すすめ北前船

北海道発のFM放送「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」を瀬戸内海からFBとブログで発信しています

「すすめ北前船28回 」(伊勢の御塩)

 

これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の前半と、後半の「進め!北前船」のfbのコメントを再構成したものです。

 

「すすめ北前船28回 」(伊勢の御塩)

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 9月21日放送のゲスト東村篤さんは、伊勢市在住で四日市大学教授から今年、同大学の環境技術研究所の研究員として活躍されている方です。

 瀬戸内海の赤穂塩、日本海能登の塩に続き、太平洋側の伊勢の塩について、
伊勢商工会議所の「検定お伊勢さん」の検定上級資格をお持ちの東村さんが案内します。
 

 東村さんは、定年で27年ぶりに実家伊勢に戻り、かって賑わっていた二見(臨海部)の落ち込みを見て、
 二見の『御塩』の塩道でブランディング研究会を立ち上げ、伊勢神宮の御塩の活性化に取り組んだ事を語っています。
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 塩の研究の為、岩手、仙台の釜石、今治等に行き、去年秋には赤穂市にも来られています。

 この時、赤穂塩の千原さん、珠洲市の横道さんの能登の塩の投稿等の『瀬戸内坂越の北前船交流記』を、坂越まち並み館の濱田さんが贈呈しています

 二見浦は、1498年の地震による大津波で、この浜郷の塩田に大きな影響が出ても、伊勢神宮の御塩は、神事として続けられたと紹介しています。

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  神宮の御塩の生産が中断しなかったのは、お祭りの際、お供えとして捧げられるだけでなく、お清めの塩としても使用されていたのがその背景のようです。

  東村さんから頂いた『神宮の御塩』には、二見浦からの御塩を共進したのが、実在した可能が高いといわれている第11代垂仁天皇(紀元前69年〜?)の時代からと書かれています。

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 鎌倉時代鴨長明(1155-1216)の『伊勢記』には、「二見がた神錆びてる御塩殿 幾千代みちぬ松蔭にして」という歌が残っている事が書かれています。

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 1295年の『伊勢新名所絵歌合』の下巻には、当時の塩作りの様子が見事に描写されている事も書かれ、はっきりした古い歴史がわかります。
 

  塩田は古式入り浜塩田で、今も年間1500の神事催事があり、
 毎年5月と9月の5日、12月半ばの締め縄を替える神事を語っています。

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 この塩田は、江戸に入り商業用も復活され神事の二見の御塩と共に、塩、米等の天然の有り難さを語っています。
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 後半の『進め!北前船』は、三重県出身の西廻り航路を開発した河村瑞賢と、北海道と命名した松浦武四郎の話をしています。

 南伊勢町の出身の瑞賢の像は、酒田と南伊勢町にあるものの、地元ではだんだんと忘れられようとしていると。

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 そんな中、南伊勢町では生誕400年の記念式典があり、教育委員会が小学5年生を主に社会科の教材として『河村瑞賢』を発行していると紹介しています。
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 東村さんから頂いた72ページのこの教材のタイトルは、「商人をこえた日本の偉人」の中で、瑞賢を分かりやすく書いています。f:id:chopini:20181114171317j:image
 瑞賢は、江戸で大火に遭遇した時、自宅をそのままにして、木曽に行っています。

 僅か10両の資金で、木曽の材木に瑞賢の印を押すまでのプロレスが書かれていました。

 その後、大火で買い付けに来た江戸の材木商に高く売り、莫大な利益を出した例等が書かれています。f:id:chopini:20181114161331j:image

 瑞賢は、伊勢商人近江商人や大阪商人と並び商才にたけていた背景を教育から語っています。

 それは、伊勢では寺子屋等教育に力を入れ、東村さんが教授をしていた四日市大学で研究がすすんでいる関孝和和算からも語っています。

 伊勢商人の流れを組む企業に、イオンや岡三証券があります。
 東村さんは、その岡三証券で39年定年まで勤め、その後に四日市大学の教授をされています。

 こうした経験から、伊勢市には証券人口が多いいと言っていました。

 バブル崩壊までの証券界は、4大証券と7つの準大手証券がありました。

 バブル崩壊で大手の山一証券は倒産、準大手6社は倒産や統廃合され、岡三証券だけが単独で生き残っています。
 失われた20年と言われた時代を乗りきり、たくましく生き残つたのもわかる気がしました。

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 今年は、松浦武四郎蝦夷から北海道と命名して150年目になります。

 松阪城跡近くの松阪市役所には、松浦武四郎生誕200年!の垂れ幕があり、記念イベントのパンフレットがありました。

 このFM放送は、毎週金曜日4時から、札幌しろいし局から放送され、

その後、fm七尾を皮切りに、北前船寄港地13局で放送されます。
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「すすめ北前船27回 」(能登の塩)

これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』のfbのコメントを再構成したものです。

 

 

「すすめ北前船27回 」(能登の塩)

 
 8月24日放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』は、珠洲市からでした。この前後の週に、「赤穂塩」の放送があり「すすめ北前船26回」で紹介しています。

 ゲスト横道嘉弘さんは、珠洲市の道の駅で奥能登塩田村の社長から、今年相談役になられています。

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 能登の塩作りは、奈良時代からで江戸期に入り加賀藩の保護政策の時代の製法と殆ど変わっていないと話が始まります。

  1959年、全国の揚げ浜製塩は禁止されます。
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この時、角花家の強い希望で唯一残されこれを守るのが隣にある奥能登塩田村だとインタビューに応えています。

 経営は、家族単位で瀬戸内海との違いがありその過酷な労働を語っています。

 朝早くから天秤棒で大きな桶に18回運び、運んだ海水を砂に撒き、
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砂が乾くと箱に入れそこに海水を含んだ砂を入れ釜屋で20時間程煮込むと。f:id:chopini:20181107163014j:image

 この塩田村では、天秤棒で海水を運び砂にまく所まで体験が出来、塩の資料館もある事から、夏休みは全国からの子供達で賑わうと語っていました。

 NHKの朝ドラ「まれ」の舞台は、輪島市でしたが撮影は、珠洲市のこの塩田村で行われました。
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 この朝ドラ人気から、塩生産が追いつかくなって通信販売が出来なくなり、東京ではスカイツリーの近くで販売していると紹介しています。

 この塩は、梅干し、おにぎりにすれば、違いがわかると言っていましたが、確かに美味しい塩です。 
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 この自信から、フランス料理の巨匠三国清三氏に帝国ホテルのパーティーの時、自社の製品を渡していました。
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 能登沖は、暖流と寒流がぶつかる事から多くのプランクトンを含みここで採れた塩は、フランス料理に欠かせないと三国シェフのHPにありました。 

 

 横道さんが出版した能登の揚浜式塩田』には、塩釜の事も詳しく書かれています。

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 珠洲市の南の穴水町は、鉄の鋳物の産地で平安時代に編纂された『新猿楽記』の歌の中で諸国の特産物を都でも古くから鉄釜が能登の名物だった記述があります。
 こうした事から 加賀藩では、1605年高価な鉄釜を12年の契約で835枚貸し付け、1737年には2000枚まで貸し付けていたと述べられています。
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 加賀藩は、鉄釜でも塩の生産を支援し、税を得ていたのがわかりました。
  能登では、塩は鉄釜で作られ、それは赤穂の西浜塩田と同じ真塩の高級品だったのがわかります。

 加賀料理には、この真塩が使われ輪島の漆器と共にその料理の名声を高めていたのが想像できます
 

 当時、瀬戸内海で使われていた塩釜は石釜で、竹原市学芸員も竹原では明治30年になって鉄釜を使用した記録があると言っていました。

 赤穂塩がブランドになった背景には、この他焼塩等、塩に付加価値を付けていたかもしれません。
 
 尚、横道さんには、瀬戸内坂越の北前船シリーズに投稿して頂いていたので紹介します。

http://sakosi-kitamaebune.hatenadiary.jp/entry/2017/01/04/205538

このFM放送は、北前船寄港地13ヵ所で収録放送されます。 
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「すすめ北前船26回 」(赤穂塩)

「すすめ北前船26回 」(赤穂塩)

 
   これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』のfbのコメントを再構成したものです。

 

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 ゲスト千原義春さんは、青山大学大学院博士後期課程で近世瀬戸内塩業史で赤穂塩を研究中の方です...

 千原さんの研究課題を、「近世社会が変容してどのように近代に移り変わっていったか」と紹介し、その中央に赤穂塩があるのは面白いですねとインタビューが始まります。

 この日は、大学の夏休みを利用し実家の姫路から車で、赤穂市有年の考古館で赤穂塩の謎に迫る企画を見にきていた日でした。f:id:chopini:20181023200835j:plain

(写真は千原さんのfB から)

「SALT~赤穂の塩とその歴史」の企画は、まるでこのラジオ番組の為のものですね!と明楽さんが言葉を投げかけます。
 ここには、弥生時代の塩に関する展示があり、江戸期の焼塩をつくった壺もあると紹介しています。
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(写真は千原さんのFBから)

 赤穂藩は、1646年姫路藩領から技術者を招き「入り浜式塩田」が完成しています。

 この赤穂塩と、高砂の荒井塩も大坂に運ばれていましたが、赤穂塩が上方の出汁文化に貢献したといわれブランドになっています。

 江戸でも早い時期からブランドだった例に、川越の榎本弥左衛門覚書の中に赤穂塩があると紹介しています。
 榎本弥左衛門(1627-1684)は、塩、米などを江戸で仕入れ販売していた一流の商人でした。
 この話から、大坂と江戸を結んだ菱垣廻船(1619年)が、多様な日常の生活物資と共に入浜式塩田完成(1646年)後すぐ、大坂の塩問屋を経由し赤穂塩が江戸に運ばれていた事になります。

 この放送中の8月31日、長岡市での北前船寄港地フォーラムで、河合継之助の稲川館長が、赤穂塩のブランドの例から、長岡藩の財政改革をしていた事を紹介していました。
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 この話を赤穂市で、お話をしていただける事になっています。

 8月17日東京からの放送は、赤穂の塩が北前船で運ばれていた事について、どうなんでしょう?との問いから始まります。

 これに対して千原さんは、江戸、上方(大坂)が9割以上との応えに明楽さんは、びっくりしていました。それは、北前船が赤穂塩を運んでいたと誰もが考えるからでしょう。

 赤穂塩は、当時は日本一の塩の生産量で北前船で運んだ塩は、坂越の大西家が中心だったので生産比率からみれば僅かでした。

 これまで、地元では北前船は話題にもならず、誰もが塩は大坂や江戸に運んでいたと考えられていました。

 坂越の廻船は、赤穂の塩を越後、酒田、野辺地と運び莫大な富を得ていました。

 しかし、江戸へ塩を大量に運んでも坂越の廻船の利益は僅かで、西浜、東浜の塩生産者は莫大な利益をあげていました。 

 

ここに北前船の謎とロマンの面白味があります。

  

 やがて元禄の高度成長期に瀬戸内海で、次々に入り浜式塩田が誕生した事から生産過剰に陥り、塩田不況を招いた話になります。
 この時、藩を超え広域で塩田を休ませる協定を結んだのは珍しいと。

 休田の提案をしたのが三田尻で、それは三田尻が北國地域に一番近く、冬は活動しないので半年休ませたのに対して、赤穂は大消費地の大坂に近くブラントだった事から、50日程度休んだと。
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(赤穂田淵家に残された休浜に関する文書『休濱一条口上書之写』で、千原さんのFBより。)


 近世になり、新たな時代へと変わっていった経営の合理性は、複式簿記に表れ赤穂でも採用していた話があります。

 これについて千原さんのFBで下記のように補足していました。

 下の画像(田淵家文書)で『算用帳』が損益計算書、『大算用帳』が貸借対照表に相当します。そして各々計算された当期純利益が一致しているので、まさに複式決算だったのです。


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(写真は千原さんのfBより)
 

 江戸期は、日本独自の和算の発達から、帳簿システムも独自に確立しそれが大福帳、ソロバンでした。これが、明治に入り和算が数学に代わり、大福帳が欧米式の複式簿記へと形式が代わっただけかもしれません。

 この塩シリーズでは、日本海能登から「揚げ浜式塩田」太平洋側から伊勢の塩を紹介します。
  またこのFM放送は、北前船寄港地13ヵ所で収録放送されます。
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「すすめ北前船」第25回(根室)  

「すすめ北前船」第25回(根室

 

これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』のfbのコメントを再構成したものです。

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 今回は、日本最東端の根室からの放送でゲストは、根室金比羅神社の前田康宮司です。
 
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 この神社は、212年前に高田屋嘉兵衛によって創建されています。

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 創建180年を記念して1986年、嘉兵衛の銅像が建立されました。これは、根室の人達が日露の問題を平和的に解決した嘉兵衛に願いを込め、お金を出し合ったと前田宮司は語っています。
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 司馬遼太郎の『菜の花の沖』は、嘉兵衛を小説として描きながら、歴史や当時の時代背景から身近な経済まで詳しく展開されています。
 
 放送でも220年程前、辰悦丸の建造から根室を拠点に北方のエトロフ、国後島の航路や漁場の開発で嘉兵衛は巨万の富を築いた話があります。
...この成功の後、ゴローニン事件が起こり、嘉兵衛が巻き込まれロシアに拿捕され1812年カムチャツカに連行されます。

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 連行したのはリコルドだったが、嘉兵衛の誠意あふれる熱弁に胸が響いたようです。
 リコルドとの信頼関係が生まれこの友情が、鎖国下の日本とロシアの関係悪化の歯止めになり戦争が回避されます。

 小説では、根室を拠点に北方の島々を開拓するなら、野辺地を拠点に江戸への航路のアドレスを最上徳内がしていた事が書かれています。
 野辺地には、嘉兵衛の足跡が残され太平洋の東廻り航路でも活躍しています。
  この時の取材のエピソードで、昆布に対する考えが日本海、大阪と太平洋側の違いを、明治の慶応出の方の話として紹介しています。
 
 2006年8月にカムチャツカのナリチェボ自然公園内にある無名の山に、ゴローニン、リコルド、そして日本人である高田屋嘉兵衛の名前が付けられた事も紹介しています。 
 ロシアでは、地名に人名をつける習慣があるようですが、その地図上に日本人の名前が刻まれたのは、史上はじめてのことだと話していました。

 根室に今も残る嘉兵衛の足跡として、穂香金比羅神社に奉納された「願主 高田屋嘉蔵」(嘉兵衛の弟)と書かれた一個の鈴だけと紹介しています。
 
 かっての国後島の泊神社、エトロフには4社を嘉兵衛が建立した神社を含め、北方4島には65社の神社があり11社のご神体が、戦後この神社の移され毎年例祭が斎行いると紹介していました。

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 その祭りは、北海道の3大祭りの1つにもなり毎年8月に開催されています。


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 納沙布岬の海岸線には、「返せ!北方領土」の文言やタテ看板がいたる所にありました。

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根室市民の方々の悲願を、別の言葉の表現で出来ないものかと、そんな言葉が納沙布岬で聞こえてきました。

 金毘羅神社御朱印の横に「祈返還 北方領土」の朱印が別に押され、根室のみんなの悲願なのがよくわりました。
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 この放送の後、前田宮司北前船寄港地フォーラムの案内を送りました。

 このFM放送は、毎週金曜日のfmしろいし局から放送され、その後、fm七尾を皮切りに北前船寄港地13局で放送されます。 無料アプリ日本ラジオをダウンロードして頂ければ聴けます
































「すすめ北前船」第24回(利尻島)

「すすめ北前船」第24回(利尻島

 

 これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』のfbのコメントを再構成したものです。

 今回は、日本の最も北にある利尻島からです。最も東の根室からの放送は、次回紹介します。

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 歴史上の人物の銭屋五兵衛は、北海道の一番北の礼文島に、高田屋嘉兵衛は北海道の一番東の根室にその活躍の足跡が残っています。


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この礼文島からわずか19キロ南東にあるのが利尻島で、この海域の北まで銭屋五兵衛は、北前船で活躍していたようです

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 その利尻島からのインタビューが6月29日にありました。
 
 ゲストの小坂実さんは、利尻で生まれ育ち、NPO法人利尻ふる里島ずくりセンターの事務局長をされている方です。
 
 小坂さんへのインタビューは、ニシン漁がピークだった昭和31年頃の利尻島の話から始まります。

 この頃は、全国各地から人が集まり2万人を越えていたのが、今では4000人余りにまで減少していると。
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 人口減少の中、小坂さんが中心になり利尻の活性化の為の企画をして来られた20年を語っています。

  利尻名産の利尻昆布やワカメは、採れる海藻全体からみれば僅かだといい、これまで使い道のなかった大量の海藻を使い、街の活性化してきた事を紹介しています。
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 沢山の海藻がある中で一つとして同じものがなく、この海藻がアートで生まれかわると、全く違うものに生まれかわり地元の方々も驚いていると。 また海藻アートコンテストで審査員を、以前この番組のゲストだった
江差な室谷元男さん、秋田の鐙啓記さんらと審査員を務めていた事もあった話もありました。
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 これを、使われなくなっていた 120年の伝統ある渡辺商店の建物をリューアルして「島の駅」とし、アートを展示した企画には、全国各地からの参加があるといい、
 地域のコミュニティとして、地元、観光客、アートとが上手くつなぎ場所となり自然に人が集まると紹介しています。 
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 これには、北海道庁の支援もあり明楽さんもこの企画に参加し、日本経済新聞の広告記事が紹介されていました。
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 また、利尻16景を札幌の仲間と共に掘り起こし、スタンプラリーの企画のアイデアも紹介しています。
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1719メールある利尻山の景色は、見る場所から違いがあり16景にそれぞれ詩があると語っていました。
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 このFM放送は、毎週金曜日14時から札幌しろいし局で放送され、その後
七尾を皮切りに北前船寄港地13局で放送されます。無料アプリ日本ラジオをインストールして頂ければ聞けます。






 

「すすめ北前船」第23回(塩飽廻船第2回)  

「すすめ北前船」第23回(塩飽廻船第2回)

  これは、塩飽出身で諫早市在住の吉田幸男さんの5回のインタビューを歴史に沿って再構成していたもので2回目です。

 第1回は下記のクリックすればわかります

「すすめ北前船」第20回(塩飽廻船第1回) - すすめ北前船

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 江戸の人口急増、財源確保の問題から、仙台平野の天領米を幕命で江戸迄安全に運ぶよう指示された河村瑞賢は、下田を迂回して江戸湾に入るルートを開発します。

この時は、出身地の伊勢の廻船から起用しています。

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伊勢市の東村篤さんより贈呈)
 

 その翌年1672年5月2日、瑞賢が見守る中、酒田を初出帆した御城米は、下関、大坂経由で7月に江戸に無事に着き、瑞賢は、陸路で江戸に戻り御城米の確認をしています。


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 それまでは、琵琶湖経由で1年3ヶ月要しており、この成功で瑞賢は3000両の褒美をもらっています。

 これには、難しい日本海航路を塩飽廻船に任せ、加賀藩が使用していた大坂迄のルートを使っています。

 瑞賢は、伊勢商人でそれまでにも、奇抜な考えで成功した例の数々が、南伊勢町教育委員会が発行した『河村瑞賢』にありました。

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 4月20日放送で吉田さんは、新井白石の『奥羽海運記』の河村瑞賢「塩飽船隻、特に完堅精好、他州に視るべきにあらず」と、瑞賢の地元、尾張、伊勢等の船隻より塩飽船がすぐれていたと紹介しています。

 こうして1672年より吉宗の享保の改革までの約50年、ほぼ独占的に塩飽廻船が酒田の御城米を運ぶ事になり、大船団を持つようになり船建造技術は更に磨かれます。

 吉田さんは、公儀の荷は、集荷集金の必要がなく船さえあれば大きな収入となり、公儀もまた、天領米を江戸に運ぶだけで大きな財源になったと語っていました。

これを2ヶ月余りで実現させた、瑞賢に3000両もの褒美を与えたのがよくわかります。

 こうして、江戸では米が余り下落する年が多くなります。

 当時、武士への給金が米だった時代、目減から武士は生活苦に落ち入り幕府の財政も圧迫するまでになっていました。

 吉宗は、享保の改革の中でそれまで米を運んでいた御用船から、民間の廻船問屋に任せ財政を立て直しを図ります。

 (これ以後、越前や加賀の廻船問屋が、瀬戸内から大坂まで活躍するようになり、後に北前船とよばれるようになりました。)
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 打撃を受けた塩飽廻船は、それまでの技術を陸で生かし、ヒバの産地青森蟹田で弁財船の建造、対岸の児島や倉敷等で神宮建造等に携わっています。下津井祇園神社の宮司は、塩飽の大工の素晴らしさを語っていました

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また、廻船問屋としても活躍していた足跡が野辺地にありました。

これは、 今年8月末の長岡市での北前船寄港地フォーラムでわかったものです。

 塩飽の廻船業ついて、野辺地の江渡政樹町議会議員が執筆した『讃州塩飽橘屋廻船資料集』が、長岡市の高橋渡教育長に贈呈され、この中に詳しく書かれていました。
 
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この時、私にも北前船寄港地フォーラムの茂木仁相談役から贈呈して頂けました。

 

 現在の青森県では、飢饉から食料不足になった時代があったようです。

 第3回は、飢饉の時の話がミュージカルにもなった話からで11月迄に紹介します
























 

「すすめ北前船」第22回(北前船寄港地フォーラム2)

「すすめ北前船」第22回(北前船寄港地フォーラム2)

 

今回の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナ『進め!北前船』は、(第24回北前船寄港地フォーラムin坂井市三国湊)で7月27日放送のコメントを再構成したものです。

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 前半は、北前船寄港地フォーラム企画の全国北前船研究交流セミナーを私が紹介しました。

 このセミナーは、日本遺産に登録された38市町の各ブロックから北前船の研究をされている方々の発表の場になりました。

 北海道ブロックの小樽商科大の高野宏康学術研究員は、北前船で北海道まで運ばれた若狭瓦を発見し、30センチ程の若狭瓦が南越前町に贈呈していました。
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この場面は翌朝NHKが報道されています。

 中国ブロックの尾道市の西井亨学芸員は、全国の寄港地に残されている「こま犬」等の石の石造物から尾道の足跡を探している話がありました。

 
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この話は、次のパネルディスカッションに繋がり、日本遺産審議委員の丁野明氏のコーディネーターで進行しました。
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 地元では、忘れられていた事が全国の寄港地には残されている例があり、これをデータベース化の提案をしたのが、作家で北前船研究者の加藤貞仁さんでした。

 加藤さんは、延べ80日かけ全国の北前船寄港地を写真家(鐙啓記氏)と納沙布岬等を取材し出版した経験からの提案だと感じました。

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 その後のレセプションで、加藤さんの『北前船 寄港地と交易の物語』で、坂越の北前船を紹介いて頂いていたので話が弾みました。
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 翌日のフォーラムの合間に、高野さんと前日のパネラー土屋周三さんのデータベースの具体的な話を北前コーヒーをみながら聴く事ができました。
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後半の『進め!北前船』のゲストは、
2日目のパネラーとして活発に発言をしていた坂井市観光連盟の大和久米登会長でした。
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(大連でのレセプションで)
大和会長は、このfm番組が始まった去年5月に出演していた事を大連の北前船寄港地フォーラムの時に知りました。

   大和さん経営の大和甘林堂は、300年近く前「大和丈助」が三国湊に出入り盛んな千石船(北前船)で持ち込まれた珍品砂糖にその原点があったとHPにありました。

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 三国湊は、北前船の時代以前から近江商人が活躍していた港町でその繁栄は、明治に入っても続き、北陸本線の鉄道開通の障害になったと。これで時間が止まりむかしの町並みが残ったと紹介しています。

  20年前、三国湊の歴史や文化遺産を生かした観光への取り組みでは、一時的な賑わいだったと。
 この危機感から三国湊の歴史を生かした「まち起こし」で、坂井市、商工会議所、観光連盟が三位一体となったのがわかりました。
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長岡駅での大和さんと坂井市の方々)

 大和さんの三国湊への想いが、多くの関係機関や企業等の協力を得られたと感じました。
 これが国土大臣賞、港町認定、日本遺産認定、北前船寄港地フォーラム開催へとつながりを熱く語っていました。

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 今後は、20万人がくる三国祭や三国節そして日本遺産認定をベースにて、全国に発信して行きたいと語っていました。
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 二日間のレセプションの最後で江差の木村香澄さんが、ソーラン節と江差追分を披露から、江差北前船寄港地フォーラムを懐かしく思いました。

 次回の「瀬戸内坂越の北前交流記26回江差ー奈良」は、全国北前船研究会発行の、『北前船にかかる論考考察集』の寄稿文から江差の横山家(北海道指定有形民俗文化財)を紹介します。

  協力して頂いたのは、奈良女子大学名誉教授で全国北前船研究会顧問の横山弘氏です。
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このFMの放送は、毎週金曜日14時から札幌しろいし局から放送されています。その後、ラジオ七尾を皮切りに北前船寄港地13局で放送されています。
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