「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「北前船寄港地・船主集落の旅」第11回 御手洗・竹原

第11回 御手洗・竹原

 かつて広島藩だった呉市(御手洗)・竹原市は、『北前船寄港地・船主集落』で日本遺産に認定された。

 御手洗(大崎下島)には、呉市から7つの島を結ぶ「安芸灘とびしま海道」と、尾道から「瀬戸内しまなみ海道」の2つのルートがある他、竹原港から高速船が航行している。

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中央の大崎下島が御手洗地区   出典広島県庁道路整備課HPより

 呉市教育委員会の紹介で、豊町観光協会のガイド田中一士さんのお話です。

 

 広島藩は、北前船が活躍する以前から(1660年頃)御手洗港を重視し、大がかりな石積みや雁木を作り海岸線を埋め立て、港の拡大と保護に力を入れていた。

御手洗港で藩札を流通させ、尾道・宮島でも使えた為、大商港として発展していく。

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提供 新光時計店

 河村瑞賢の西廻り航路で北前船が活躍する時代になると、沿岸を進む地乗りから沖合を進む沖乗りが主流になる。沖にある御手洗港は北西に向いていたことから有利になり、「風待ち、潮待ち港」として多くの廻船が寄港するようになる。御手洗に特産品はなく、北国から仕入れた米の流通で稼いでいた。

 藩が御手洗港整備に力を入れた事で、参勤交代で九州各藩の大名達が立ち寄る港になる。幕末になると薩摩藩との密貿易で富や文化が集積し、江戸幕府を揺さぶることになる長州藩との倒幕の「御手洗条約」が結ばれている。

 坂本龍馬大久保利通中岡慎太郎も立ち寄った記録があり、藩長連合成立の陰の舞台になるなど重要な拠点になっていたことが明らかになっている。

 広島藩公認の遊郭の1軒が現存し、この家屋の資材は薩摩藩屋久杉が使われている。この茶屋では遊女を100人以上かかえていたという。

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提供 新光時計店

 江戸から昭和までの港町の建物は、白壁、立派な瓦、千本格子の家並みが連なり、江戸時代からの下水道も保全されている。

 一角には、広島藩の御用商人・大坂の鴻池善右衛門が寄進した「住吉神社」も残されている(日本遺産構成文化財)。

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提供 呉市教育委員会

 1994年には「国の重要伝統的建造物群保存地区」に、全国唯一町全体が指定された。

 この家並みの中に創業150年の歴史を誇る『新光時計店』がある。世界にその名を知られ、BS新日風土記北前船の贈り物」で高級時計を求める人が往来する町と紹介された。

 写真を提供して頂いた『新光時計店』5代目松浦光司さんによると、「先祖は1770年頃、竹原より移住し、米や醤油などの販売から、時計の取り扱いを始めた。日本での時計製造は本格的に始まっておらず、主にアメリカ製を多く販売し、『各国時計販売所 松浦商店』の名で当初スタートし、 昭和初期に『新光時計店』に改名した。電車で来られる方は、広島駅から御手洗行の直行バスがある」と話す。 
 
 薩摩のことを聞くと作家穂高健一氏・志學館大学教授原口泉氏らによるシンポジュウム「幕末の真実に迫る~薩摩、芸州の果たした役割~」が開催されたと教えてくれた。

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各国時計販売所   新光時計店 提供

 続いて、竹原市文化財保護課・学芸員 三輪宜生さんのお話です。

 広島藩は、浅野家が1619年から明治維新まで約250年治め、竹原では新田開発として大規模な干拓が進められた。

 埋め立て地は塩分を含み耕作に適さない事を知る赤穂の商人が、塩浜にするのが良いと「入浜式塩田」の仕組みを伝えたという。

 当時、赤穂藩では大規模な「入り浜式塩田」開発に成功(1647)しており、広島藩浅野家は、赤穂藩浅野家の本家だったことから、赤穂藩から二人の技術者を招き試作した(1650)。

 良質の塩を得、予想外の利 潤をあげたことから、領内や在郷の町のみならず遠くの商人まで塩浜経営を希望するようになった。

 1652年には新たに67軒が増築され計98軒になり、竹原は有数の製塩地として繁栄した。

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竹原の伝統料理の魚飯店にあった新聞(2019年2月)

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「魚飯」は塩田主が好んで食していた料理(2019.2)

 竹原は塩の町として繁栄し、令和元年『北前船寄港地・船主集落』で日本遺産に認定され、構成文化財は塩に関係したものが多い。

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大阪住吉大社で(中央右が今榮敏彦竹原市長)

 各地の商人との交易記録や、塩の販売量等を記す「市立竹原書院図書館資料群」、

製塩業で繁栄した1800年頃の竹原の町並みを描いた「紙本著色竹原絵屏風」、 竹原一の塩問屋の邸宅「旧吉井家住宅」、そして竹原の繁栄を象徴する町並みは、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。

 北前船の船乗りたちが宿泊した記録が多く残され、北前船の入港の目印となった「常夜灯群」も構成文化財である。

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竹原のまち並み(2019年2月)

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 塩の買い付けなど北前船の商人で繁栄した江戸時代の廻船問屋は、そのまま残され立派な街並みが続く。西廻り航路開発(1672)以降は、北陸・東北へと大量に塩が運ばれた。

2020年BS番組「新日本風土記」の「北前船の贈り物」では、「竹鶴酒造」13代目当主が塩田と酒造り説明をしている。

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竹鶴酒造(2019年2月)

 NHK朝ドラで人気を博した「マッサン」こと竹鶴政孝さんは、「竹鶴酒造」が生家である。このマツサンと、前回の東京オリンピック当時首相だった池田勇人氏と、先輩後輩の関係だった話は意外だった。

 

竹原市の日本遺産構成文化財、『安芸忠海の浜胡屋と江戸屋の「御客帳」』については、次回、宇和島藩の廻船を研究されている愛媛県歴史文化博物館・学芸課長 井上淳さんのお話しの中で紹介する。