広島市文化課文化財係主事・竹下紘平さんに安芸津の廻船について話していただいた。

1974年に誕生した東広島市は、竹原市の西に位置し、安芸津町など周辺5町を2005年に編入している。

f:id:chopini:20220220200722j:plain JR西条駅周辺には、7社の蔵元がある (出典 ひろしま観光ナビ)

明治に入り「軟水醸造法」が生み出され、「吟醸酒の発祥の地」である。

 広島藩は江戸初期から新田開発に力を入れ、内陸部では米の生産、海岸部の埋め立て地では塩が生産された。天保年間には9カ所の「入り浜式塩田」が安芸津に存在した。

 安芸津は海運による交易が盛んで、「安芸地乗り」から、西廻り航路が開設(1672年)されると、陸を離れた「沖乗り」で活躍し、その足跡が日本海側に多く残る。

 広島藩で最大級の船を備えた木谷村は、天保12年(1841)には1~7反帆の船が30艘、21反数以上千石船が5艘あり、『芸藩通史』に木谷村を1300石以上の船を持つとの記述がある。

安芸津の「元屋万助」(元屋は光保家の屋号)の船で船頭若松が弘化3年(1846)に、福井県の大湊神社に奉納した絵馬がある他、新潟出雲崎の客船帳に三津浦の「吉宝丸」が1861年に入船し干鰯を買い入れた他、石川県の輪島では元屋の船11艘の記録がある。 f:id:chopini:20220220215356p:plain東広島市教育委員会提供)

 島根の浜田にも三津の「瀬野屋」が塩を売って干鰯を買い入れた他、「小田屋」が外ノ浦に入船した記録もある。干鰯を用いて綿が栽培され、綿織物として日本海沿岸で売られた。 f:id:chopini:20220220215821p:plain東広島市教育委員会提供)

「元屋」と「栄屋」は安芸津の代表的な廻船業者で、その繁盛ぶりは大坂の住吉大社に寄進した常夜灯、地元の塩竈神社と三種神社に残された足跡で分かる。

f:id:chopini:20220220215646p:plain東広島市教育委員会提供)

 塩竈神社は木谷村の塩田の守り神として建立され、灯籠と鳥居は元屋と角屋が寄進している。海水を煮る新しい塩竈を使う際、塩竈20日程で壊れる為、長く使えるようにお祈りをしていたという。  三種神社は廻船業者と関わりの深い神社で、「元屋」と「栄屋」が寄進した絵馬があり、江戸期の本殿、階段、灯籠などは安芸津の船持ちが寄進している。

 

 安芸津の元屋万助の船が、岩国藩の御城米を運んで江戸からの帰りの文化2年(1805)の始め遠州灘で遭難しアメリカ船に8名が助けられハワイに上陸する。その後マカオ→広東→インドネシアへと移動し、翌年の暮れ後に乗組員3人生きて帰国できたが善松一人だけが故郷安芸津に帰れた。

 2021年12月善松たちの『漂流記』の朗読劇が、地元で活動する劇団「安楽夢(あらむ)」が再現した。

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 (東広島市在住 松田悟さん提供)