名城巡りと北前船の旅・(工事中)
徳島県立鳴門市撫養湊
小豆島で狛犬研究家から紹介されたのが、鳴門市で北前船の研究者
林氏は2024年秋『東西海運の結節点 鳴門“撫養湊”を北前船の日本遺産へ』150ページを出版している。この書は2024年12月朝日新聞で紹介され、北前船を学術研究者で知られる慶応大学の中西聡教授がコメントを寄せていた。環
この出版に至るこれまでの経緯から紹介する。
20年程前、林氏は高校の社会科の授業の一環として、「鳴門に学ぶ地域学」と題し撫養街道を歩く特別体験授業を実施していた。一周4キロほどのルートに「岡崎海岸から眺める鳴門海峡」「妙見山の大鳥居」「市杵島姫神社」があった。この地域学の輪は、鳴門工業高校・鳴門渦潮高校・鳴門高校・鳴門市第2中学校にまで広がった。これを教材化し大麻町商工会が撫養街道MAP発行に至り、生徒もガイドをするようになっていた。
その一方で、「にし阿波の伝統農業」の世界農業遺産化の原案作成と提言を行っていた。この啓蒙活動は実を結び、佐渡・能登に続き2018年、「にし阿波の傾斜地農耕システム」として、国連食糧農業機関から、世界農業遺産登録に認定されるに至っていた。これは最大35度の傾斜地で、畑を耕作する独特な農法を紹介したものである。この関係から米国とメキシコの2大学から環境人類学の博士号を取得している。
林氏は、徳島活性化の活動を展開してきたが、撫養街道を歩くと昔ながらの情緒ある古民家が次々と取り壊され、かつての撫養街道の風景が失われつつあった。この流れをどう食い止められるかとその方策を探っていた。
浮かんできたのが江戸後期から明治にかけ日本を席巻した、ジャパンブルーと呼ばれた阿波藍は、鳴門の撫養港から各地に運ばれていたと仮説をたて調査を始めた。これまでは撫養街道の歴史・文化は、街道という陸路に注目し、海・港の観点から考えてこなかった。鳴門は「みなと文化」にあふれ、江戸と大坂を結んだ南海路に加え、西廻り航路の結節地で活躍した地だったと気づき港から考えた。明治に入るまで淡路島は徳島藩領で、淡路島と鳴門には渦潮に象徴される世界三大潮流のひとつである鳴門海峡があったが、淡路島と鳴門を行き来する必要があった。
この海域は、航行がの難所だったが、徳島藩は東に岡崎番所、西の北前船が播磨灘から入ってくる港には北泊番所を置き、監視と安全航行船の誘導をしていた。
徳島藩のこうした事情から、撫養で多くの廻船問屋が全国で活躍できたと考えられる。撫養港では三木家・天野屋等多くの廻船問屋が活躍していた。最も活躍した山西家については、森本幾子氏の『幕末・明治期の廻船経営と地域市場―阿波国撫養山西家の経営と地域―』で詳しく紹介している。
山西家は小樽・箱館・松前の商人とも取引があり、藍玉の肥料は鰊粕が阿波藍に大きく貢献していた。加えて、塩・足袋・白砂糖(和三盆)の特産品も撫養湊から積み出し、沢山の人でにぎわう港だったのがわかったという。
林氏は、北前船の寄港地の山形県酒田市から発刊された『北前船寄港地酒田から全国帆船リスト』(工藤幸治著)と『北前船と酒田・北前航路と寄港地』(杉原丈夫著)からも調べている。鳴門からの酒田への入船記録が201隻と大坂の次に多かったことで追加認定への自信が持てた。このうち工藤幸治氏の書は2022年、私が企画制作したもので現在もアマゾンで販売されている。
撫養に残る北前船に関わる文化財は、山西家のものが最も多く、東京の国文学研究資料館や徳島大学等に寄贈された。初代山西庄吾郎は、祭田塩の産地である斉田村で育ち、塩問屋を経営し主に江戸に運んでいた。江戸では千葉の醤油醸造に赤穂の差塩と並び重要な商品になっていた。塩問屋の成功で、特権商人の地位を獲得し前述の徳島藩の専売品も全国規模の交易を展開していた。交易で得た莫大な富を撫養の人々に還元し、地元黒崎の金光山(標高150メートル)山頂に、真言宗「仙龍寺」を建立し海難者の供養をしている。
仙龍寺の天井には200枚を超える色とりどりの花鳥図が奉納され、その3分の1が全国各地の、山西家の取引先で加賀橋立の西出栄裕丸庄八等北陸が最も多いい。この他の文化財で他の地域にないものに、備前焼狛犬と大谷焼がある。北前船と狛犬は、尾道市、新温泉町では構成文化財に認定されているが、備前焼狛犬を北前船から紹介した地域はない。鳴門の備前焼狛犬は、松前や越前右近家とも取引があった肥料問屋の近藤利兵衛が再興した妙見神社の他、撫養の金毘羅神社にもある。
大谷焼は、藍を発酵させる大きな「かめ」に使われた。藍を育てる肥料の鰊粕を蝦夷地で仕入れていたのが撫養の北前船で、共に徳島の藍の発展に重要な
林氏はこの出版の後、鳴門市で市民講座や町歩きを通じて、鳴門の北前船の周知に努めている。参加者からは、鳴門が廻船で活発だったことは知っていたが、北前船の活躍まで知らなかったと言われ講演の手ごたえを感じたという。
注目すべき点は、小学生に撫養港の北前船の活躍を知ってもらおうと、撫養小学校で教員に向けた講演会を開催し、教育の現場から普及活動をしている事である。2025年11月松本市で開催予定の北前船寄港地フォーラムで鳴門が紹介される事に期待している。
第75回 名城巡りと北前船の旅 松本城と糸魚川藩(工事中
松本市立博物館学芸員・武井成実氏と
松本市教育委員会文化財課城郭整備担当課長・竹内靖長氏
地図はJR広報紙、写真は松本市立博物館、松本城は筆者
前半は、民俗学が専門の武井成実氏が松本市立博物館を紹介している。松本市立博物館は「明治三十七、八年戦役紀念館」が前身で、現在は・民俗・考古・歴史・文化等を紹介する総合博物館である。
常設展示は、温泉・祭り・石像信仰等、江戸時代のものが多く、お八日(おようか)祭りは毎年2月8日、わらの馬で練りあるく祭りである。企画展「生物多様性と松本」は、9月2日(月)まで開催している。(最後の写真)
後半は国宝松本城(日本100名城)の整備保存が業務の竹内靖長氏の松本城と松本藩の流通の話である。
松本城は、戦国末期の築城で五重六階の天守が現存する日本最古の城。戦国時代の名残りが残る石落としの仕掛けがある他、2つが江戸時代に増築されたその1つ月見櫓である。明治の廃城令で売りに出されたが、地元有志に買い取られ桜の名所にもなっている。
藩主は6つの他藩から23人が入れ替わったが、何れも徳川家にゆかりがある人物だった。松本藩の特産品は農産物だが、中でもたばこは江戸で人気商品だった。
内陸の松本は街道の結節点となり、岐阜や名古屋などから焼き物や古着の他、北前船で越後の港に運ばれた沢山の品々が集まり問屋は賑わった。
北前船で運ばれた塩等の海産物、豊後や若狭のお茶、唐津焼、輪島塗等、越後の港から糸魚川を高瀬舟で上り、その後は牛馬、人力で運ばれた。これが「塩の道」といわれていた。
新潟県糸魚川市長者ケ原考古館 学芸専門員・山岸洋一氏
(掲載写真は山岸氏の提供)
糸魚川藩の財政を支えた「塩の道」と北前船の繋がりの話である。
糸魚川上流の松本藩と下流の糸魚川藩の交易に使われたルートが「塩の道」と呼ばれた。
塩の道には「信州問屋」制度があり、塩は荷継宿でリレー方式に輸送され、後にブリもこの方式で運ばれるようになる。
険しい山坂が続く道は、長野・新潟の県境は、牛や人の背による荷運搬以外になく、歩荷の背負子、牛方の装備など用具の発達を生んだ。(写真)
沖ノ口・山口(写真)・虫川 3箇所の関で徴収した税が、糸魚川藩の重要な財源になっていた。
「信州問屋」は上杉謙信が始めた制度で、道沿いに番所を設置し街道を管理しつつ自由交易を保証していた。
江戸時代になると、松本藩が糸魚川から運ばれる塩荷以外の移入禁止政策をとり、当初は糸魚川地場産の塩のみだった。北前船が活躍する時代に入ると、能登塩や瀬戸内塩(竹原塩など)が主流になる。
糸魚川地域の海岸は山が迫っているため、材木を得やすく船を建造して、廻船業への参入者が多く内川屋等が交易を拡大していた。
また、尾道産石造物と思われる狛犬・燈籠・鳥居など御影石製の石造物(写真)の他、古伊万里や唐津焼などの肥前陶磁が近世町屋遺跡等から出土しており、多くの北前船が寄港していたのがわかる。
山岸学芸専門員が務める長者ケ原考古館は、美山公園内にあり、市内遺跡から出土した資料展示を通じて、ヒスイ加工を中心に据えた糸魚川の歴史が概観できる博物館類似施設である。
10月5日から12月1日まで「糸魚川を旅立ったヒスイ」と銘うった特別展が開催される(写真)。新幹線の糸魚川駅から2キロメートルほどの所に位置し、ユネスコ世界ジオパークの中核、フォッサマグナミュージアムも近くにある。
「加賀の井」等の清酒他、富山湾でとれた南蛮エビやベニズワイガニなど旬が味わえるのでこの機会にきてほしいと話していた。
第74回 名城巡りと北前船の旅 香川県小豆島町の内海八幡神社
名城巡りと北前船の旅第75回 香川県小豆島町の内海八幡神社
掲載写真は 内海八幡神社黒木治夫宮司氏の提供。
2023年3月、香川県小豆島町にある内海八幡神社に、輪島塗の絵馬が掲げられていると地元の金両醬油の藤井保壽オーナーから連絡があったので、土庄町の南堀英二氏に案内していただいた。
藤井氏から元小豆島町会議員の浜口勇氏を紹介され、浜口氏と内海八幡神社をたずね黒木治夫宮司ともお話した。

神社には、絵馬の他、本殿正面には狛犬、そして一対の灯篭があった。

一対の灯篭について、富山県立山博物館・学芸員 細木ひとみ氏を浜口氏から紹介され、明楽みゆき氏のFM番組で話して頂いた。
細木氏は、民俗学が専門で現在は生まれ育った富山県の立山博物館で、立山信仰について研究活動をしている。
細木氏は西宮博物館(兵庫県)の学芸員として活躍していた頃、小豆島町の小高い丘にある内海八幡神社に参拝している。
この参拝をきっかけに、一対の灯籠に「西宮威徳丸船頭半衛門」と「西宮威光丸船頭半左衛門」の文字がある背景を調査し、「御影史学論集」で発表している。

西宮鳴尾村では、貞享年間(1680年代)から酒造りをしていたが、その一人に辰馬半右衛門がいた。辰屋は4代目として小豆島橘村(現小豆島町橘)の橋本家から入った婿が、1804年頃より酒造りから廻船に傾斜していったという。
これは灘や西宮で造られた酒を、小豆島南東部の船頭達が樽廻船で江戸へ運ぶ出稼ぎをしており、橋本家もその一人だった。
毎年、新酒を運ぶレースがあり、一番早く江戸に着いた酒に高値がついた程、新酒を江戸に早く運ぶことが重要だったことから、操船技術にたけた小豆島の人達に活躍する余地があったようだ。
内海八幡神社の一対の石灯籠の年代より少し下る頃の史料『西宮樽廻船並荒荷建名前帳』に、辰馬半右衛門の「威光丸」「威徳丸」の名あることから、酒を江戸に運んでいたのがわかる。地元の氏神である内海八幡神社に石燈籠を寄進したと考えられる。
またこの神社東側の荒神社に、15代辰馬半右衛門が寄進した石の階段がある等、小豆島橘地区との深いかかわりが残されている。この他小豆島南東部との繋がりの例に、西宮今津の「小豆嶋屋」という酒造家がいたことも紹介。
またこの神社の拝殿に輪島塗の絵馬が、どんな経緯で寄進したものか調べて欲しいと浜口勇氏から依頼があった。

そこで輪島市のいしかわ百万石文化祭推進室次長・殿田憲司氏に輪島塗についてFM番組で話していただいた。
輪島漆器は、室町時代、和歌山の根来寺の僧侶が能登を訪れ製法を伝えたのが始まりで、
江戸時代に入り、全国に広がった例を二つ紹介している。
その一つが、輪島の門前町の曹洞宗大本山へ全国から上がった僧侶たちが、各地へ帰る際に漆器を持ち帰っていたことだ。
もう一つは、輪島塗の塗師屋が、問屋を通さず販売する仕組みを確立し、神社仏閣の他、庄屋が来客のもてなし用に使う御膳や御盆などを各地で販売した。
これを促進させたのが北前船で、帆船を3隻持つ久保屋を中心に、輪島の港から各地に運ばれた。
輪島市の北前船の日本遺産構成文化財の住吉神社の鳥居は、小豆島産の石でできており小豆島との関連は不明だが、明治に入り小豆島の内海八幡神社に、関係者が輪島町の塗師屋 西門善七に発注したものとわかつた。
また内海八幡神社に狛犬があったので、浜口氏から紹介して頂き「小豆島狛犬探究会」の山西輝美氏にFM番組で話していただいた




名城巡りと北前船の旅第73回 津山藩の舟運と西大寺港
名城巡りと北前船の旅第73回 津山藩の舟運と西大寺港
津山城近くの津山郷土博物館・学芸員 東万里子氏に津山藩の飛び地小豆島で、元赤穂藩士、鞍懸寅二郎の活躍について取材し文献も見せて頂いたのが2017年12月だった。

津山徳森神社の小豆島の常夜灯(筆者)
東氏に津山藩の藩政と舟運についてFM番組の話をベースに紹介する。
津山藩初代藩主・森忠政は、慶長8年(1603)、美作国18万石余りを与えられると、津山城を拠点に城下のまちづくりに取り掛かり、治水対策として吉井川左岸に堤防を築き、船着き場を整備している。
船着き場の周辺に舟運関係者に加え旧領や近隣の町から商人や職人を集住させ、吉井川沿いの船頭町の名が残っている。
津山城下の発展におおきく寄与した高瀬舟は、吉井川上流から年貢米や特産品を西大寺港まで運んでいた。一部は大坂・江戸などに廻漕され、上り舟は塩などの海産物、醤油・酒などが運ばれた。
川を上る時は、帆を張り風の力で進み、風の力だけで進めない所では、舟に綱をはり、川岸から綱を引っ張って上流に引き上げていたという。
吉井川の舟運は、室町時代から発達しており、慶長9年(1604)京都の豪商、角倉了以は河川交通の視察の為、吉井川を訪れ、急流を逆行する平底の高瀬舟をみて、これを範として京都等で就航さた東氏は話していた。
『図説岡山県の歴史』(河出書房新書)には、大堰川・富士川・天竜川・高瀬川などを開鑿、高瀬舟を就航させ、舟運による物資流通の基礎を確立し、それが日本全国へ伝播したと、「角倉了以翁碑」から紹介している。

津山市船頭町の吉井川沿いにある高瀬舟乗場跡には西大寺港の名が見える。(筆者撮影)
またこの書には、延宝7年(1679】に吉井川岸の吉井村から平井村まで約17メートルの倉安川がつくられ、開通直後の50日間で1000隻が交通していたと池田文庫「御留長評定書」の文献から紹介している。
岡山商工会議所西大寺支部・支所長 内田薫氏

(国土交通省のHPより)
岡山藩領内では室町時代から瀬戸内海で廻船が活躍していたのは広く知られているが、
吉井川下流の西大寺での廻船についてその研究をみつけることが出来なかった。
そんな中、2023年2月沖縄での北前船寄港地フォーラムに、岡山商工会議所の松田久会頭に西大寺の舟運と北前船について詳しい方を紹介をお願いしていた。
岡山商工会議所西大寺支部・内田薫支所長を紹介していただき、明楽氏の番組で話していただいた。
西大寺市は、昭和44年岡山市と合併し岡山市東区西大寺となり、最寄駅はJR赤穂線の西大寺駅。
(

金陵山西大寺観音院(2023.7筆者)
西大寺の名は、金陵山西大寺観音院が由来で、この大切な年頭行事に西大寺会陽「裸祭り」(国の重要無形民俗文化財)から打田氏は紹介している。
2023年の開催で連続514回目となり、その始まりが1509年だったのが分かる。裸衆の参加数は1万人で観客は3万人の来場があり、コロナ禍の3年間は争奪戦を見送り、観客を入れず宝木の授与を行っていたことから来年の会陽に期待を寄せていた。

西大寺の北前船入門セミナーイで(2023年7月)
この「裸祭り」の絵馬に注目したのが、岡山商工会議所の松田久会頭だった。本堂大床の東壁面に明治10年に奉納された「狩野永朝会陽絵馬」があり、縦3.3メートル、横5.16メートルにも及び、そこに見られる北前船の船影として船尾が見ることができるという。

沖縄での北前船寄港地フォーラムでの岡山市のブースで
内田氏は港跡の調査で、九蟠港から西大寺の干拓前の海岸線に沿って、常夜燈や、舟をつないだエノキを確認している。
この「九蟠港」について、岡山県刊行(1928年)の「港湾調査報告」から紹介している。
「本港は明治初年頃より19年頃迄、毎年秋季に至り北海道より魚肥を積載し千石船數隻入港し陸揚、又は本港を経て近港へ移出するに1ケ月以上碇泊するを常とする。又和歌山地方より木材、線香粉等を移入し、作州からは茶、木炭、木材等を移入する等、吉井川の舟運を利用した。」
『九蟠村史』(岡山市立公民館九蟠分館刊行 1971年 )には、「北海道から魚肥を積んで来る、北前船純日本古来型の大巨体の私船で、一かかえもある一本柱に真帆を掲げ船首に大きな総をさげ入港して来る姿は、何ともいえぬ威勢なものである」と記載があるという。
江差町関川家の1753年の『永代客船帳』に、「備前沖新田板屋源五郎様、御船頭源七郎様」、青森野辺地町五十嵐家の『久星客船帳』(1790~1870)に「西大寺町平野屋平吉」の行安丸の名前が見えるという。これは『岡山県史 第7巻 近世Ⅱ』に述べられいるたことは、内田氏の調べでわかったものである。

久山雅生氏提供 (中福町町内会 会長)
西大寺周辺は門前町として発展し、周辺の経済の中心に賑わい、中でも五福通り一帯は、軒先を切った看板建築の建物群が残っている。この景観は「ALWAYS三丁目の夕日」など多くの映画やテレビのロケ地として活用されている。
(写真を提供していただいた久山氏の実家がこの一角にある)
また西大寺文化資料館には「弁財船の模型」や、綿花などの展示があり、北前船に関心のある方は是非訪ねてほしい。
。
打田氏が全国の客船帳を調べる中、酒田市の杉原丈夫氏が発行した2冊の客船帳から、西大寺の足跡の他、吉井川上流の津山藩の村に昆布が運ばれてきたとことを町史にその記述も発見している。
今後はこの歴史的事実を背景に北前船の寄港地として日本遺産の追加認定に期待を寄せていた。
「名城巡りと北前船の旅第72回 」平戸城と出島(長崎県)
平戸と出島の交易
長崎県平戸市文化交流課・学芸員 前田秀人氏の話から紹介する。
平戸市は2005年周辺の島々、対岸の九州本土の田平町等と合併し本土にも広がった。


(写真は国交省HPより)
平戸島にある、平戸城(日本100名城)の藩主松浦氏は、中世の頃から「中小の武士団」をまとめ勢力を伸ばし1599年に現在の地に築城したが1613年(慶長18)火災により焼失している。松浦氏は、再築を徳川幕府に願い出て、1704年から14年かけ完成させた。天守閣はなく島の半島全体を城郭にした城だった。

平戸城 軍艦島ミュージアム提供
赤穂城と同じ山鹿流だがその具体的なものはなく、素行の思想が入っていると前田氏は語る。現在の平戸城は1962年(昭和37)に造られ、平戸城の入口には城再築と山鹿流の関係を紹介したパネルがある。

平戸城入口で(2020年筆者撮影)
平戸島は古来より中国と博多を結ぶ航路の要所で、大陸との交易が盛んにおこなわれ寄港地として多くの異国の文化を受けいれている。
1550年、ポルトガル船の平戸港入港をきっかけに南蛮貿易が盛んになり、オランダ商館、イギリス商館が建てられ西洋との国際貿易港になった。

平戸オランダ商館 所蔵
平戸島には、2011年に復元オープンしたオランダ商館・松浦史料博物館(松浦家私邸)等、歴史を物語る建物が多くあり、江戸時代の地図もそのまま使えるという。

オランダ商館 軍艦島ミュージアム提供
フラシスコ・ザビエルは1549年鹿児島に来ているが、ポルトガル船入港を知り1550年に平戸に来てキリスト教の布教をしている。
平戸藩は海外との南蛮貿易で豊かな藩だったが、幕府の鎖国政策で平戸オランダ商館は1641年取り壊され海外交易停止は大きな痛手となった。
そのため、新田開発に力をいれた他、鯨組をつくり捕鯨に力を入れ、藩の財政を支え今でも平戸には鯨文化が残っている。
幕府の鎖国政策で平戸オランダ商館が取り壊された後、出島に移され海外交易の拠点なり「四つの貿易口」の一つとなった
出島については、長崎市出島復元整備室・山口美由紀学芸員の話です。

(出典 国会図書館デジタルアーカイブ)
徳川政権でもキリスト教を禁止したが、貿易の推進を望む幕府は寛永13年(1636)、日本人から隔離・収容する目的で、寛永13年(1636)に海を埋め立て扇型の人工の島・出島を築き当初はポルトガル人を住まわせている。
その後、ポルトガル人は退去させられ出島が無人になった為、平戸のオランダ商館が出島に移され、鎖国下、西洋との貿易の地になった。

写真は出島復元整備室提供・
出島は、1641年の移転から安政6年(1859)オランダ商館閉鎖まで、218年間の歴史がある。
出典 国会図書館デジタルアーカイブ
この出島の貴重な歴史的遺産の復元に 出島復元整備室が取り組み、2016年に16棟の江戸時代の建物が復元され、2017年には表門に通じる橋も完成した。これらの整備には、市民や多くの人々の募金も用いられている。この建物や町並みは江戸時代の出島を体感できる観光スポットになっている。ポルトガル船来航から450年にあたる2021年、多くのイベントが開催された。

出島復元整備室提供
残り3つの口、「薩摩藩の琉球」、「対馬藩の朝鮮」、「松前藩の蝦夷地」は、いずれも藩や商人の交易だったのに対し、天領だった長崎は幕府の管理下のもと、中国貿易、オランダの中継貿易が展開され、グローバルな経済活動に加え、医学等の学術や文化にも多くの影響を与えていた。
出島での輸出は古伊万里が西洋で人気だった。輸入は生糸を含む衣類や砂糖があり、中でも砂糖で培われた食文化がある。そして中国船やオランダ船がもたらした砂糖は長崎に近かった九州北部の食文化にも影響を与え、とくに砂糖の文化が華開いた長崎街道沿いは、現在「シュガーロード」と呼ばれている。

山口さんは著書『旅する出島』で、写真や絵図を使い出島の魅力を紹介している。この本は、第31回地方出版文化功労賞の奨励賞に選ばれている。
「北前船寄港地船主集落の旅」第16回 盆踊り坂越(赤穂市)等
16回 盆踊り
盆踊りについて、兵庫県赤穂市・岡山県笠岡市・愛媛県大洲市の方に明楽みゆき氏のラジオ番組で話して頂いた。
最初は、坂越の盆踊り保存会の篠原氏会長の話から紹介する。
篠原氏は、愛媛県青島や岡山県白石島にも行きその違いを研究している。
愛媛県の無形民俗文化財の「青島の盆踊り」は、坂越の漁民が伝えたもので、現在の「坂越の盆踊り」に似ていない。これに対して、岡山県の「白石踊り」は、坂越の盆踊りの歌詞にとても似ているという。


篠原氏提供
笠をかぶって踊るのが白石踊りだとその違いも篠原氏は指摘している。
坂越湾の生島(日本遺産構成文化材)の鳥居の礎石に白石島(石の島で日本遺産)の文字がある。

日本遺産構成文化財の生島と白石島の石の鳥居 (坂越の船祭りの日に船から撮影)
これは、台風の時に鳥居の礎石の周辺の石が流され、白石島の文字が浮かび上がってわかったと元坂越歴史研究会会長の故大西孜氏の話も紹介している。
篠原氏が2007年「坂越の盆踊り」を赤穂市の文化財に申請した時の資料が、坂越まち並館にある。
この中の『御役用諸事控』(1803)と『万覚書』(積善社・本町文書(1808)には「17世紀から18世紀に坂越浦は人が行き交う港町として賑わい、航路拡大に伴い情報や文化も集まり、伝承する踊りもそんな背景がある」と書かれていた。

篠原氏と坂越の盆踊り保存会の方々(2019年坂越の大道で)
現在の「坂越の盆踊り」は廻船で賑わった時代から続いているのに対し、青島の盆踊りは、それ以前に坂越の漁民が移住し伝えたものだ
この放送の後、瀬戸内海の盆踊りの伝播を研究している坂本要氏(筑波学院大学名誉教授)と坂越公民館で篠原氏と情報交換をした。
坂本氏は「坂越の盆踊り」「白石踊り」「青島の盆踊り」が、宮崎県延岡市の「新ばんば踊り」にどのように影響し「兵庫節」ともいわれている背景を調査されていた。
延岡藩は大武港、東海港から参勤交代の行きかえり、坂越港を利用していた事、赤穂から入浜式塩田が延岡に伝わっていた事に関係しているかも知れないと坂本氏に後日伝えた。
次は、「坂越の盆踊り」と歌詞が似ていると指摘があった白石踊りについて、岡山県笠岡市の白石踊り会・理事 天野正氏に話をしていただいた。
天野氏は、ケンペルの『江戸参府旅行日記』(1691)に、「白石港は比類無きほどの船の停泊地で、他に12隻の停泊船があり、われわれと同じように船の横揺れを防ぐために、帆柱を倒していた」と語っている。

ケンペルはこの後、坂越港に寄港し江戸に参府している。この事から瀬戸内海のルートに白石島~坂越港が知られ、白石島から石や「白石踊り」が坂越に伝播したと考えらる。

ウキランドより転載
白石踊りの起源は、源平合戦での戦死者を慰霊したといわれ、男踊り、笠踊り、奴踊り、鉄砲踊り、真影踊り、女踊り、大師踊り、阿亀踊り、娘踊り、扇踊り等13種が残り、異なる振り付けを一つの音頭に合わせて同時に踊るという、他にあまり類例のないのが特徴だという。
白石踊り 天野氏提供
昭和51年、国指定無形民俗文化財に登録され、白石島の伝統行事として毎年8月のお盆の期間、公民館前広場で演じられている。白石島の人口は2001年の750人余りから、2015年には450人となり少子高齢化人口減少の中でも、伝統の継承に学校の協力等力を入れていると話していた。
坂越の漁民が伝えた愛媛県大洲市の「青島の盆踊り」について、大洲市で地域史の研究をしている瀧野起一氏に話して頂いた。

青島は大洲市長浜沖13キロメートルにある。寛永16年(1639)、大洲藩2代目藩主加藤泰興に願いでて、坂越から16家族が無人島だった青島に移住し元禄元年(1688)坂越から寺を移し「真宗寺」としている。
泰興は、赤穂で出家した盤珪禅師を招き如法寺(重要文化財)を開創、加藤家の菩提寺としている。盤珪は海路で大洲へ入ったが、その海路上に青島があり、赤穂と縁ある青島に泰興が島へ渡ることを勧めたという。泰興から苗字帯刀が許され故郷の赤穂にちなみ赤城姓を名乗っている。

青島の盆踊りは、毎年8月14・15日にあり、14日は氏神(坂越神社の分身)の前で赤穂義士の装束で、その年に亡くなった人の霊を慰める「亡者踊り」が演じられていた。15日は魚供養の「大漁踊り」(賤ケ岳七本槍など)が演じられていたという。

一時900人近くが住み小中学校もあったが、今は住民5人に、猫100匹以上が住む島になり、盆踊りも途絶えている。2010年頃テレビで島の様子が紹介されると、海外も含め多くの猫ファンが訪れ一躍脚光を浴びたが、人口激減で青島の盆踊りは存続出来なくなったと瀧野さんは語っていた。
最後は、赤穂市教育委員会で文化財に30年間にわたり取り組んだ宮崎素一氏。
宮崎氏は「坂越の盆踊り」を赤穂市の文化財登録に尽力した他、2012年、64年ぶりに「坂越の船だんじり」と「鳥井町の曳とんど」を復活させている。
船だんじりは国重要無形民俗文化財の祭礼行事「坂越の船祭り」(日本遺産構成文化財)で披露されたが、復活させた日、地元の90歳のお年寄りの感動を紹介している。

「坂越の船だんじり」 (坂越まち並み館展示より)
「鳥井町の曳とんど」は、小正月に大きく組んだやぐらを台車に乗せ、音頭に合わせて賑やかに綱を引き、海岸まで運び、点火するという風習である。
鳥井町は、山に挟まれた坂道沿いに家屋が軒を並べ、ほとんど平地がなかったので生まれたものだという。
船乗りを相手に三味線や小唄を披露する芸達者が多く暮らし芸者町と呼ばれていた。赤穂民報の報道では明和・安永年間(1764~80)に始まったとある。

引きとんど(坂越まち並み館展示)
この「鳥井町の曳きとんどの唄を小学生の時、音楽の先生に頼まれて吹き込んだテープを使い、歌った事がある」と地元の演歌歌手・坂越加奈氏のコメントがある。
「名城巡りと北前船の旅」第71回利根川の舟運①
利根川の舟運①
群馬から埼玉そして千葉の太平洋に流れる利根川沿いに、続日本100名城の沼田城と日本100名城(箕輪城、鉢型城、忍城、佐倉城)そして関宿城があった。また利根川の東遷で活躍したのが佐原の伊能忠敬だった。
今回は沼田城と関宿城を紹介する。
はじめに群馬の沼田城について、沼田城歴史資料館・館長 小池雅典氏に話して頂いた。小池氏は、市の文化財保護課で学芸員として35年勤務し遺跡の発掘調査に関わってきている。


沼田城絵図 出典 国立公文書
沼田城が、「天空の城下町」といわれているのは、段丘下にあるJR沼田駅と、段丘上の城跡と城下町は高低差が80m以上もあり、年に数回、利根川とその支流の薄根川に川霧が立ちこめ、高い段丘上にある城跡と城下町が宙に浮かんでいるかのように見えるからだという。
沼田の特産品は姫小松・黑檜木・竹などで、利根川を利用して輸送されていた。 上流の利根川は急流で瀬が多く舟が上がれない為、下りの一方通行で、木材は筏に組んで下流へ流し、川幅が広がる中流域で大きな筏に組み直し、江戸などへ送られた。

この中で、江戸両国橋の架け直しに使う資材を真田信利氏が請け負ったが、木材伐りだしの遅延と失政を幕府にとがめられ改易となり、長男真田信就は赤穂藩浅野氏へ預けられた。
この為、真田氏は90年と短く、天和2年(1682)沼田城は破却され、堀も埋められ、その後、沼田は一時天領になった。

出典国土交通省HP
利根川は東遷(写真)で銚子に流れが変えられたが、江戸後期には柵木の需要が急増し、年間千本以上が送られていた。
沼田市歴史資料館は2019年、7階建ての商業ビルを改修した複合施設「テラス沼田」に市役所が移転し、その2階にオープンしている。
「天空の城下町 沼田の歴史をたどる」をコンセプトに、原始・古代から現代までの沼田の歴史の他、空撮した動画や河岸段丘のジオラマ、そして城の建物に使用された金箔瓦を含む瓦、陶磁器など発掘調査で出土したものを常設展示している
「名城巡り」で沼田に来られた節は、この歴史資料館にも寄って欲しいと小池氏は話していた。
次に 「利根川上流の舟運」に続き、千葉県立関宿城博物館学芸課長・尾崎晃氏に「利根川の東遷」とその水運について話していただいた。
尾崎氏は近世史が専門で、佐倉市の国立民俗学博物館を経て2013年4月関宿城博物館に着任。

関宿城博物館 工楽隆造氏提供
関宿城博物館は、野田市関宿三軒屋(千葉県最北端)の利根川と江戸川の分流点の堤防上にある。ここから少し南にあった関宿城天守を模した4階建ての建物で、平成7年に開館している。
家康は江戸に入封すると、江戸湾に注いでいた利根川本流を銚子につけ替え工事を開始する。これは洪水対策、新田開発、水運の拡大が目的で、東遷工事の完成には60年かかったという。渡良瀬川、鬼怒川等も利根川に合流させ、利根川と江戸川の分岐点になったのが関宿である。
利根川の東遷で東北地方の物資は、銚子で荷下ろしされ高瀬舟に積み替え、利根川をさか上り、関宿から江戸川を下り江戸へ運ばれた。
関宿には「河岸」(船発着場)が四つあり、水陸両面で交通と物流の要衝になり、河岸問屋の蔵が建ち並び、茶屋、旅籠、遊郭などで賑わう城下として発展する。江戸への物資の輸送の必要から利根川水運は盛んになり、その主役高瀬舟は舟底が平らで、水深の浅い川でも運行することができた。江戸後半には工楽松右衛門帆が使われるようになり、たくさんの舟が往来するようになる。

松右衛門帆を使った高瀬舟 提供 関宿城博物館

工楽松右衛門帆の生地 提供 関宿城博物館
この博物館では、米1300俵ほどを積載できた横幅3メートル・長さ10メートルの高瀬舟の大型模型を、展示室の中央に配している。この両脇に河岸問屋と醤油蔵の模型を展示している。
明治に入ると蒸気船も利根川を往来するようになり、東京湾から江戸川を上り、関宿から銚子まで22時間で行けたことも尾崎氏は紹介している。
関宿城博物館に展示されている松右衛門帆については2022年4月に発売された『工楽松右衛門伝』で紹介している。
「名城巡りと北前船の旅」第70回南海路①
南海路①
西廻り航路で北前船が航行する前から、大坂ー江戸間を往来した廻船があった。
その船は菱垣廻船と呼ばれ、この菱垣廻船や樽廻船にも尽力した田沼意次の話を、静岡県牧之原市史料館・学芸員 長谷川倫和氏に、そして神奈川県平塚市博物館・学芸員 早田旅人氏に相模川の舟運について話をして頂いた。
近世の郷土史・民俗学が専門の牧之原市史料館の長谷川氏のインタビューから紹介する。

牧之原市史料館は相良城本丸跡に田沼意次候顕彰のために建てられた施設で、その生涯、功績、田沼家の遺した美術品や古文書などが展示されている。
江戸幕府成立から人口急増したが、江戸周辺は産業が未発達で先進地域の上方からの日用品等の大量の物資を輸送をしていた。それが 両舷の垣立という部分に菱組みの格子を組む「菱垣廻船」、そして酒樽が主な積み荷の「樽廻船」だった。

出典:Wikipedia 1860年代の「菱垣廻船」
菱垣廻船の活躍から50年余りして西廻り航路が整備されると、江戸や大坂に集まる物資の増加から南海路はさらに発展する。
大坂側に隣接する御前崎湊は風が強く岩礁のため船の難所で、牧之原の相良湊と川崎湊が南海路の寄港地として重要な存在になった。

田沼意次候が相良藩主になると、港・街道・橋などのインフラ整備、製塩や養蚕などの興業を進め、相良湊は発展していく。
田沼時代に、廻船問屋が航海の安全と商売繁盛を祈念する為に始まった祭りに、大江八幡宮の『御船神事』(国重要無形民俗文化財)がある。
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出典:Wikipedia(国会図書館蔵) 大江八幡宮の御船神事を描いた江戸時代の彩色画(1803)
菱垣廻船と樽廻船の模型を使いシーソーのように上下に練ることで、波を乗り越える廻船の様子を表現し、商売繁盛・海上安全を祈願したもので、現在も継承されている。
当時、南海路では菱垣廻船と樽廻船の競争が激化し、無理な積み荷や運送による海難事故が多発していた。意次候は、過度な競争を防ぎ商品の流通を安定させるため、対立していた菱垣廻船と樽廻船それぞれの権益を認め、幕府の統制のもとで物資の安定的な供給を実現し、自領の港を整備、過度な競争による事故に備えた。
意次候は現在の岐阜県郡上市で起こった百姓一揆を裁定し、牧之原に領地を与えられ相良藩1万石の大名になり、最盛期には、石高5万7000石にもなる。
しかし、天明7年(1787)意次候は失脚し相良城も取り壊されるも、文政6年(1823)、意次候の四男・意正が旧領復帰を果たし、明治維新まで田沼家の領地として存続している。意次翁は、米経済が中心の時代に、商業を重視し流通に目を向ける等、時代を先駆けた視点を持った人物だった。

2020年5月、全国初の田沼意次候の銅像が牧之原市史料館の前に建てられ、2021年12月、田沼意次侯の大河ドラマ誘致が宣言されたと長谷氏は語った。
次は神奈川県平塚市博物館・学芸員 早田旅人氏(専門は近世史)に平塚港と舟運の話をして頂いた。
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平塚は幕府領(徳川直轄地)だったが、旗本に領地を与え旗本領になる。徳川家康は関東に入城後、平塚で鷹狩をたびたび行い、やがて防衛設備も備えた「中原御殿」を造営し、駿府・京都などの往復時に中原御殿に宿泊している。

出典 国会図書館デジタル 平塚宿
平塚宿は、徳川家康が東海道に宿駅伝馬制度を設けた慶長6年(1601)に成立し東海道53次の一つになった。宿駅伝馬制度で、陸の宿駅・伝馬制度で、交通・通信体制の礎を確立している。

平塚の港、須賀は相模湾岸の海運の中心地で、相模川上流の山梨からもたらされる筏による木材などの物資運送の結節として栄えた。
また相模から千葉の野田に醬油の原料となる小麦を廻漕し、荷主には現在のキッコーマン(株)の前身となる醤油醸造家がいた。相模で産出される「相州小麦」は、良質で醬油の原料として珍重されたという。

国会図書館デジタル (江戸期の須賀港)
廻船業は多角的経営で茶や白砂糖等の廻漕・販売、さらに金融も行い、江戸城下の発展にともない、相模川・相模湾の流通量が拡大していく。
須賀の廻船問屋が上流の材木事業者に融通した金融は、運賃をとれる積荷を確保するためで金利はとらなかったという。このことから須賀村の廻船問屋と上流の材木事業者との間で川がつなぐ金融・経済圏ができる。江戸は初期から建設ラッシュ、その後は度重なる大火で、木材の需要が旺盛だった事から平塚は廻船でにぎわっていた。

平塚市博物館は6つの分野(天文・地質・生物・考古・歴史・民俗)で、それぞれの学芸員の研究をHPで掲載の他、博物館公式YouTubeチャンネル「HIRAHAKUチャンネル」で「5分でわかる平塚学入門」のシリーズがあり、早田氏は、YouTube「相模川の水運」で木材の筏流し、金融の仕組みを紹介している
また2016年家康没後400年では、家康と平塚の関係を考えた特別展が早田氏の企画で開催された。
「名城巡りと北前船の旅」第69回 対馬(長崎県)と田代(佐賀県)
第69回 対馬(長崎県)と田代(佐賀県)
長崎県対馬歴史研究センターで近世史を研究されている学芸員 丸山大輝氏のお話から紹介する。
長崎県には日本最多971の島があり、対馬・壱岐・五島は大陸との最前線に位置し、国境の島だったことから文化財が数多く残されていると話が始まる。
お城EXPO2018横浜 対馬市教育委員会村瀬氏
対馬は、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」のストーリーで日本遺産に認定され、その構成文化財に金田城跡や金石城がある。
金田城跡(続日本100名城)は、7世紀に建造され日本で一番古い城である。

金石城
金石城は対馬藩主宗氏の居城で政庁だったが東隣に新たに桟原城を寛文5年(1665)に整備・拡張され藩庁としていた。

対馬藩お船江跡
「対馬藩お船江跡」(日本遺産構成文化財)は藩主の乗る船の船溜まりの跡で、藩の船を「船江」に格納し、管理は「船奉行所」がした。「船奉行」を筆頭に「船手」や「船大工」の組織を置き、幕府と朝鮮王朝を取り持つ窓口とし、外交の実務や参勤交代を担った。

対馬から見える風景(原口泉志学館大学教授提供)
現在の釜山に、長崎出島の25倍の広さの土地に「倭館」と呼ばれた日本人居留地を置き、500人以上の対馬藩士、対馬島民を居留させ、対馬藩と朝鮮との貿易を行なっていた。
鎖国という言葉はあるが、丸山氏は、長崎・薩摩(琉球)・松前・対馬の「四つの口」で海外と交易をしていた話す。

輸入品は中国産の生糸、絹織物、朝鮮人参で、主な輸出品は銀や長崎貿易で入手した産物だった。
対馬は平野や河川が少なく米がほとんど採れなかった為、朝鮮からの輸入と現在の佐賀県鳥栖市の田代領の飛び地から運ばれた年貢米が主だった。
対馬歴史研究センターは、平成29年に休館した長崎県立対馬歴史民俗史料館の機能を受け継ぎ、江戸時代に対馬を治めた宗家の「対馬宗家文庫史料」約8万点をはじめ、対馬の歴史資料を保管・研究する施設。朝鮮通信使の行列を描いた「朝鮮国通信使絵巻」はこのセンターに所蔵である。

丸山氏は、韓国までは50キロメートル、日本本土から100キロメートルある対馬を日本遺産などの文化財からアピールし、対馬の歴史について詳しく知りたい方は対馬歴史研究センターに是非、来訪してほしいと話していた。
(対馬の写真はウィキペディアを使用)

(写真は原口氏提供)
この碑には、1905日露戦争でロシアのバルチック艦隊を殲滅。撃沈した水兵143名が対馬に上陸した時、島の人は水兵達を手厚く持てなした。地区住人により明治44年建建立されたと記されている。
続いて、丸山氏のインタビューにあった「田代領」の米について、重松正道氏に話して頂いた。
重松氏は田代米研究の第一人者で、鳥栖郷土研究会で日本近世史、交通史を研究されている。2回のインタビューから田代米を搬送した坂越廻船(赤穂市)について紹介する。
対馬は中世から朝鮮貿易をしていたが秀吉の文禄の役(1595年)の後、朝鮮貿易が断絶した損害補償と戦功の意味で、薩摩藩出水郡(鹿児島県出水市)から1万石を拝領した。その後、島津氏へ返還され、代替地として「田代売薬」で知られる田代(佐賀県鳥栖市の東半分)を拝領し、対馬藩の飛び地となった。
当初、田代米は馬で博多まで運び海路で対馬に運ぶのが主流だった。それが承応4年(1654)より筑後川水運で赤江から小船で運び、久留米の住吉辺りで大船に積み替えた。
筑後川の上流から河口まで72キロメートルには、久留米藩、筑前藩の藩領が面し、篠山城を擁する久留米藩は防衛上で他藩の川舟運航をきらい、問題も多かったという。

(史料提供 重松氏)
延宝5年(1677)以降、水屋濱→瀬の下(久留米)→※橋津(榎津・若津)→対馬(長崎・大坂)の有明海大廻りルートになった。

(史料提供 重松氏)
対馬藩は輸送に自国船はほとんど使わず、朝鮮から輸入した朝鮮人参等を大坂や京都の蔵屋敷を通じて販売し藩の財源にしていた。
「赤穂市史」には、1716年以降、対馬・大坂への田代米22000俵を坂越の廻船が一手に引き受けた記述がある。
重松氏提供 田代覚書
重松氏は『青木家文書』から、田代側に残された坂越の事例を紹介している。
「文政13年、朝鮮国からの輸入米が暴風雨にあって漂流したので田代領からの米が一層重要性を増した。そこで一番船は8月下旬~9月上旬の内に到着してほしいという意味である。「当秋廻米積船注文覚」によると、毎年廻送している22000俵を一番から7番船で廻送し、大坂廻米の1300俵程は3番船で廻送する。このことを坂越船持中へ伝えてほしい旨を諸冨津の赤穂屋(廻船問屋)へ仰せ付けられた。また、注文書写を同封して、例年どおり播州赤穂坂越浦船主と船頭衆へ飛脚を差し立て、書状が届けられた。
下関の虎屋(虎屋惣兵衛・本業は瀬戸物屋)へは廻船の中継連絡を依頼していた。何度も書状を出したがようやく7月28日発信の返事がついた。
両家手持ちの船は出払っており、9月上旬着は難しいので一番船は他船を利用してほしいという返事である。田代役所からも坂越船が遅れるなら他船を借りるような指示があったので坂越両家及び虎屋には今後の船繰をたのむ一方、諸富に行き、柳川領の船を借りるめどがついた。10月5日にやっと坂越と話がついた。
小市丸船頭庄左右衛門の書状が下関より飛脚が到来したのである。小市丸は21日に下関に着き、直ちに当地へ出発。近日中に当地へ廻着する。また、その後住徳丸が近日下着するというのである。
また、坂越廻船が田代米輸送の合間に北国米を廻漕していた記載もある。これはおそらく、酒田等に赤穂塩を運んだ帰り米を廻漕していたと考えられる。(酒田市史には1670年代から坂越の廻船の記録がある)
下の写真は1740年の船賃銀表(坂越大西家本家の安永家蔵)である。
坂越を起点に、北は松前、西は対馬、南は薩摩まで71地域に及んでいる。

(左7行目に田代から対馬までの船賃銀は、田代が唯一の起点になっている)
坂越廻船が田代米廻送から撤退した理由として、対馬藩の借銀回収が難しくなっていった他、米などの運賃積から、塩輸送にシフトしていったのが考えられるとしている。
対馬藩は朝鮮からの漂流者を長崎から本国に返す仕事もしていた。田代領では、長崎街道の宿場の役割の他、山陰や九州諸藩領などの漂流民を引率する役人を迎接する役目も担い、長崎護送・出先に「往復書状」のやりとり等の情報も共有をしていたとしている。
「北前船寄港地・船主集落の旅」 第15回長岡
第15回 長岡
新潟の港の歴史を紹介している新潟市歴史博物館・学芸員 安宅俊介氏に、長岡藩領だった頃の信濃川左岸河口、新潟港の話をしていただいた。

提供 新潟市歴史博物館
長岡藩は、新潟町の港に元和2年(1616)奉行所を置き港を管理していた。
河村瑞賢が西廻り航路(1672)の開発以降、北前船で賑わう港になり各地からの入港税・廻船をはじめとした上納金で、長岡藩の繁栄は200年近く続いていた。
この繁栄の中、新潟港沖で薩摩船が唐物や松前の俵物等の抜け荷(密貿易)が幕府に摘発された。長岡藩は薩摩船の抜け荷の取り締まりをしていなかったとして、新潟町は上知され天保14年(1843)幕府領となった。

新潟港 提供 新潟市歴史博物館
新潟町に幕府直轄の新潟奉行所が新設され、初代奉行に川村修就(ながたか)が江戸から派遣された。川村修就は、薩摩の抜け荷の真偽を調べた文書『北越秘説』を残している。
安宅氏はこの館にある『北越秘説』から、薩摩船は新潟港には年間約6隻が入港し、積み荷のさつま芋や砂糖の下に唐物を隠し薬種、朱などの抜荷を大量に持ち込み、新潟から各地へと売りさばいていたと話をしている。現在、川村家の史料のうち、おもに江戸時代のものは、新潟市歴史博物館が所蔵している。

出典 新発田市立図書館
幕府領になった新潟港は、幕末に開港され、箱館、神戸等開港5港の一つになった。
次は、長岡市立科学博物館学芸員・加藤由美子氏に、新潟港から得る収益が無くなったその後の長岡藩の話と平成18年に長岡市ろ合併した寺泊について話して頂いた。
この科学博物館には、動物・植物・昆虫・地学・歴史・民俗・
考古・文化財の 8 部門があり、加藤氏は文化財の担当である。
長岡藩は、 新潟港から得る収益が皆無になったことなどから財政難に落ちいっていた。継之助は藩の改革で、長岡藩の累積赤字を解消させ、多額の剰余金を持つまでになるが、この改革は米百俵の小林虎三郎に受け継がれる。
継之助は文政10年(1827)に長岡藩士の家に生まれ、33歳で生涯師と仰いだ備中松山藩(現高梁市)に財政等を学んでいる
戊辰戦争で、長岡藩の軍事総督となっていた継之助は、幕府方にも新政府方にもつかない「中立」を主張し、長岡藩独自の生き残りの道を目指した。しかし、結果的に新政府軍と戦火を交えることとなり、継之助自身も42歳で命を落とした。
2020東京オリンピック開催に合わせつくられたチラシ(加藤氏提供)
コロナで延期になっていた継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『峠』(役所広司主演)の映画が、いよいよ2022年6月17日、全国に一斉公開される。

長岡市の北前船寄港地フォーラムで 2018.9
この映画化の話は、平成30年長岡で開催された北前船寄港地フォーラムでも取り上げられ、河合継之助や小林虎三郎の「米百俵の精神」がフォーラムのメインテーマとなった。

写真は河井継之助記念館の稲川明雄館長の講演(赤穂ロイヤルホテルで2018.11)
(長岡のフォーラムから2か月、赤穂市で開催された「坂越の北前船寄港地セミナー」で、河井継之助記念館稲川明雄館長(当時)が、継之助の財政再建を赤穂塩の付加価値の例から講演している。)

寺井秀光坂越まち並みを創る現会長、稲川館長、筆者 門田守弘坂越まち並みを創る会前会長
戊辰戦争に敗れ、困窮する長岡藩に支藩(三根山藩)から救援米が贈られた。
小林虎三郎は、「食べられないときにこそ、教育に力を入れなければならない」と、見舞いの米を食べずに国漢学校を開校する資金に充てた。これが「米百俵の精神」で「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の礎となる」という思想は、その後の長岡空襲、中越大震災などの災禍に何度も遭いながら、その都度復興を遂げてきた長岡のまちづくりの指針や人材教育の理念となり長岡で生かされている。
毎年8月に行われる長岡の大花火大会は、昭和20年8月長岡空襲で亡くなった人への慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いが込められている。

出典 ウキぺリア
寺泊は2006年に長岡市と合併するがその8年後、寺泊で「第10回北前船寄港地フォーラム」が開催された。

提供 加藤由美子氏
寺泊の日本遺産構成文化財の「寺泊おけさ」は、熊本天草のハイヤ節の流れを汲み、三味線と打楽器が一緒に演奏しているかのような独特の音色で、歌詞にわざと残響を抑えて弾く「殺し撥」という三味線奏法に特徴があるという。
この歌詞に「佐渡へヤー エヤー 八里のさざ波越えてヨ 鐘が聞こゆるヤーレ寺泊」がある。この歌詞から、江戸から佐渡へと送られる無宿人の港として、信州からの陸路を海路で結び、奉行、役人などの渡海場としてもにぎわい、遊郭や芸妓さんの出番が多かった話していた。
加藤氏は、長岡の誇りである継之助の生き様を描いた映画『峠』をご覧になり、継之助をはじめとした、当市が誇る歴史・文化に触れていたき、多くの皆様が長岡市にお越しいただきると幸いですと締めくくった。
「名城巡りと北前船の旅」第68回 備中松山城(玉島)


続いて、その倉敷市から日本遺産推進室・藤原憲芳氏に話していただいた。
藤原さんは、2回にわたりブラタモリで案内役を務めている。
備中松山城(日本100名城)の初代藩主水谷勝隆が、飛び地だった玉島の地形に着目し、点在する小さな島々を干拓し、堤防を築き玉島港を開く。この玉島港と高梁川の間には「高瀬通し」といわれる運河も造っている。
海岸沿いの堤防には商家や土蔵が次々と建てられ、43の問屋やその蔵が立ち並んでいたという。残っている町並み保存地区は、日本遺産構成文化財に認定されている。

良寛会館の前から見る玉島のまち並み(2019,11)
かつて海岸沿いの堤防に北前船が横付けし、綿花の肥料・〆カスが北海道から運ばれ、積み荷を降ろしていた。最盛期は西の浪速といわれ、備中一の賑わいだったという。
備中松山藩は良質の砂鉄がとれたことから「備中鍬」の特産品を、高梁川の舟運で35キロメートル下流の玉島港から江戸、大坂に運び山田方谷が財政再建を果たす。
玉島には、廻船問屋に関連する「書」と「茶」と「和菓子」の文化が多くのこされている。江戸期は400程の茶室があり、廻船問屋や船主のもてなし等の商談に使われた。
現在も、40の茶室が保存され、茶の湯文化が生活に根を下している。
毎年春に良寛茶会が開かれ、良寛は玉島でも親しまれている。

新幹線新倉敷駅(旧玉島駅)の良寛像(2019.11)
玉島や下津井では埋め立て地で綿花栽培していたことから良質の綿が大量に生産された。
足袋の生産では、大正期には2000万足に及ぶようになる。足袋の需要が減少すると、児島地区では学生服の生産で、国内メーカーの90%を占めるようになっていく。
戦後、縫製技術から国内で初めてのジーンズを作ったのが1965年で、更にストーンウオッシュの技術を見出しブランドになった。

児島地区のジーンズ街 出典 岡山観光WEB
『名城巡りと北前船の旅』第67回福知山城(由良川)
第67回福知山城
福知山城(続日本100名城)について福知山市文化財保護係の松本学博さんに話していただいた。
福知山城は光秀が天正7年頃(1579)築城したが、当時から残る個性豊かな石垣と、北近畿唯一の天守が魅力である。
光秀は福知山に市民から慕われ昭和61年(1986)復元され「福知山光秀ミュージアム」で詳しく展示されている。
復元された福知山城(福知山市文化スポー振興課提供)
城の石垣は、寺社などで使われていた石塔等、500程の「転用石」が使われた野面積みは現存し市の文化財である。
城の近くの光秀を祀った『御霊神社』(福知山市文化スポーツ振興課提供)
大河ドラマ『麒麟が来る』で見る光秀の家紋「桔梗」は、福知山の市の花に制定されている。
福知山藩の特産品になった「丹波漆」は、1300年ほど前には税として納められており、藩が夜久野町で植栽を推進し、漆の増産を奨励していた。
「藍」については京都の松尾大社の荘園が福知山にあり、1473年にこの地の荘園の人々が松尾大社へ藍を納め、1496年には浅葱色(明るい青緑色)に染めた布を納めたという記録があり紺屋町の地名が残っている。
「丹波の漆掻き」は平成3年が京都府無形民俗文化財に指定され、藍は、25年程前から藍同好会ができ、由良川の藍の栽培に成功し技術と伝統が継承されているという。
17世紀後半、西廻り航路が活発になると福知山から、綿・茶・漆・紙等が由良川河口の由良港や神崎港に高瀬舟で集められた。由良川河口東に神崎、西側に由良村があり、若狭湾に面した海岸一帯では揚浜式塩田で製造された。廻船業も盛んで船主、船頭・水主の活躍で海から遠い綾部、福知山まで高瀬舟で運ばれた。
由良川沿いに、川の港を意味する「天津・高津江・常津」などの「津」の地名、船着き場を示す「舟渡」の地名が残っているのはそのなごりだ。

出典 京都府HPより
由良川の高瀬舟と藩の関係について、国土交通省のHPには、『安土桃山時代、明智光秀が城下町を開くため堤防を築造し、由良川の河道を付け替えた堤防前の樹林群は「明智藪」と呼ばれ現在も残っている』と記述があった。

これについて松本さんは一次史料では確認できていないと語り、由良川と土師川(はぜがわ)の合流地点に堤防を築いたのは伝承であると話していた。






