姫路城は、姫路藩の藩庁で飾磨、高砂、室津の3つの港を江戸初期から明治まで管理下に置いていた。
そこで姫路市教育委員会文化財課の大谷輝彦課長とたつの市御津町の室津観光ガイド代表の柏山泰訓さんに語って頂いた。
大谷さんは、1993年法隆寺と共に日本で最初に世界文化遺産に登録されたと姫路城を紹介している。
姫路藩初代藩主(1601〜)池田輝政は、姫路城築城と並行して城の外堀から飾磨津までの約5キロの運河の計画をしていたが不成功に終わっている。
この構想は、本多忠政の代に成し遂げ、船役所・船置場を置き船手、水主を配置した。
この本多家が藩主になる頃52万石から15万石に領地が縮小し、赤穂藩、龍野藩などが姫路藩から独立した。
水運を重要視していた姫路藩は、龍野藩の室津を飛地として明治まで管理し、「交易」の他「参勤交代」「朝鮮通信使」の接待に使用している。
高砂港も姫路藩領だったことで、1615年の一国一城令で高砂城は廃城になり、城下町から港町として発展する。
17世紀高砂の荒井塩は、越後(新潟県史)にも運ばれ、江戸には1652年12月の記録だけで100艘の荒井船が入港している。(川越の商人、榎本弥左衛門の覚書《万之覚》)
18世紀に入り加古川の大量の土砂の堆積で塩田の継続が難しくなり、姫路藩は荒井の塩田は綿花栽培へ転換を奨励し、塩田の村から綿花の村になり、播州木綿の積み出し港として姫路藩を支えた。
高砂港の土砂を改修した工楽松右衛門 (最近の高砂港と8代目工楽隆造氏)
奈良屋の菩提寺の正法寺の唐戸(1768)は、先代奈良屋権兵衛の十三回忌に酒田の本間光丘が寄進したものでその口上書も残されている。豪商奈良屋(姫路城南)で三代目光丘は16歳の頃に修業している。
に掲載されこの企画講演で、奈良屋の古着を
坂越の廻船が酒田の新渡戸家に運んでいた
話があり、奈良屋の手広い取引がわかる。
北前船船主5名が寄進した牛の石造は、
浜の宮天満宮の本殿前に置かれている。
(飾磨区須賀の飾牛の石像)
出典 北前船KITAMAE公式サイト
姫路市(飾磨)高砂市、たつの市(室津)は北前船の寄港地として
2019年日本遺産に同時に認定された。
高砂の工楽松右衛門帆については、後日
8代目の工楽隆造氏が紹介する。
写真の柏山さんの活動拠点は、室津海駅館
室津民俗館である。
海駅館は、廻船問屋だった「嶋屋」の建物を
1997年資料館として開館した。
姫路藩の御用達をつとめた豪商の遺構で、姫路藩が管理していた足跡だ。
この地域が播州綿花の産地
だった事から 館嶋屋(室津海駅)は、その肥料として北海道
で羽鰊を買い付けていた。