「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

第74回 名城巡りと北前船の旅 香川県小豆島町の内海八幡神社

 


第74回 名城巡りと北前船の旅 香川県小豆島町の内海八幡神社

             掲載写真は  内海八幡神社黒木治夫宮司氏の提供。    

                            地図、、「岡山県 신로 町小豆島町 小豆島町 坂出市 丸亀市 善通寺市 琴平町 高松市 綾川町 三豊市 さぬき市 三木町 まんのう町 まんの 観音寺市 東かがわ市 愛媛県 徳島県」というテキストの画像のようです

 


   2023年3月、香川県小豆島町にある内海八幡神社に、輪島塗の絵馬が掲げられていると地元の金両醬油の藤井保壽オーナーから連絡があったので、土庄町の南堀英二氏に案内していただいた。

 藤井氏から元小豆島町会議員の浜口勇氏を紹介され、浜口氏と内海八幡神社をたずね黒木治夫宮司ともお話した。

テキストの画像のようです

 

 神社には、絵馬の他、本殿正面には狛犬、そして一対の灯篭があった。

 

一対の灯篭について、富山県立山博物館・学芸員 細木ひとみ氏を浜口氏から紹介され、明楽みゆき氏のFM番組で話して頂いた。

 

 細木氏は、民俗学が専門で現在は生まれ育った富山県の立山博物館で、立山信仰について研究活動をしている。

 細木氏は西宮博物館(兵庫県)の学芸員として活躍していた頃、小豆島町の小高い丘にある内海八幡神社に参拝している。

 この参拝をきっかけに、一対の灯籠に「西宮威徳丸船頭半衛門」と「西宮威光丸船頭半左衛門」の文字がある背景を調査し、「御影史学論集」で発表している。

 西宮鳴尾村では、貞享年間(1680年代)から酒造りをしていたが、その一人に辰馬半右衛門がいた。辰屋は4代目として小豆島橘村(現小豆島町橘)の橋本家から入った婿が、1804年頃より酒造りから廻船に傾斜していったという。

 これは灘や西宮で造られた酒を、小豆島南東部の船頭達が樽廻船で江戸へ運ぶ出稼ぎをしており、橋本家もその一人だった。

 毎年、新酒を運ぶレースがあり、一番早く江戸に着いた酒に高値がついた程、新酒を江戸に早く運ぶことが重要だったことから、操船技術にたけた小豆島の人達に活躍する余地があったようだ。

 内海八幡神社の一対の石灯籠の年代より少し下る頃の史料『西宮樽廻船並荒荷建名前帳』に、辰馬半右衛門の「威光丸」「威徳丸」の名あることから、酒を江戸に運んでいたのがわかる。地元の氏神である内海八幡神社に石燈籠を寄進したと考えられる。

 またこの神社東側の荒神社に、15代辰馬半右衛門が寄進した石の階段がある等、小豆島橘地区との深いかかわりが残されている。この他小豆島南東部との繋がりの例に、西宮今津の「小豆嶋屋」という酒造家がいたことも紹介。

またこの神社の拝殿に輪島塗の絵馬が、どんな経緯で寄進したものか調べて欲しいと浜口勇氏から依頼があった。

ウィンドチャイム、テキストの画像のようです

 そこで輪島市のいしかわ百万石文化祭推進室次長・殿田憲司氏に輪島塗についてFM番組で話していただいた。

 輪島漆器は、室町時代、和歌山の根来寺の僧侶が能登を訪れ製法を伝えたのが始まりで、

江戸時代に入り、全国に広がった例を二つ紹介している。

 その一つが、輪島の門前町の曹洞宗大本山へ全国から上がった僧侶たちが、各地へ帰る際に漆器を持ち帰っていたことだ。

 もう一つは、輪島塗の塗師屋が、問屋を通さず販売する仕組みを確立し、神社仏閣の他、庄屋が来客のもてなし用に使う御膳や御盆などを各地で販売した。

これを促進させたのが北前船で、帆船を3隻持つ久保屋を中心に、輪島の港から各地に運ばれた。

 輪島市の北前船の日本遺産構成文化財の住吉神社の鳥居は、小豆島産の石でできており小豆島との関連は不明だが、明治に入り小豆島の内海八幡神社に、関係者が輪島町の塗師屋 西門善七に発注したものとわかつた。

 

 また内海八幡神社に狛犬があったので、浜口氏から紹介して頂き「小豆島狛犬探究会」の山西輝美氏にFM番組で話していただいた

  (以下の写真は山西氏の提供)
 地図、テキストの画像のようです
 
 山西氏は探訪本『小豆島のこまいぬ』の著者で、小豆島の神社にある狛犬から調べ、地元中心に講演等の活動をしている。
 山西氏の狛犬研究は「狛犬は砂岩で彫られ、小豆島は花こう岩の島だがなぜ砂岩の狛犬がたくさんあるのか」と疑問に思ったのが始まりだという。
  狛犬のルーツは、オリエントの時代、シルクロードを通って唐に伝わり、唐獅子となる。日本には平安時代に伝わり、狛犬とよばれるようになり、江戸時代半ば北前船の活躍で、バラストとして下りの荷物の船底に積まれ、船主の寄進により、神社の参道に狛犬が置かれていた。
 小豆島では、狛犬は彫られなかったため、石工は、隣の豊島や、岡山の児島半島などに出ていっていたという。小豆島石工吉松も、倉敷あたりで活躍しており、その狛犬が、岡山の山奥の美咲町などに3対残されているという。
 その特徴は、目の形、鼻の形、眉毛の盛り上がり方、耳の垂れ方がある他、各地それぞれの地方の型があり、地域、時代を知ることができる。
 
狛犬には、江戸型、出雲型、浪花型の3つの型に分類され、これを山西氏提供の写真で紹介する。



山西氏から提供されたデーターから内海八幡神社の狛犬は、なにわ型であるとわかった。
また、藤井保壽氏先祖の狛犬は(慶應元年)、出雲型風の顔となにわ型風な尾を持ちなのもわかった。サイ、テキストの画像のようです

 

名城巡りと北前船の旅第73回 津山藩の舟運と西大寺港

名城巡りと北前船の旅第73回 津山藩の舟運と西大寺港

 

 津山城近くの津山郷土博物館・学芸員 東万里子氏に津山藩の飛び地小豆島で、元赤穂藩士、鞍懸寅二郎の活躍について取材し文献も見せて頂いたのが2017年12月だった。

 

  津山徳森神社の小豆島の常夜灯(筆者)

 

 東氏に津山藩の藩政と舟運についてFM番組の話をベースに紹介する。  

 津山藩初代藩主・森忠政は、慶長8年(1603)、美作国18万石余りを与えられると、津山城を拠点に城下のまちづくりに取り掛かり、治水対策として吉井川左岸に堤防を築き、船着き場を整備している。

 船着き場の周辺に舟運関係者に加え旧領や近隣の町から商人や職人を集住させ、吉井川沿いの船頭町の名が残っている。 

 津山城下の発展におおきく寄与した高瀬舟は、吉井川上流から年貢米や特産品を西大寺港まで運んでいた。一部は大坂・江戸などに廻漕され、上り舟は塩などの海産物、醤油・酒などが運ばれた。

 川を上る時は、帆を張り風の力で進み、風の力だけで進めない所では、舟に綱をはり、川岸から綱を引っ張って上流に引き上げていたという。

 吉井川の舟運は、室町時代から発達しており、慶長9年(1604)京都の豪商、角倉了以は河川交通の視察の為、吉井川を訪れ、急流を逆行する平底の高瀬舟をみて、これを範として京都等で就航さた東氏は話していた。

『図説岡山県の歴史』(河出書房新書)には、大堰川・富士川・天竜川・高瀬川などを開鑿、高瀬舟を就航させ、舟運による物資流通の基礎を確立し、それが日本全国へ伝播したと、「角倉了以翁碑」から紹介している。

 

  

  津山市船頭町の吉井川沿いにある高瀬舟乗場跡には西大寺港の名が見える。(筆者撮影)

 

またこの書には、延宝7年(1679】に吉井川岸の吉井村から平井村まで約17メートルの倉安川がつくられ、開通直後の50日間で1000隻が交通していたと池田文庫「御留長評定書」の文献から紹介している。

 

 

 

岡山商工会議所西大寺支部・支所長 内田薫氏

(国土交通省のHPより)

岡山藩領内では室町時代から瀬戸内海で廻船が活躍していたのは広く知られているが、

吉井川下流の西大寺での廻船についてその研究をみつけることが出来なかった。

 

 そんな中、2023年2月沖縄での北前船寄港地フォーラムに、岡山商工会議所の松田久会頭に西大寺の舟運と北前船について詳しい方を紹介をお願いしていた。

 

 岡山商工会議所西大寺支部・内田薫支所長を紹介していただき、明楽氏の番組で話していただいた。

 西大寺市は、昭和44年岡山市と合併し岡山市東区西大寺となり、最寄駅はJR赤穂線の西大寺駅。

 

(

 金陵山西大寺観音院(2023.7筆者)

 

西大寺の名は、金陵山西大寺観音院が由来で、この大切な年頭行事に西大寺会陽「裸祭り」(国の重要無形民俗文化財)から打田氏は紹介している。

 2023年の開催で連続514回目となり、その始まりが1509年だったのが分かる。裸衆の参加数は1万人で観客は3万人の来場があり、コロナ禍の3年間は争奪戦を見送り、観客を入れず宝木の授与を行っていたことから来年の会陽に期待を寄せていた。

 西大寺の北前船入門セミナーイで(2023年7月)

この「裸祭り」の絵馬に注目したのが、岡山商工会議所の松田久会頭だった。本堂大床の東壁面に明治10年に奉納された「狩野永朝会陽絵馬」があり、縦3.3メートル、横5.16メートルにも及び、そこに見られる北前船の船影として船尾が見ることができるという。

    沖縄での北前船寄港地フォーラムでの岡山市のブースで

 内田氏は港跡の調査で、九蟠港から西大寺の干拓前の海岸線に沿って、常夜燈や、舟をつないだエノキを確認している。

 この「九蟠港」について、岡山県刊行(1928年)の「港湾調査報告」から紹介している。

「本港は明治初年頃より19年頃迄、毎年秋季に至り北海道より魚肥を積載し千石船數隻入港し陸揚、又は本港を経て近港へ移出するに1ケ月以上碇泊するを常とする。又和歌山地方より木材、線香粉等を移入し、作州からは茶、木炭、木材等を移入する等、吉井川の舟運を利用した。」

『九蟠村史』(岡山市立公民館九蟠分館刊行 1971年 )には、「北海道から魚肥を積んで来る、北前船純日本古来型の大巨体の私船で、一かかえもある一本柱に真帆を掲げ船首に大きな総をさげ入港して来る姿は、何ともいえぬ威勢なものである」と記載があるという。

 江差町関川家の1753年の『永代客船帳』に、「備前沖新田板屋源五郎様、御船頭源七郎様」、青森野辺地町五十嵐家の『久星客船帳』(1790~1870)に「西大寺町平野屋平吉」の行安丸の名前が見えるという。これは『岡山県史 第7巻 近世Ⅱ』に述べられいるたことは、内田氏の調べでわかったものである。

 

 

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 久山雅生氏提供 (中福町町内会 会長)

 
西大寺周辺は門前町として発展し、周辺の経済の中心に賑わい、中でも五福通り一帯は、軒先を切った看板建築の建物群が残っている。この景観は「ALWAYS三丁目の夕日」など多くの映画やテレビのロケ地として活用されている。

  (写真を提供していただいた久山氏の実家がこの一角にある)

 また西大寺文化資料館には「弁財船の模型」や、綿花などの展示があり、北前船に関心のある方は是非訪ねてほしい。

 

 打田氏が全国の客船帳を調べる中、酒田市の杉原丈夫氏が発行した2冊の客船帳から、西大寺の足跡の他、吉井川上流の津山藩の村に昆布が運ばれてきたとことを町史にその記述も発見している。

今後はこの歴史的事実を背景に北前船の寄港地として日本遺産の追加認定に期待を寄せていた。

 

「名城巡りと北前船の旅第72回 」平戸城と出島(長崎県)

平戸と出島の交易 

 

 長崎県平戸市文化交流課・学芸員 前田秀人氏の話から紹介する。

平戸市は2005年周辺の島々、対岸の九州本土の田平町等と合併し本土にも広がった。

 



写真の説明はありません。

(写真は国交省HPより)

 平戸島にある、平戸城(日本100名城)の藩主松浦氏は、中世の頃から「中小の武士団」をまとめ勢力を伸ばし1599年に現在の地に築城したが1613年(慶長18)火災により焼失している。松浦氏は、再築を徳川幕府に願い出て、1704年から14年かけ完成させた。天守閣はなく島の半島全体を城郭にした城だった。

平戸城 軍艦島ミュージアム提供

 赤穂城と同じ山鹿流だがその具体的なものはなく、素行の思想が入っていると前田氏は語る。現在の平戸城は1962年(昭和37)に造られ、平戸城の入口には城再築と山鹿流の関係を紹介したパネルがある。

 平戸城入口で(2020年筆者撮影)

 平戸島は古来より中国と博多を結ぶ航路の要所で、大陸との交易が盛んにおこなわれ寄港地として多くの異国の文化を受けいれている。

1550年、ポルトガル船の平戸港入港をきっかけに南蛮貿易が盛んになり、オランダ商館、イギリス商館が建てられ西洋との国際貿易港になった。

公式】平戸オランダ商館ホームページ - 平戸オランダ商館 国指定 ...

 平戸オランダ商館 所蔵

 平戸島には、2011年に復元オープンしたオランダ商館・松浦史料博物館(松浦家私邸)等、歴史を物語る建物が多くあり、江戸時代の地図もそのまま使えるという。

 オランダ商館  軍艦島ミュージアム提供

 フラシスコ・ザビエルは1549年鹿児島に来ているが、ポルトガル船入港を知り1550年に平戸に来てキリスト教の布教をしている。

 

 平戸藩は海外との南蛮貿易で豊かな藩だったが、幕府の鎖国政策で平戸オランダ商館は1641年取り壊され海外交易停止は大きな痛手となった。

 そのため、新田開発に力をいれた他、鯨組をつくり捕鯨に力を入れ、藩の財政を支え今でも平戸には鯨文化が残っている。

 

 

 幕府の鎖国政策で平戸オランダ商館が取り壊された後、出島に移され海外交易の拠点なり「四つの貿易口」の一つとなった

出島については、長崎市出島復元整備室・山口美由紀学芸員の話です。

(出典 国会図書館デジタルアーカイブ)

 徳川政権でもキリスト教を禁止したが、貿易の推進を望む幕府は寛永13年(1636)、日本人から隔離・収容する目的で、寛永13年(1636)に海を埋め立て扇型の人工の島・出島を築き当初はポルトガル人を住まわせている。

その後、ポルトガル人は退去させられ出島が無人になった為、平戸のオランダ商館が出島に移され、鎖国下、西洋との貿易の地になった。

アウトドアの画像のようです

写真は出島復元整備室提供・

 

 出島は、1641年の移転から安政6年(1859)オランダ商館閉鎖まで、218年間の歴史がある。写真の説明はありません。

 出典 国会図書館デジタルアーカイブ

この出島の貴重な歴史的遺産の復元に 出島復元整備室が取り組み、2016年に16棟の江戸時代の建物が復元され、2017年には表門に通じる橋も完成した。これらの整備には、市民や多くの人々の募金も用いられている。この建物や町並みは江戸時代の出島を体感できる観光スポットになっている。ポルトガル船来航から450年にあたる2021年、多くのイベントが開催された。

 

出島復元整備室提供

 残り3つの口、「薩摩藩の琉球」、「対馬藩の朝鮮」、「松前藩の蝦夷地」は、いずれも藩や商人の交易だったのに対し、天領だった長崎は幕府の管理下のもと、中国貿易、オランダの中継貿易が展開され、グローバルな経済活動に加え、医学等の学術や文化にも多くの影響を与えていた。

 

 出島での輸出は古伊万里が西洋で人気だった。輸入は生糸を含む衣類や砂糖があり、中でも砂糖で培われた食文化がある。そして中国船やオランダ船がもたらした砂糖は長崎に近かった九州北部の食文化にも影響を与え、とくに砂糖の文化が華開いた長崎街道沿いは、現在「シュガーロード」と呼ばれている。

楽天ブックス: 旅する出島 - Nagasaki Dejima 1634-2016 - 山口 ...

 山口さんは著書『旅する出島』で、写真や絵図を使い出島の魅力を紹介している。この本は、第31回地方出版文化功労賞の奨励賞に選ばれている。

「北前船寄港地船主集落の旅」第16回 盆踊り坂越(赤穂市)等

16回 盆踊り

 盆踊りについて、兵庫県赤穂市・岡山県笠岡市・愛媛県大洲市の方に明楽みゆき氏のラジオ番組で話して頂いた。

最初は、坂越の盆踊り保存会の篠原氏会長の話から紹介する。

篠原氏は、愛媛県青島や岡山県白石島にも行きその違いを研究している。

 愛媛県の無形民俗文化財の「青島の盆踊り」は、坂越の漁民が伝えたもので、現在の「坂越の盆踊り」に似ていない。これに対して、岡山県の「白石踊り」は、坂越の盆踊りの歌詞にとても似ているという。

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   篠原氏提供

 笠をかぶって踊るのが白石踊りだとその違いも篠原氏は指摘している。

 坂越湾の生島(日本遺産構成文化材)の鳥居の礎石に白石島(石の島で日本遺産)の文字がある。 


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日本遺産構成文化財の生島と白石島の石の鳥居 (坂越の船祭りの日に船から撮影)

 これは、台風の時に鳥居の礎石の周辺の石が流され、白石島の文字が浮かび上がってわかったと元坂越歴史研究会会長の故大西孜氏の話も紹介している。

 篠原氏が2007年「坂越の盆踊り」を赤穂市文化財に申請した時の資料が、坂越まち並館にある。

この中の『御役用諸事控』(1803)と『万覚書』(積善社・本町文書(1808)には「17世紀から18世紀に坂越浦は人が行き交う港町として賑わい、航路拡大に伴い情報や文化も集まり、伝承する踊りもそんな背景がある」と書かれていた。


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篠原氏と坂越の盆踊り保存会の方々(2019年坂越の大道で)

 現在の「坂越の盆踊り」は廻船で賑わった時代から続いているのに対し、青島の盆踊りは、それ以前に坂越の漁民が移住し伝えたものだ 

 この放送の後、瀬戸内海の盆踊りの伝播を研究している坂本要氏(筑波学院大学名誉教授)と坂越公民館で篠原氏と情報交換をした

 坂本氏は「坂越の盆踊り」「白石踊り」「青島の盆踊り」が、宮崎県延岡市の「新ばんば踊り」にどのように影響し「兵庫節」ともいわれている背景を調査されていた。

 延岡藩は大武港、東海港から参勤交代の行きかえり、坂越港を利用していた事、赤穂から入浜式塩田が延岡に伝わっていた事に関係しているかも知れないと坂本氏に後日伝えた。

 次は、「坂越の盆踊り」と歌詞が似ていると指摘があった白石踊りについて、岡山県笠岡市の白石踊り会・理事 天野正氏に話をしていただいた。

 天野氏は、ケンペルの『江戸参府旅行日記』(1691)に、「白石港は比類無きほどの船の停泊地で、他に12隻の停泊船があり、われわれと同じように船の横揺れを防ぐために、帆柱を倒していた」と語っている。

江戸参府旅行日記 (東洋文庫 303) | エンゲルベルト・ケンペル ...

 ケンペルはこの後、坂越港に寄港し江戸に参府している。この事から瀬戸内海のルートに白石島~坂越港が知られ、白石島から石や「白石踊り」が坂越に伝播したと考えらる。

 ウキランドより転載

 白石踊りの起源は、源平合戦での戦死者を慰霊したといわれ、男踊り、笠踊り、奴踊り、鉄砲踊り、真影踊り、女踊り、大師踊り、阿亀踊り、娘踊り、扇踊り等13種が残り、異なる振り付けを一つの音頭に合わせて同時に踊るという、他にあまり類例のないのが特徴だという。f:id:chopini:20191103062936j:image

   白石踊り 天野氏提供

 昭和51年、国指定無形民俗文化財に登録され、白石島の伝統行事として毎年8月のお盆の期間、公民館前広場で演じられている。白石島の人口は2001年の750人余りから、2015年には450人となり少子高齢化人口減少の中でも、伝統の継承に学校の協力等力を入れていると話していた。

 

  坂越の漁民が伝えた愛媛県大洲市の「青島の盆踊り」について、大洲市で地域史の研究をしている瀧野起一氏に話して頂いた。

 

 青島は大洲市長浜沖13キロメートルにある。寛永16年(1639)、大洲藩2代目藩主加藤泰興に願いでて、坂越から16家族が無人島だった青島に移住し元禄元年(1688)坂越から寺を移し「真宗寺」としている。

 泰興は、赤穂で出家した盤珪禅師を招き如法寺(重要文化財)を開創、加藤家の菩提寺としている。盤珪は海路で大洲へ入ったが、その海路上に青島があり、赤穂と縁ある青島に泰興が島へ渡ることを勧めたという。泰興から苗字帯刀が許され故郷の赤穂にちなみ赤城姓を名乗っている。

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      青島の盆踊りは、毎年8月14・15日にあり、14日は氏神(坂越神社の分身)の前で赤穂義士の装束で、その年に亡くなった人の霊を慰める「亡者踊り」が演じられていた。15日は魚供養の「大漁踊り」(賤ケ岳七本槍など)が演じられていたという。

写真の説明はありません。
瀧野氏提供
JR伊予長浜駅ホームで青島の盆踊り(2018.12)

 一時900人近くが住み小中学校もあったが、今は住民5人に、猫100匹以上が住む島になり、盆踊りも途絶えている。2010年頃テレビで島の様子が紹介されると、海外も含め多くの猫ファンが訪れ一躍脚光を浴びたが、人口激減で青島の盆踊りは存続出来なくなったと瀧野さんは語っていた。

 

最後は、赤穂市教育委員会文化財に30年間にわたり取り組んだ宮崎素一氏。

宮崎氏は「坂越の盆踊り」を赤穂市文化財登録に尽力した他、2012年、64年ぶりに「坂越の船だんじり」と「鳥井町の曳とんど」を復活させている。

 船だんじりは国重要無形民俗文化財の祭礼行事「坂越の船祭り」(日本遺産構成文化財)で披露されたが、復活させた日、地元の90歳のお年寄りの感動を紹介している。

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 「坂越の船だんじり」  (坂越まち並み館展示より)

「鳥井町の曳とんど」は、小正月に大きく組んだやぐらを台車に乗せ、音頭に合わせて賑やかに綱を引き、海岸まで運び、点火するという風習である。

 鳥井町は、山に挟まれた坂道沿いに家屋が軒を並べ、ほとんど平地がなかったので生まれたものだという。

 船乗りを相手に三味線や小唄を披露する芸達者が多く暮らし芸者町と呼ばれていた。赤穂民報の報道では明和・安永年間(1764~80)に始まったとある。

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 引きとんど(坂越まち並み館展示)

 この「鳥井町の曳きとんどの唄を小学生の時、音楽の先生に頼まれて吹き込んだテープを使い、歌った事がある」と地元の演歌歌手・坂越加奈氏のコメントがある。

「名城巡りと北前船の旅」第71回利根川の舟運①

利根川の舟運①

群馬から埼玉そして千葉の太平洋に流れる利根川沿いに、続日本100名城の沼田城と日本100名城(箕輪城、鉢型城、忍城、佐倉城)そして関宿城があった。また利根川の東遷で活躍したのが佐原の伊能忠敬だった。 

今回は沼田城と関宿城を紹介する。

 はじめに群馬の沼田城について、沼田城歴史資料館・館長 小池雅典氏に話して頂いた。小池氏は、市の文化財保護課で学芸員として35年勤務し遺跡の発掘調査に関わってきている。

 


  沼田城絵図 出典 国立公文書

 沼田城が、「天空の城下町」といわれているのは、段丘下にあるJR沼田駅と、段丘上の城跡と城下町は高低差が80m以上もあり、年に数回、利根川とその支流の薄根川に川霧が立ちこめ、高い段丘上にある城跡と城下町が宙に浮かんでいるかのように見えるからだという。

 沼田の特産品は姫小松・黑檜木・竹などで、利根川を利用して輸送されていた。 上流の利根川は急流で瀬が多く舟が上がれない為、下りの一方通行で、木材は筏に組んで下流へ流し、川幅が広がる中流域で大きな筏に組み直し、江戸などへ送られた。

 

出典  国会図書館デジタルアーカイブ

 この中で、江戸両国橋の架け直しに使う資材を真田信利氏が請け負ったが、木材伐りだしの遅延と失政を幕府にとがめられ改易となり、長男真田信就は赤穂藩浅野氏へ預けられた。

 この為、真田氏は90年と短く、天和2年(1682)沼田城は破却され、堀も埋められ、その後、沼田は一時天領になった。

 

国土交通省HP

 利根川は東遷(写真)で銚子に流れが変えられたが、江戸後期には柵木の需要が急増し、年間千本以上が送られていた。

 沼田市歴史資料館は2019年、7階建ての商業ビルを改修した複合施設「テラス沼田」に市役所が移転し、その2階にオープンしている。

 「天空の城下町 沼田の歴史をたどる」をコンセプトに、原始・古代から現代までの沼田の歴史の他、空撮した動画や河岸段丘のジオラマ、そして城の建物に使用された金箔瓦を含む瓦、陶磁器など発掘調査で出土したものを常設展示している

  「名城巡り」で沼田に来られた節は、この歴史資料館にも寄って欲しいと小池氏は話していた。

 

次に 「利根川上流の舟運」に続き、千葉県立関宿城博物館学芸課長・尾崎晃氏に「利根川の東遷」とその水運について話していただいた。

 尾崎氏は近世史が専門で、佐倉市の国立民俗学博物館を経て2013年4月関宿城博物館に着任。

  関宿城博物館  工楽隆造氏提供

関宿城博物館は、野田市関宿三軒屋(千葉県最北端)の利根川と江戸川の分流点の堤防上にある。ここから少し南にあった関宿城天守を模した4階建ての建物で、平成7年に開館している。
 
 家康は江戸に入封すると、江戸湾に注いでいた利根川本流を銚子につけ替え工事を開始する。これは洪水対策、新田開発、水運の拡大が目的で、東遷工事の完成には60年かかったという。渡良瀬川、鬼怒川等も利根川に合流させ、利根川と江戸川の分岐点になったのが関宿である。
 

利根川の東遷で東北地方の物資は、銚子で荷下ろしされ高瀬舟に積み替え、利根川をさか上り、関宿から江戸川を下り江戸へ運ばれた。
 関宿には「河岸」(船発着場)が四つあり、水陸両面で交通と物流の要衝になり、河岸問屋の蔵が建ち並び、茶屋、旅籠、遊郭などで賑わう城下として発展する。江戸への物資の輸送の必要から利根川水運は盛んになり、その主役高瀬舟は舟底が平らで、水深の浅い川でも運行することができた。江戸後半には工楽松右衛門帆が使われるようになり、たくさんの舟が往来するようになる。

松右衛門帆を使った高瀬舟 提供 関宿城博物館 

 

 工楽松右衛門帆の生地  提供 関宿城博物館 

この博物館では、米1300俵ほどを積載できた横幅3メートル・長さ10メートルの高瀬舟の大型模型を、展示室の中央に配している。この両脇に河岸問屋と醤油蔵の模型を展示している。

 

明治に入ると蒸気船も利根川を往来するようになり、東京湾から江戸川を上り、関宿から銚子まで22時間で行けたことも尾崎氏は紹介している。
 関宿城博物館に展示されている松右衛門帆については2022年4月に発売された『工楽松右衛門伝』で紹介している。
 

 

「名城巡りと北前船の旅」第70回南海路①

南海路①

 西廻り航路で北前船が航行する前から、大坂ー江戸間を往来した廻船があった。

 その船は菱垣廻船と呼ばれ、この菱垣廻船や樽廻船にも尽力した田沼意次の話を、静岡県牧之原市史料館・学芸員 長谷川倫和氏に、そして神奈川県平塚市博物館学芸員 早田旅人氏に相模川の舟運について話をして頂いた。

 近世の郷土史民俗学が専門の牧之原市史料館の長谷川氏のインタビューから紹介する。

 牧野原市提供  静岡県牧之原市史料館

   牧之原市史料館は相良城本丸跡に田沼意次候顕彰のために建てられた施設で、その生涯、功績、田沼家の遺した美術品や古文書などが展示されている。

 江戸幕府成立から人口急増したが、江戸周辺は産業が未発達で先進地域の上方からの日用品等の大量の物資を輸送をしていた。それが 両舷の垣立という部分に菱組みの格子を組む「菱垣廻船」、そして酒樽が主な積み荷の「樽廻船」だった。

 

出典:Wikipedia 1860年代の「菱垣廻船」

 菱垣廻船の活躍から50年余りして西廻り航路が整備されると、江戸や大坂に集まる物資の増加から南海路はさらに発展する。

 大坂側に隣接する御前崎湊は風が強く岩礁のため船の難所で、牧之原の相良湊と川崎湊が南海路の寄港地として重要な存在になった。

 田沼意次候が相良藩主になると、港・街道・橋などのインフラ整備、製塩や養蚕などの興業を進め、相良湊は発展していく。

 田沼時代に、廻船問屋が航海の安全と商売繁盛を祈念する為に始まった祭りに、大江八幡宮の『御船神事』(国重要無形民俗文化財がある。

 出典:Wikipedia(国会図書館蔵)   大江八幡宮の御船神事を描いた江戸時代の彩色画(1803)

 菱垣廻船と樽廻船の模型を使いシーソーのように上下に練ることで、波を乗り越える廻船の様子を表現し、商売繁盛・海上安全を祈願したもので、現在も継承されている。

 当時、南海路では菱垣廻船と樽廻船の競争が激化し、無理な積み荷や運送による海難事故が多発していた。意次候は、過度な競争を防ぎ商品の流通を安定させるため、対立していた菱垣廻船と樽廻船それぞれの権益を認め、幕府の統制のもとで物資の安定的な供給を実現し、自領の港を整備、過度な競争による事故に備えた。

 意次候は現在の岐阜県郡上市で起こった百姓一揆を裁定し、牧之原に領地を与えられ相良藩1万石の大名になり、最盛期には、石高5万7000石にもなる。

 しかし、天明7年(1787)意次候は失脚し相良城も取り壊されるも、文政6年(1823)、意次候の四男・意正が旧領復帰を果たし、明治維新まで田沼家の領地として存続している。意次翁は、米経済が中心の時代に、商業を重視し流通に目を向ける等、時代を先駆けた視点を持った人物だった。

 牧之原市提供 (田沼意次候の銅像

 2020年5月、全国初の田沼意次候の銅像牧之原市史料館の前に建てられ、2021年12月、田沼意次侯の大河ドラマ誘致が宣言されたと長谷氏は語った。

 

次は神奈川県平塚市博物館学芸員 早田旅人氏(専門は近世史)に平塚港と舟運の話をして頂いた。

 Hiratsuka City Museum.jpg

  出典:Wikipedia平塚市博物館

 平塚は幕府領(徳川直轄地)だったが、旗本に領地を与え旗本領になる。徳川家康は関東に入城後、平塚で鷹狩をたびたび行い、やがて防衛設備も備えた「中原御殿」を造営し、駿府・京都などの往復時に中原御殿に宿泊している。

 

 出典 国会図書館デジタル 平塚宿

 平塚宿は、徳川家康が東海道に宿駅伝馬制度を設けた慶長6年(1601)に成立し東海道53次の一つになった。宿駅伝馬制度で、陸の宿駅・伝馬制度で、交通・通信体制の礎を確立している。

 平塚の港、須賀は相模湾岸の海運の中心地で、相模川上流の山梨からもたらされる筏による木材などの物資運送の結節として栄えた。

 また相模から千葉の野田に醬油の原料となる小麦を廻漕し、荷主には現在のキッコーマン(株)の前身となる醤油醸造家がいた。相模で産出される「相州小麦」は、良質で醬油の原料として珍重されたという。

 国会図書館デジタル (江戸期の須賀港)

 廻船業は多角的経営で茶や白砂糖等の廻漕・販売、さらに金融も行い、江戸城下の発展にともない、相模川相模湾の流通量が拡大していく。

 須賀の廻船問屋が上流の材木事業者に融通した金融は、運賃をとれる積荷を確保するためで金利はとらなかったという。このことから須賀村の廻船問屋と上流の材木事業者との間で川がつなぐ金融・経済圏ができる。江戸は初期から建設ラッシュ、その後は度重なる大火で、木材の需要が旺盛だった事から平塚は廻船でにぎわっていた。

自然の画像のようです

 出典 国土交通省HP(現在の相模川周辺)

 平塚市博物館は6つの分野(天文・地質・生物・考古・歴史・民俗)で、それぞれの学芸員の研究をHPで掲載の他、博物館公式YouTubeチャンネル「HIRAHAKUチャンネル」で「5分でわかる平塚学入門」のシリーズがあり、早田氏は、YouTube相模川の水運」で木材の筏流し、金融の仕組みを紹介している

 また2016年家康没後400年では、家康と平塚の関係を考えた特別展が早田氏の企画で開催された。

「名城巡りと北前船の旅」第69回 対馬(長崎県)と田代(佐賀県)

 第69回 対馬長崎県)と田代(佐賀県

長崎県対馬歴史研究センターで近世史を研究されている学芸員 丸山大輝氏のお話から紹介する。
 長崎県には日本最多971の島があり、対馬壱岐・五島は大陸との最前線に位置し、国境の島だったことから文化財が数多く残されていると話が始まる。

お城EXPO2018横浜 対馬市教育委員会村瀬氏
  対馬は、「国境の島 壱岐対馬・五島~古代からの架け橋~」のストーリーで日本遺産に認定され、その構成文化財に金田城跡や金石城がある。

金田城跡(続日本100名城)は、7世紀に建造され日本で一番古い城である。

 

金石城
 金石城は対馬藩主宗氏の居城で政庁だったが東隣に新たに桟原城を寛文5年(1665)に整備・拡張され藩庁としていた。

対馬藩お船江跡
 「対馬藩お船江跡」(日本遺産構成文化財)は藩主の乗る船の船溜まりの跡で、藩の船を「船江」に格納し、管理は「船奉行所」がした。「船奉行」を筆頭に「船手」や「船大工」の組織を置き、幕府と朝鮮王朝を取り持つ窓口とし、外交の実務や参勤交代を担った。

 



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対馬から見える風景(原口泉志学館大学教授提供)

 現在の釜山に、長崎出島の25倍の広さの土地に「倭館」と呼ばれた日本人居留地を置き、500人以上の対馬藩士、対馬島民を居留させ、対馬藩と朝鮮との貿易を行なっていた。

 鎖国という言葉はあるが、丸山氏は、長崎・薩摩(琉球)・松前・対馬の「四つの口」で海外と交易をしていた話す。

18世紀の釜山浦草梁倭館

輸入品は中国産の生糸、絹織物、朝鮮人参で、主な輸出品は銀や長崎貿易で入手した産物だった。

 対馬は平野や河川が少なく米がほとんど採れなかった為、朝鮮からの輸入と現在の佐賀県鳥栖市の田代領の飛び地から運ばれた年貢米が主だった。

 対馬歴史研究センターは、平成29年に休館した長崎県対馬歴史民俗史料館の機能を受け継ぎ、江戸時代に対馬を治めた宗家の「対馬宗家文庫史料」約8万点をはじめ、対馬の歴史資料を保管・研究する施設。朝鮮通信使の行列を描いた「朝鮮国通信使絵巻」はこのセンターに所蔵である。

狩野安信『朝鮮通信使大英博物館蔵1655年・承応4年

丸山氏は、韓国までは50キロメートル、日本本土から100キロメートルある対馬を日本遺産などの文化財からアピールし、対馬の歴史について詳しく知りたい方は対馬歴史研究センターに是非、来訪してほしいと話していた。

 (対馬の写真はウィキペディアを使用)

(写真は原口氏提供)

この碑には、1905日露戦争でロシアのバルチック艦隊を殲滅。撃沈した水兵143名が対馬に上陸した時、島の人は水兵達を手厚く持てなした。地区住人により明治44年建建立されたと記されている。

 

続いて、丸山氏のインタビューにあった「田代領」の米について、重松正道氏に話して頂いた。
 重松氏は田代米研究の第一人者で、鳥栖郷土研究会で日本近世史、交通史を研究されている。2回のインタビューから田代米を搬送した坂越廻船(赤穂市)について紹介する。

 対馬は中世から朝鮮貿易をしていたが秀吉の文禄の役(1595年)の後、朝鮮貿易が断絶した損害補償と戦功の意味で、薩摩藩出水郡(鹿児島県出水市)から1万石を拝領した。その後、島津氏へ返還され、代替地として「田代売薬」で知られる田代(佐賀県鳥栖市の東半分)を拝領し、対馬藩の飛び地となった。

 当初、田代米は馬で博多まで運び海路で対馬に運ぶのが主流だった。それが承応4年(1654)より筑後川水運で赤江から小船で運び、久留米の住吉辺りで大船に積み替えた。

筑後川の上流から河口まで72キロメートルには、久留米藩筑前藩の藩領が面し、篠山城を擁する久留米藩は防衛上で他藩の川舟運航をきらい、問題も多かったという。

(史料提供 重松氏)

延宝5年(1677)以降、水屋濱→瀬の下(久留米)→※橋津(榎津・若津)→対馬(長崎・大坂)の有明海大廻りルートになった。 

(史料提供 重松氏)

対馬藩は輸送に自国船はほとんど使わず、朝鮮から輸入した朝鮮人参等を大坂や京都の蔵屋敷を通じて販売し藩の財源にしていた。
赤穂市史」には、1716年以降、対馬・大坂への田代米22000俵を坂越の廻船が一手に引き受けた記述がある。

 

 重松氏提供 田代覚書
 重松氏は『青木家文書』から、田代側に残された坂越の事例を紹介している。
 「文政13年、朝鮮国からの輸入米が暴風雨にあって漂流したので田代領からの米が一層重要性を増した。そこで一番船は8月下旬~9月上旬の内に到着してほしいという意味である。「当秋廻米積船注文覚」によると、毎年廻送している22000俵を一番から7番船で廻送し、大坂廻米の1300俵程は3番船で廻送する。このことを坂越船持中へ伝えてほしい旨を諸冨津の赤穂屋(廻船問屋)へ仰せ付けられた。また、注文書写を同封して、例年どおり播州赤穂坂越浦船主と船頭衆へ飛脚を差し立て、書状が届けられた。
 下関の虎屋(虎屋惣兵衛・本業は瀬戸物屋)へは廻船の中継連絡を依頼していた。何度も書状を出したがようやく7月28日発信の返事がついた。
両家手持ちの船は出払っており、9月上旬着は難しいので一番船は他船を利用してほしいという返事である。田代役所からも坂越船が遅れるなら他船を借りるような指示があったので坂越両家及び虎屋には今後の船繰をたのむ一方、諸富に行き、柳川領の船を借りるめどがついた。10月5日にやっと坂越と話がついた。
 小市丸船頭庄左右衛門の書状が下関より飛脚が到来したのである。小市丸は21日に下関に着き、直ちに当地へ出発。近日中に当地へ廻着する。また、その後住徳丸が近日下着するというのである。  

また、坂越廻船が田代米輸送の合間に北国米を廻漕していた記載もある。これはおそらく、酒田等に赤穂塩を運んだ帰り米を廻漕していたと考えられる。(酒田市史には1670年代から坂越の廻船の記録がある)

 下の写真は1740年の船賃銀表(坂越大西家本家の安永家蔵)である。
坂越を起点に、北は松前、西は対馬、南は薩摩まで71地域に及んでいる。
 

(左7行目に田代から対馬までの船賃銀は、田代が唯一の起点になっている)

坂越廻船が田代米廻送から撤退した理由として、対馬藩の借銀回収が難しくなっていった他、米などの運賃積から、塩輸送にシフトしていったのが考えられるとしている。

対馬藩は朝鮮からの漂流者を長崎から本国に返す仕事もしていた。田代領では、長崎街道の宿場の役割の他、山陰や九州諸藩領などの漂流民を引率する役人を迎接する役目も担い、長崎護送・出先に「往復書状」のやりとり等の情報も共有をしていたとしている。

 

「北前船寄港地・船主集落の旅」 第15回長岡

第15回 長岡

 新潟の港の歴史を紹介している新潟市歴史博物館・学芸員 安宅俊介氏に、長岡藩領だった頃の信濃川左岸河口、新潟港の話をしていただいた。

 写真の説明はありません。

 提供 新潟市歴史博物館

 長岡藩は、新潟町の港に元和2年(1616)奉行所を置き港を管理していた。

 河村瑞賢が西廻り航路(1672)の開発以降、北前船で賑わう港になり各地からの入港税・廻船をはじめとした上納金で、長岡藩の繁栄は200年近く続いていた。

 この繁栄の中、新潟港沖で薩摩船が唐物や松前の俵物等の抜け荷(密貿易)が幕府に摘発された。長岡藩は薩摩船の抜け荷の取り締まりをしていなかったとして、新潟町は上知され天保14年(1843)幕府領となった。

 新潟港   提供  新潟市歴史博物館

 新潟町に幕府直轄の新潟奉行所が新設され、初代奉行に川村修就(ながたか)が江戸から派遣された。川村修就は、薩摩の抜け荷の真偽を調べた文書『北越秘説』を残している。

 

 安宅氏はこの館にある『北越秘説』から、薩摩船は新潟港には年間約6隻が入港し、積み荷のさつま芋や砂糖の下に唐物を隠し薬種、朱などの抜荷を大量に持ち込み、新潟から各地へと売りさばいていたと話をしている。現在、川村家の史料のうち、おもに江戸時代のものは、新潟市歴史博物館が所蔵している。

出典 新発田市立図書館

 幕府領になった新潟港は、幕末に開港され、箱館、神戸等開港5港の一つになった。

 

 次は、長岡市立科学博物館学芸員・加藤由美子氏に、新潟港から得る収益が無くなったその後の長岡藩の話と平成18年に長岡市ろ合併した寺泊について話して頂いた。

この科学博物館には、動物・植物・昆虫・地学・歴史・民俗・
考古・文化財の 8 部門があり、加藤氏は文化財の担当である。

 

 長岡藩は、 新潟港から得る収益が皆無になったことなどから財政難に落ちいっていた。継之助は藩の改革で、長岡藩の累積赤字を解消させ、多額の剰余金を持つまでになるが、この改革は米百俵の小林虎三郎に受け継がれる。

 継之助は文政10年(1827)に長岡藩士の家に生まれ、33歳で生涯師と仰いだ備中松山藩(現高梁市)に財政等を学んでいる

 

 戊辰戦争で、長岡藩の軍事総督となっていた継之助は、幕府方にも新政府方にもつかない「中立」を主張し、長岡藩独自の生き残りの道を目指した。しかし、結果的に新政府軍と戦火を交えることとなり、継之助自身も42歳で命を落とした。

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2020東京オリンピック開催に合わせつくられたチラシ(加藤氏提供)

 コロナで延期になっていた継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『峠』(役所広司主演)の映画が、いよいよ2022年6月17日、全国に一斉公開される。

   長岡市の北前船寄港地フォーラムで 2018.9

この映画化の話は、平成30年長岡で開催された北前船寄港地フォーラムでも取り上げられ、河合継之助や小林虎三郎の「米百俵の精神」がフォーラムのメインテーマとなった。

 

写真は河井継之助記念館の稲川明雄館長の講演(赤穂ロイヤルホテルで2018.11)

(長岡のフォーラムから2か月、赤穂市で開催された「坂越の北前船寄港地セミナー」で、河井継之助記念館稲川明雄館長(当時)が、継之助の財政再建を赤穂塩の付加価値の例から講演している。)

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寺井秀光坂越まち並みを創る現会長、稲川館長、筆者 門田守弘坂越まち並みを創る会前会長

 戊辰戦争に敗れ、困窮する長岡藩に支藩(三根山藩)から救援米が贈られた。

 小林虎三郎は、「食べられないときにこそ、教育に力を入れなければならない」と、見舞いの米を食べずに国漢学校を開校する資金に充てた。これが「米百俵の精神」で「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の礎となる」という思想は、その後の長岡空襲、中越大震災などの災禍に何度も遭いながら、その都度復興を遂げてきた長岡のまちづくりの指針や人材教育の理念となり長岡で生かされている。 


 毎年8月に行われる長岡の大花火大会は、昭和20年8月長岡空襲で亡くなった人への慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いが込められている。 

出典  ウキぺリア

寺泊は2006年に長岡市と合併するがその8年後、寺泊で「第10回北前船寄港地フォーラム」が開催された。

 

 提供 加藤由美子氏

 寺泊の日本遺産構成文化財の「寺泊おけさ」は、熊本天草のハイヤ節の流れを汲み、三味線と打楽器が一緒に演奏しているかのような独特の音色で、歌詞にわざと残響を抑えて弾く「殺し撥」という三味線奏法に特徴があるという。

 この歌詞に「佐渡へヤー エヤー  八里のさざ波越えてヨ  鐘が聞こゆるヤーレ寺泊」がある。この歌詞から、江戸から佐渡へと送られる無宿人の港として、信州からの陸路を海路で結び、奉行、役人などの渡海場としてもにぎわい、遊郭や芸妓さんの出番が多かった話していた。

 

 加藤氏は、長岡の誇りである継之助の生き様を描いた映画『峠』をご覧になり、継之助をはじめとした、当市が誇る歴史・文化に触れていたき、多くの皆様が長岡市にお越しいただきると幸いですと締めくくった。

 

 

 

 

 

「名城巡りと北前船の旅」第68回 備中松山城(玉島)

 
岡山県立博物館館長(学芸員)だった田村啓介氏は退官後故郷高梁市教育委員会の参与として活躍中の方である。 
 「備中松山城」(日本100名城)は天守が現存する、国内に12残る天守の一つで「天空の山城」と言われている。高梁川の霧で、海抜430メートルの城が雲海に浮かんだように見え、兵庫県竹田城跡と比較される。

出典 岡山観光ウェブ
 近年、この城の飼い猫が住み着き「猫城主さんじゅーろー」として活躍し、城と共に高梁市の観光の目玉になっている。
 出典 岡山観光ウェブ
1642年この城に、水谷勝隆が備中松山藩主として5万石で入封したが、3代目の水谷勝美に継嗣がなく、お家断絶で元禄6年(1693)改易となる。
 幕府からこの城の引き取役に播州赤穂藩の大石内蔵助が命じられ、備中松山藩家老、鶴見内蔵助との話し合いで、無血開城が実現する。2人の内蔵助の話は、後に歌舞伎にもなったという。この8年後、赤穂藩もまた無血開城でお家断絶に大石内蔵助が関わることになる。写真の説明はありません。
2015年3月備中松山城 筆者 
水谷3代47年にわたり、高梁川で運河「高瀬通し」(倉敷市船穂~玉島港間)の整備、飛び地の玉島港(現倉敷市)を干拓し新田開発をする等、城下の整備に力を注い藩の基盤を築いた。
干拓地に出来た玉島では綿花栽培を奨励し、西廻り航路では鰊カスがくる港で賑わった。
 
 城主水谷公が玉島開発の礎を築いたことから、玉島港の高台にある羽黒神社に「水谷神社」の御霊が祀られている。水谷氏の城下整備から160年ほど後、藩は10万両の借財に苦慮していた。
 山田方谷(1805~1877年)は、財政改革でこの借財を10万両の蓄財に7年で転換させた。
 農民で儒学者山田方谷を登用した7代藩主板倉勝静は、松平定信の孫だった。
 勝静は最後の将軍徳川慶喜を支え、老中首座を務めたこともある
 
 特産品(鉄・煙草・漆・和紙・吹屋弁柄)は、高梁川高瀬舟で下り、玉島港から運ばれた。中でも、「備中鍬」は江戸でのヒット商品になった。(馬や牛を飼えない農家にも必需品だった)。山田方谷は多くの人材を育成、国内最古の郷学「閑谷学校」の再興、三島中州(二松學舍創学)等を育成。JR伯備線方谷駅」の駅名がある。
 この方谷を題材にした大河ドラマを求め、100万人の署名があったことも紹介している
 

 続いて、その倉敷市から日本遺産推進室・藤原憲芳氏に話していただいた。
藤原さんは、2回にわたりブラタモリで案内役を務めている。

 備中松山城日本100名城)の初代藩主水谷勝隆が、飛び地だった玉島の地形に着目し、点在する小さな島々を干拓し、堤防を築き玉島港を開く。この玉島港と高梁川の間には「高瀬通し」といわれる運河も造っている。

 海岸沿いの堤防には商家や土蔵が次々と建てられ、43の問屋やその蔵が立ち並んでいたという。残っている町並み保存地区は、日本遺産構成文化財に認定されている。
 
良寛会館の前から見る玉島のまち並み(2019,11)
 
かつて海岸沿いの堤防に北前船が横付けし、綿花の肥料・〆カスが北海道から運ばれ、積み荷を降ろしていた。最盛期は西の浪速といわれ、備中一の賑わいだったという。

備中松山藩は良質の砂鉄がとれたことから「備中鍬」の特産品を、高梁川の舟運で35キロメートル下流の玉島港から江戸、大坂に運び山田方谷財政再建を果たす。


高梁川の舟運 国土交通省のHPより

玉島には、廻船問屋に関連する「書」と「茶」と「和菓子」の文化が多くのこされている。江戸期は400程の茶室があり、廻船問屋や船主のもてなし等の商談に使われた。
 現在も、40の茶室が保存され、茶の湯文化が生活に根を下している。
 
 毎年春に良寛茶会が開かれ、良寛は玉島でも親しまれている。
 
 新幹線新倉敷駅(旧玉島駅)の良寛像(2019.11)

 玉島や下津井では埋め立て地で綿花栽培していたことから良質の綿が大量に生産された。

 足袋の生産では、大正期には2000万足に及ぶようになる。足袋の需要が減少すると、児島地区では学生服の生産で、国内メーカーの90%を占めるようになっていく。
 戦後、縫製技術から国内で初めてのジーンズを作ったのが1965年で、更にストーンウオッシュの技術を見出しブランドになった。
 
 児島地区のジーンズ街 出典 岡山観光WEB

 倉敷美観地区にある洋風の美術館は、クラボウの紡績工場跡地である。

『名城巡りと北前船の旅』第67回福知山城(由良川)

第67回福知山城

福知山城(続日本100名城)について福知山市文化財保護係の松本学博さんに話していただいた。

 福知山城は光秀が天正7年頃(1579)築城したが、当時から残る個性豊かな石垣と、北近畿唯一の天守が魅力である。

 光秀は福知山に市民から慕われ昭和61年(1986)復元され「福知山光秀ミュージアム」で詳しく展示されている。

 復元された福知山城(福知山市文化スポー振興課提供)

 

城の石垣は、寺社などで使われていた石塔等、500程の「転用石」が使われた野面積みは現存し市の文化財である。

城の近くの光秀を祀った『御霊神社』(福知山市文化スポーツ振興課提供)

大河ドラマ麒麟が来る』で見る光秀の家紋「桔梗」は、福知山の市の花に制定されている。

  福知山藩の特産品になった「丹波漆」は、1300年ほど前には税として納められており、藩が夜久野町で植栽を推進し、漆の増産を奨励していた。 

 「藍」については京都の松尾大社の荘園が福知山にあり、1473年にこの地の荘園の人々が松尾大社へ藍を納め、1496年には浅葱色(明るい青緑色)に染めた布を納めたという記録があり紺屋町の地名が残っている。

丹波の漆掻き」は平成3年が京都府無形民俗文化財に指定され、藍は、25年程前から藍同好会ができ、由良川の藍の栽培に成功し技術と伝統が継承されているという。

  17世紀後半、西廻り航路が活発になると福知山から、綿・茶・漆・紙等が由良川河口の由良港や神崎港に高瀬舟で集められた。由良川河口東に神崎、西側に由良村があり、若狭湾に面した海岸一帯では揚浜式塩田で製造された。廻船業も盛んで船主、船頭・水主の活躍で海から遠い綾部、福知山まで高瀬舟で運ばれた。

 由良川沿いに、川の港を意味する「天津・高津江・常津」などの「津」の地名、船着き場を示す「舟渡」の地名が残っているのはそのなごりだ。

 

 出典 京都府HPより

  

 由良川高瀬舟と藩の関係について、国土交通省のHPには、『安土桃山時代明智光秀が城下町を開くため堤防を築造し、由良川の河道を付け替えた堤防前の樹林群は「明智藪」と呼ばれ現在も残っている』と記述があった。

 (由良川の改良図) 国土交通省のHPより



明智藪;福知山市街地)国土交通省のHPより

これについて松本さんは一次史料では確認できていないと語り、由良川土師川(はぜがわ)の合流地点に堤防を築いたのは伝承であると話していた。

 

 

 

「名城巡りと北前船の旅」第66回水戸城(和算)

 第66回水戸城和算

 まず始めに、 水戸市教育委員会歴史文化財課 世界遺産係長・藤尾隆志氏の話から紹介する。

 水戸城日本100名城)は、鎌倉時代の創建で天守閣がなく土塁や空堀で構成されている。江戸期に水戸徳川家の藩庁になった。

 

復元された「大手門」(筆者)

薬医門が現存し、令和2年に「大手門」、令和3年に「二の丸角櫓」が復元された。
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復元された「二の丸角櫓」(写真筆者)

 2代藩主 徳川光圀水戸黄門)の『大日本史』と、9代藩主 徳川斉昭徳川慶喜の父)の「弘道館」は、日本遺産「近世日本の教育遺産群~学ぶ心・礼節の本源~」の構成文化財に認定されている。

 光圀が明暦3年(1657)に着手した『大日本史』は、明治39年(1906)に全397巻・目録5巻が完成している。
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大日本史編纂の地の碑 左手は水戸彰考館の門 

 光圀が開設した「水戸彰考館」は大日本史編纂所で、弘道館ができるまで藩校の役割をし、三つ目の構成文化財である。

 「水戸黄門」に登場する助さん=佐々介三郎、格さん=安積覚兵衛は、彰考館の学者だった。
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水戸駅前の黄門様・助さん・格さんと筆者

 「黄門」は、光圀の「権中納言」の中国風の呼び方で、光圀は、船を建造させ蝦夷地の調査を計画、家臣を石狩まで派遣し探検させている。

 弘道館は「文武不岐」など建学の精神を定め、儒学、歴史、歌道、音楽、数学(和算)、西洋医学、薬学、天文学など幅広い学問を修める今日の総合大学のような性格を有する教育施設として設けられた。

 偕楽園も、徳川斉昭が造ったもので、「一張一弛(いっちょういっし)」の考えから、学問や仕事の合間に家臣のみならず領民も楽しめる景勝の地として創設され、学問興隆の象徴として梅が植樹された。偕楽園日本三名園の一つであり、日本遺産構成文化財である。

 5つの構成文化財のうち、4つが光圀と斉昭によるものである。

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 足利市足利学校(幕府の学校)、備前市岡山藩閑谷学校)、日田市(咸宜園日本最大の私塾)の4市で世界遺産を目指している。

 

 弘道館では、江戸時代の和算を使ったイベントを催していた。

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弘道館で展示している和算の教科書の説明 筆者 )

 江戸初期、大坂・京都の商人の複雑な計算には和算は必要なものだった。1627年吉田光由の『塵劫記』(じんこうき)が出版されると、各地で寺子屋の教材に
使われた。明治に入ってもベストセラ―だったが、現在も、岩波書店から版を重ねて出版されている。

 和算は、田畑の面積、土木工事、暦を決める暦法、流通、船建造、航海術に必須で、北前船の設計に始まり、交易の決済の場面でも根付いていたに違いない。

 大坂堂島等の先物取引が世界に先駆け開始されたのは、和算の普及で計算能力が高かったことが伺われる。

 

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何度も改定された塵劫記(出典 国会図書館デジタルアーカイブ

 

 次は、神戸市在住の梶川雄二氏に、和算について話してもらった。梶川氏は、和算研究家で毎年全国和算研究大会に参加されている他、全国の算額絵馬を調べる旅をしている。

 忠臣蔵に出てくる梶川与惣兵衛の10代目で、2018年の赤穂義士祭で梶川役で登壇している。 

 NHKの「忠臣蔵の恋 」で描かれた村松三太夫の祖父 村松茂清(1608〜1695)は、円周率を小数点以下7桁までの正しい値を日本で最初(1663年)に発見し、「算俎」を出版している。(塵劫記は再版されたが円周率3.14までだった)

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(出典 国会図書館デジタルアーカイブ

 

 その後、和算第一人者の関 孝和が円周率下12桁を算出する等、中国から伝わった数学は、鎖国下の日本で独自に発達し各藩から数多くの和算家を排出している。

 津和野藩の堀田仁助が和算を使い天球儀を制作した話や、江差のニシン蕎麦の元祖、横山家の蔵に所蔵される『算法新書』(沈没した帆船で発見されたもの)についても話している。

 行列式は、日本が世界に先駆けて関孝和があみ出していたが、世界の学会では文字の問題から、まだ認めてもらえないと語っている。

 

 江戸から明治時代にかけ、船絵馬は北前船の寄港地の神社に盛んに奉納されていた。

 また円周率等の和算の問題を絵馬にして神社に奉納、この解答を絵馬にして奉納する日本独特の算額文化があった。自らの知識の高さを誇示し、全国の神社にたくさん算額が残っている。

写真の説明はありません。

 渋谷駅近くの金剛八宮の算額絵馬(筆者)

 

 

 最後は、射水市新湊博物館・学芸員 松山充宏氏に和算について話して頂いた。

射水市新湊博物館「利用・交通案内」

射水市新湊博物館)

 江戸時代後期、富山・石川両県の正確な地図を作った富山県射水の石黒信由(1760〜1836)は、和算を高度に発展させた関孝和(1642〜1708)の流れを汲む弟子にあたる。

 信由が陸奥国一関(岩手県)の和算家と算題をやり取りした記録があり、江戸後期、和算を通じた交流は各地に広がっていた

 

冨山】祈求算數精進的神社:射水放生津八幡宮- 東京タイプ

(石黒信由の算額絵馬 射水市放生津八幡宮提供)

 石黒信吉の和算から生まれた航海術書『算法 渡海標的』が、1836年に京都で出版された。この本は、天文学を基本にしたもので、北前船等の廻船には、必ず積まれていた事から、当時、廻船問屋のベストセラーになっていた。

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  (射水市新湊博物館蔵)

 この書は高度な和算を使い、船の上から星を測る方法が示され、安全な航海に必要な技術をまとめたものである。

 漂流して帰港出来なくなる事があるので、船の位置を知るために北極星の高度を測る方法を示したものであったため、 船乗りもこぞって買っていたという。  

 石黒信由とその子孫が作成した、算学や航海術に関する著書類や記録類、測量
器具などの関係資料をこの博物館で展示している。

 江戸時代の学者の関係遺品として現存する全国の資料の中でも、極めて希少なものと評価され、すべて国の重要文化財に指定されている。

 館内では、江戸時代の測量体験ほか様々な企画が用意され、大人から子供まで楽しめる。

「名城巡りと北前船の旅」 第65回 丸亀城

 
 最初は、丸亀市教育委員会文化財保存活用課・課長 東信男さんに丸亀城日本100名城)と、丸亀市の日本遺産について話していただいた。
  

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2015.7
丸亀城は、昔のままの天守が残る12ヶ城の一つで、昭和25年重要文化財に指定された。渡櫓や隅櫓で繋がれた天守と大手門が残る城は、弘前城高知城の3城しかなく、天守と大手門を合わせて見られる城は高知城丸亀城だけだ。
 石垣の城として知られ、「扇の勾配」の美しい反りをもち、搦手側の幾重にも折り重なる石垣は圧巻である。

2015.7
 丸亀城の石垣は20mを越え、この天守から塩飽諸島本島や岡山が見える。

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 この塩飽諸島周辺は潮流の変化が大きく、戦国時代までは操船技術を持つ塩飽水軍が活躍し、航行する船の停泊地や修理地にもなっていた。
 塩飽諸島は、令和元年、笠岡市丸亀市・土庄町・小豆島町と共に、備讃瀬戸をテーマとする「石の島のストーリーが知ってる!?悠久の時が流れる石の島 ~海を越え、日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」として日本遺産に認定された。
 塩飽の島々には、400年に渡って巨石を切り出し、加工し、船で運び、石と共に生きた人たちの足跡が残る。

 (2019.5)
 その構成文化財に、塩飽勤番所跡、笠島集落、廻船業で活躍した尾上邸、青木石の産地である石切丁場の上には王頭砂漠と呼ばれる王頭山がある。
 

(2019.5)

 本島にある塩飽勤番所跡は、昭和45年国指定史跡になり、天皇陛下が昭和57年、学生時代に水運のご研究のために立ち寄られ、番所跡に「雲間より志ののめの光さしくれば 瀬戸乃島々浮出にけり」の歌碑がある。
 本島の北東部の笠島集落は、昭和60年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、タイムスリップしたような家並みが残されている。
 塩飽諸島の広島町には、北前船で富を築いた尾上吉五郎邸がある。
 屋号を橘屋と名乗り、先代の吉五郎は青森県野辺地の青木石で造られた常夜灯の礎石にその名が刻まれている。笠島集落は瀬戸内国際芸術祭の会場になり、昔ながらの街並みを活用して芸術とのコラボが行われるので是非お越しいただければと、東さんは話しを締めくくった。

 

 続いて、多度町教育委員会学芸員 白木亨さんの話です。

白木さんは、「北前船・船主集落」で日本遺産申請するにあたり多度津北前船を調査されている。

 多度津藩は、元禄7年(1694)丸亀藩から分家した1万石の小藩だった。文政10年(1827)に陣屋を置いた後、天保9年(1838)、巨費を投じて桜川下流の港を整備した。

 そのため多度津港は北前船等の商船の発着港、金毘羅参詣者が降り立つ港として発展する。参拝客は、港から南に延びる「多度津金毘羅街道」を通り金毘羅詣りをした。

 (2019.5)
 多度津港から積み出されたものは、特産品の讃岐3白(塩・砂糖・綿)や、天霧山の天霧石がある。

 宇多津や讃岐荘内半島の塩田で塩が生産されていた。赤穂藩は、この地域など瀬戸内海各地に入浜式塩田を伝授していた。

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  (多度津町立資料館内  2019年5月

多度津町立資料館には、高見八幡宮に奉納された北前船の模型(写真)が展示されている。宝暦5年(1755) の弁財船で、香川県で最も古く全国では3番目に古いという。この北前船の模型は、日本遺産北前船関連資料群の一つである。

     金毘羅鳥居一の鳥居  白木亨さん提供

 そのほか構成文化財に、旅館跡・廻船問屋住宅跡・蔵・金毘羅街道に残る鳥居(現在は町内の桃陵公園に移設)・常夜燈(金毘羅燈籠)等、全部で12ある。

金毘羅鳥居三の鳥居 白木亭さん提供

 

 最後は、琴平町金刀比羅宮の元禰宜(ねぎ)で現在相談役の科野 齋さんに話して頂いた。

 香川県琴平町象頭山(海抜521m)の中腹に鎮座する金刀比羅宮(ことひらぐう)は、(こんぴらさん)の俗称で呼ばれ、漁師、船員などが航海安全を祈願する海の守護神として信仰され、全国に800ほどある金刀比羅の総本宮社である。

 江戸中期ごろから金刀比羅詣が盛んになり、上方から「こんぴらさん」に行くには、大坂淀屋橋からは船で丸亀港、西からは多度津湊から渡り、ここで一泊してから徒歩で金刀比羅宮に参る。

 その夜は、この門前町で芝居や豪遊を楽しみ、帰りは船で大坂へは下津井湊(岡山県)に渡り、山陽道で帰っていたという。

 (2015年.7)

参道には旧跡や文化財があり、土産店や飲食店などが建ち並ぶ。参道入口から御本宮までの石段の数は785段、さらに奥社までは583段あり、総数1,368段におよぶ。

 表書院(重要文化財)には円山応挙の虎の襖絵(重要文化財)、奥書院(重要文化財)には伊藤若冲の「百花図」があり、絵馬堂には嘉永3年(1850)の北前船(松栄講)の絵馬など、合わせて文化財は1725点に及ぶ。

 この中には、南越前町のブログで紹介した右近家が明治21年に奉納した絵馬がある。これは、大阪の絵馬屋藤兵衛の作品で、色も鮮やかで素晴らしい大作だという。

 この他、京都の近江商人が奉納した絵馬や、さまざまな方向から描いた異彩を放った絵馬もある。この他、北前船の模型・正月船の奉納は、正月に床の間に飾り楽しんだもので、山陰地方の風習で嫁入り道具のひとつであったという。

 また、前述した多度津港と同様の北前船寄港地の一つ、山形県酒田で鋳造された3メートルにおよぶ銅製の灯篭もある。

 瀬戸内海を航行する船は、「こんぴらさん」が見えると航海安全の願いを込め、金刀比羅宮の旗を立て、お賽銭や酒を入れた樽を海に流す「流し樽」と呼ばれる代参の風習があり、現在も年に数回あるという。

 この樽を拾った船乗りは、「こんぴらさん」へ奉納するというもので、樽を流した人も届けた人にも御利益があるといわれている。

 1年間の行事で最も重要な御祭「大祭」は10月に行われ、頭人を先頭に行列が1キロに及ぶ勇壮な祭りである。

 金刀比羅歌舞伎で有名な歌舞伎小屋(天保6年築)は、改修され重要文化財になっている。昭和60年から歌舞伎が毎年開催され、この催しのある時は、8000人の琴平町に10万人が訪れるという。

「しあわせさん こんぴらさん」がキャッチフレーズになっている事を、科野さんは最後に話していた。

「名城巡りと北前船の旅」第64回 広島城(宮島・安芸津)

 第64回 広島城(宮島・安芸津

始めは、日本100名城広島城について広島市文化財広島城主幹学芸員・小林奈緒美さんの話です。

広島城(2016.7 筆者撮影)

 吉田郡山城安芸高田市日本100名城)城主だった毛利元就の孫輝元は、山城が主流だった時代に、海に近い「五箇村」に城と城下が一体となる広島城を築いた。

 これは豊臣秀吉に京都聚楽第大坂城で謁見したことが影響していた。

 輝元は、水陸交通の重要性から、太田川のデルタ地帯を選び、築城開始と同時に大規模な干拓事業に力をいれ、城の周りには家臣や町人が住む城下町を作り広島発展の礎を築た。

f:id:chopini:20220222070815p:plain 安芸国正保城絵図(出典 国立公文書館デジタルアーカイブ  広島藩が作成した正保元年(1644)の地図で、広島城下の町割・山川の位置・形が詳細に記載があり国指定重要文化財である。

  「五箇村」の地に築いて「広島」と名付けた由来について、「広い島」がある等の説を紹介している。 輝元は、関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれたことからこの戦い後に山口に移封され、その後福島正則そして浅野長晟が入封した。

 浅野家は明治まで約250年にわたり広島を治め、輝元に続き新田開発・大規模な干拓を推進した。

 また舟運に加え、御手洗港で大がかりな石積み・雁木を作り海岸線を埋め立て、尾道では広島藩士平山角左衛門を派遣し、住吉浜を埋め立て港の拡大に力を入れた。

 広島藩赤穂藩浅野家の本家だったことから、1646年赤穂から2人の技術者を竹原に招き、いち早く「入り浜式塩田」を取り入れ、安芸津等で普及させた。

f:id:chopini:20220220182457j:plain  原爆投下前の広島城の絵葉書(出典 広島市デジタルアーカイブ    広島城は、昭和6年天守閣が国宝に指定され、昭和20年原爆の爆風で建物が倒壊したが石垣及び内堀は残った。天守閣は昭和33年に復元され、平成元年に資料や模型等で広島の歴史を伝える広島城博物館になった。

2021年、毛利輝元広島城入城430年目の企画展が開催された。

 

次は、廿日市市の宮島歴史民俗資料館学芸員・順田洋一さんの宮島の話です。

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(出典 ひろしま観光ナビ)

 厳島神社は、原爆ドームと同じ平成8年に、国内では8番目に世界遺産登録された。現在のような海上社殿となったのは平清盛の時代である。

f:id:chopini:20220222111114p:plain (明治時代の厳島神社 国会図書館デジタルアーカイブ

毛利氏時代は代官として役人が塔ノ岡に屋敷を構えたが、浅野氏時代になると宮島奉行所を置き保護した。

 広島城下の港は着岸地点が狭いことから宮島が広島藩の外港になり、燃料源である薪等を城下や近郊へ出荷する重要な港だった。

 しかし、沖乗り航行の北前船は、奥地の宮島の港には入ってこなかった。(この為、浅野氏は、前述の御手洗や尾道で港湾を増強し北前船で栄える港にする。)

f:id:chopini:20220222062348p:plain (出典 国会図書館デジタルアーカイブ)  

 浅野藩主が興行の多くを宮島に許可したことに加え、厳島八景の美しい景色・寺社などの名所・厳島神社の祭礼について十返舎一九の著書で取り上げられたこともあり、それらを一目見ようと大勢の観光客が訪れ大いに賑わった。

 年3回、大きな市がたてられ、芝居小屋では歌舞伎や能といった見世物興行が催され宮島は西海第一の劇場として歌舞伎界にとって重要な地になった。市川海老蔵松本幸四郎ら、あまたの名優の来演があった。  宮島の富座では、富くじが特別に許可され、「大束(薪の束)」が名目上の景品にされたが、景品には各地の特産品があてられた。

f:id:chopini:20220222062848p:plain 御座船と艘を横につないだ絵図((出典 国会図書館デジタルアーカイブ

 厳島神社の管絃祭は、御祭神が御座船と呼ばれる3艘を横につなぎ合わせた専用の船にのり、厳島神社と対岸の外宮・地御前神社を管弦演奏しながら渡御する。  f:id:chopini:20220220221954j:plain

(管絃祭 出典 ひろしま観光ナビ)

この管絃祭は、日本三大船神事(厳島神社の管絃祭・松江のホーランエンヤ祭・大阪の天神祭り)、瀬戸内三大船祭り(厳島神社の管絃祭・大阪の天神祭・坂越の船祭り)でもある。

f:id:chopini:20220220173456j:plain 宮島歴史民俗資料館 外観. (写真 提供 宮島歴史民俗資料館)

 宮島歴史民俗資料館は、江戸後期から明治にかけて醤油醸造・金融業を営んだ豪商「江上家」の主屋と土蔵を利用した施設で、旧宮島町が老舗旅館「岩惣」から譲りうけている。

f:id:chopini:20220220173732j:plain 宮島歴史民俗資料館 庭 錦鯉. (提供 宮島歴史民俗資料館)

 昭和49年に開館し、500坪の敷地に4つの展示館と主屋と復元された町家がある。

f:id:chopini:20220220173943j:plain 宮島の歴史と文化に係る多彩な資料の展示館D内観. (提供 宮島歴史民俗資料館)

順田さんは、歴史遺産等文化財が多い宮島を後世につなげる力に少しでもなれたらと話していた。

   続いて、東広島市文化課文化財係主事・竹下紘平さんに安芸津の廻船について話していただいた。

1974年に誕生した東広島市は、竹原市の西に位置し、安芸津町など周辺5町を2005年に編入している。

f:id:chopini:20220220200722j:plain JR西条駅周辺には、7社の蔵元がある (出典 ひろしま観光ナビ)

明治に入り「軟水醸造法」が生み出され、「吟醸酒の発祥の地」である。

 広島藩は江戸初期から新田開発に力を入れ、内陸部では米の生産、海岸部の埋め立て地では塩が生産された。天保年間には9カ所の「入り浜式塩田」が安芸津に存在した。

 安芸津は海運による交易が盛んで、「安芸地乗り」から、西廻り航路が開設(1672年)されると、陸を離れた「沖乗り」で活躍し、その足跡が日本海側に多く残る。

 広島藩で最大級の船を備えた木谷村は、天保12年(1841)には1~7反帆の船が30艘、21反数以上千石船が5艘あり、『芸藩通史』に木谷村を1300石以上の船を持つとの記述がある。

安芸津の「元屋万助」(元屋は光保家の屋号)の船で船頭若松が弘化3年(1846)に、福井県の大湊神社に奉納した絵馬がある他、新潟出雲崎の客船帳に三津浦の「吉宝丸」が1861年に入船し干鰯を買い入れた他、石川県の輪島では元屋の船11艘の記録がある。 f:id:chopini:20220220215356p:plain東広島市教育委員会提供)

 島根の浜田にも三津の「瀬野屋」が塩を売って干鰯を買い入れた他、「小田屋」が外ノ浦に入船した記録もある。干鰯を用いて綿が栽培され、綿織物として日本海沿岸で売られた。 f:id:chopini:20220220215821p:plain東広島市教育委員会提供)

「元屋」と「栄屋」は安芸津の代表的な廻船業者で、その繁盛ぶりは大坂の住吉大社に寄進した常夜灯、地元の塩竈神社と三種神社に残された足跡で分かる。

f:id:chopini:20220220215646p:plain東広島市教育委員会提供)

 塩竈神社は木谷村の塩田の守り神として建立され、灯籠と鳥居は元屋と角屋が寄進している。海水を煮る新しい塩竈を使う際、塩竈20日程で壊れる為、長く使えるようにお祈りをしていたという。  三種神社は廻船業者と関わりの深い神社で、「元屋」と「栄屋」が寄進した絵馬があり、江戸期の本殿、階段、灯籠などは安芸津の船持ちが寄進している。

 

 安芸津の元屋万助の船が、岩国藩の御城米を運んで江戸からの帰りの文化2年(1805)の始め遠州灘で遭難しアメリカ船に8名が助けられハワイに上陸する。その後マカオ→広東→インドネシアへと移動し、翌年の暮れ後に乗組員3人生きて帰国できたが善松一人だけが故郷安芸津に帰れた。

 2021年12月善松たちの『漂流記』の朗読劇が、地元で活動する劇団「安楽夢(あらむ)」が再現した。

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 (東広島市在住 松田悟さん提供)

「名城巡りと北前船の旅」 第63回首里城

 第63回(首里城

沖縄には首里城、中城城(なかぐすくじょう)、今帰仁城(なきじんじょう)の3つの日本100名城と、座喜味城(ざきみぐすく)と勝連城(かつれんぐすく)の2つの続日本100名城がある。これらの城は、2000年何れも世界遺産に登録された。
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出典 沖縄県立図書館

 琉球王国成立の原点、浦添グスクは国史跡だか日本の100名城・続100名城に入っていない。
 この浦添グスクについて、沖縄県浦添市 教育委員会文化財課史跡整備係・仁王浩司さんに話をして頂いた。
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提供 浦添市文化振興課

 仁王さんは、浦添グスク跡の復元・整備工事、発掘調査や整備を手がけ、浦添考古学の第一人者。

 浦添市那覇市の北に位置し、この20年で人口は1万人程増加し、現在は11万人余り。「浦添」の名の由来は、津々浦々を支配する「浦襲い(うらおそい)」が語源で、これが転じて「浦添」があてられたという。
 
 
 14世紀までは、琉球は「北山」「中山」「南山」3つの小国で勢力抗争をしていた。最も有力な勢力が浦添グスクに拠点を置く中山で開祖である舜天(しゅんてん)で、後に英祖・察度(さっと)が王位をつぐ。中国との朝貢貿易を始めたのが察度王の頃で、現在の浦添市の牧港が中心だった。


 仁王さんの発掘調査では、長さ40cm・重さ5㎏もある高麗系瓦(“高麗の瓦職人が造った”との文字が刻まれた瓦)が沢山発見された他、中国の大量の陶磁器・日本の鎧なども発掘され「中山」 の海外交易の証となっている。
 
15世紀に入ると三山が統一され、都を浦添から首里に移した事から交易の港も浦添から那覇に移る。

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浦添グスク・ようどれ館内」提供 浦添市文化振興課 
浦添グスク・ようどれ館」では原寸大レプリカで英祖王の墓の内部を見ることができ、発掘された瓦などの品々が展示されている。

ようどれの語源は「ゆうなぎ」の言葉からきており、夕凪の静かな様子から王様が眠る所という意味で使われるようになったと考えられており、浦添出身の尚寧王が改修し自らも葬られている。
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提供 浦添市文化振興課

 NHKの歴史番組で、中城グスクで1458年三眼銃(火器)で発砲した弾痕の跡を紹介していた。

 種子島に鉄砲が伝来したのは1543年 だが、それ以前に琉球では、既に火器が使われていたのを知り、仁王さんの朝貢貿易の話が具体的に分かった。

 次は、那覇市歴史博物館の学芸員・外間政明さんに首里城琉球王朝があった時代を話をお願いした。    
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出典 那覇市歴史博物館

 沖縄のグスク(城)の特色は、サンゴ礁石灰岩で石垣や門が造られており、中国など大陸の影響をうけ、有名な守礼門などにその様式がみられる。
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戦前の守礼門 提供 那覇市
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2015.2
 首里城自体は日本様式の木造建築であるが、正殿の装飾など日本・中国の影響を受けつつ、琉球独自に昇華したものになっている。
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 (出典  沖縄県立図書館蔵像)
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米軍空撮写真 昭和20(1945)年4月2日(出典 沖縄県立図書館像)
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提供 那覇市

 琉球が、王国として独自の貿易ができたのは1609年の薩摩藩侵攻までで、以後は、中国のみの交易が許されていた。
 
 昆布を中心にアワビ・フカヒレ等の俵物による輸出で、中国、琉球、薩摩の中継貿易がさかんに行われ、中国福建省からは、生糸・反物・漢方薬の麝香などを仕入れていたが当初は銀で決済していた。

 蝦夷地から薩摩に、富山の売薬商人(薩摩組)や、薩摩藩の廻船によって運ばれて来た昆布は、琉球の昆布座に集積され、さらに中国に運ばれた。

 薩摩の御用商人が昆布を一括して琉球の昆布座に運び、その隣にあった薩摩藩の在番奉行所で薩摩の役人が取り締まりをしていた。

 昆布は、市中にも出回り食生活に影響をあたえ、豚肉とともに琉球料理には欠かせない食品になり日本遺産のストーリーになった
 富山と並び国内有数の昆布の消費地だが、沖縄には何故か昆布を使った出汁文化はなかったという。
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  琉球染織 (出典 沖縄県立図書館蔵)
 浦添グスクと首里城は、沖縄県で初めて認定された日本遺産の構成文化財である。
 そのストーリーは、『琉球王国時代から連綿と続く沖縄の伝統的な「琉球料理」と「泡盛」そして「芸能」』。

 中国使節団から伝わった独自の文化である舞踊・三線・陶芸・漆器・織物等も日本遺産の構成文化財

 那覇市歴史博物館では、本土復帰50年記念の企画展の計画がある。


兵庫県たつの市の「室津海駅館」(北前船の日本遺産構成文化財)に、琉球使節団が薩摩藩と立ち寄った時の絵巻が展示されている。 f:id:chopini:20220126061339p:plain
室津海駅館にある絵巻

 折しも、琉球使節団の「江戸上り」について志學館大学の原口泉教授が2022年1月18日の朝日新聞(鹿児島版)に寄稿された「琉球王国のシンボル 首里城の再建 平和の礎」のなかで紹介されていたのでその一部を先生の承諾を得て掲載する。

『江戸時代、日中両属を余儀なくされた琉球王国は、定期的に中国皇帝と徳川将軍に使節を派遣した。18回に及ぶ「江戸上り」は琉球王子が正使を務め、花尾神社(祭神は源頼朝と島津初代忠久の母丹後の局)と日光東照宮(祭神は徳川家康)へも参拝した。鹿児島と中国福州には、琉球館という王国の出先機関があつた。天保年間、鹿児島城下絵図には錦江湾に浮かぶ琉球櫂船と琉球館が描かれていた。(中略)

 首里城には、大国の心がある。その心とは「守礼之邦」の平和外交の伝統である。1458年、尚泰久王は「万国津梁」の鐘を正殿に掲げ、王国の繁栄をうたった。首里城が再建され、沖縄が東アジアの礎となることを期待したい』
 と締めくくられていた。
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出典 沖縄県立図書館

 尚、原口泉教授には酒田市沖の飛島の客船帳(佐倉市国立民俗歴史博物館蔵)を閲覧出来た日、薩摩の濱崎新十郎は琉球箱館等に支店をもち廻船業を営なみ薩摩藩に貢献した濱崎太平次の一族だと教えて頂いていた。

「北前船寄港地・船主集落の旅」 第14回 南越前町

第14回 南越前町

  2017年北前船寄港地・船主集落として日本遺産に認定された南越前町から右近家に関わる3人のゲストを紹介する。

 一人目は、南越前町の斡旋で「河野北前船主通り案内の会」会長・千馬仁視さんのインタビューからです。

 (写真 南越前町提供) 

 南越前町は、福井県のほぼ中央、越前海岸の南に位置し、海の「河野地区」、山の「今庄地区」、里の「南条地区」の山・海・里(さんかいり)と、それぞれ異なる自然、歴史、文化に特徴がある。

(写真 南越前町提供) 
 このうち「河野地区」の北前船主通り200mほどに、右近家、中村家の2つの屋敷が建ち並ぶ。「北前船主の館・右近家」、国指定重要文化財の「中村家住宅」、いずれも日本遺産構成文化財である。右近家と中村家は支え合い姻戚関係で、中村家は幕末、沿岸警備の際、松平春嶽が宿泊し、扁額が残されるなど多くの記録が残る。

 「北前船主の館・右近家」は、明治期に建てられた本宅や蔵で、右近家12代当主が、本宅等の廻船経営に関わる資料の展示を目的に、平成2年に一般公開した。

常設展示より (写真 南越前町提供) 
 
右近家の成り立ちは、340年程前の江戸初期にさかのぼる。右近家の菩提寺「金相寺」3代目の次男が分家するに際し、田畑山林とともに船1隻を与えられ、初代右近権左衛門を名乗ったことに始まる。家督を相続すると代々権左衛門を11代目まで名乗り、現在は13代目だという。

 右近家9代目権左衛門は次々と廻船を増やし北前船で飛躍する。

  (写真 南越前町提供) 
この蔵の提示物にある船絵馬には、右近家の持ち船「仁恵丸」が住吉神社船霊の2つの神様が浮いているように描かれ、全国でも珍しい。
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 (写真 南越前町提供) 
  
 現在の建物は10代目右近権左衛門の代、明治34年に建築された。
 この背後の高台に、昭和10年(1935)に別荘として建てられた洋風の「西洋館」(日本遺産構成文化財)は、鉄筋コンクリート2階建(登録有形文化財)で、1階がスペイン風、2階がスイスのシャレー式建築で、「一度は訪ねてみたい洋館」に選出されている。

(写真 南越前町提供) 

 この西洋館は11代目権左衛門が、昭和恐慌のあおりを受け困窮する村人達の雇用を考え、造ったことから「お助け普請の館」と言われ、これは河野の誇りだと千馬さんは語る。

 明治に入り時代の変遷を察し、大型蒸気船から明治29年日本海上保険を設立する。その後、11代目が昭和19年日本火災と合併するなど近代化の波に対応し、廻船経営から転換し、右近家は難局を乗りきっている。
 
 右近家は、芦屋の川沿いに住居を移したが、現在はこの敷地跡に30-40軒の家が建っていると、このブログ読者の方が教えてくれた。
   
 姫路市の日本遺産構成文化財に、右近権左衛門らが寄進した「牛の石像」を以前紹介したが、千馬さんに他の地域についてたずねると、香川県金毘羅神社で非公開の右近家の絵馬を拝観したとうかがった。 
 

 2人目は、右近家の菩提寺金相寺で生まれ育った書道家・右近桜月さん。
 雅号「桜月」(おうげつ)の由来は、桜の品種「鬱金桜」からきており、右近さんの書道の師匠が雅号を考えられた。
 右近家住宅を背景に桜月さんが筆文字を提供したポスター
 (写真提供 右近桜月さん)

 「命を吹き込む書道家」として人々にとって書を身近に感じてほしいと、魂を込め作品を制作している。

 住職であった祖父の膝の上で3歳頃には鉛筆で名前を漢字で書くなど書に親しみ、4歳より筆を持ち習字教室に通い書の素晴らしさに魅了されたという。
 
 地元福井県の1500年の歴史と伝統を誇る越前和紙の魅力を書を通して発信し、作品の全てに手漉きの越前和紙を使用している。 
 デジタルの活字に溢れる現代だからこそ、手から生まれるぬくもりを伝えたいという信念を持っている。

桜月さん書による福井国体限定の日本酒ラベル(写真提供 右近桜月さん)
 
 小樽の北前船シンポジウムに明楽さんと参加した桜月さんは、沢山の人が来られていたのに、若い年代の人がいなかった事にふれ、アニメ等で若者に広め繋ぐ構想を話していた。  
 
 「右近桜月」で検索するとブログがあり右近家の歴史を沢山の写真入りで見る事ができる。

 3人目は、現在福井市でカメイ珈琲店を経営している竹森政人さん。

 竹森さんは学生時代、ウガンダ共和国コーヒーの生育過程、生産過程を目の当たりし、コーヒーにたずさわるようになったという。

 その後、日本スペシャリティー協会のコーヒーマイスターを取得している。
 竹森さんの母方の先祖は右近家の船頭で、その名字がカメイだった事から「カメイ珈琲」の名前にしたという。

 カメイ家の大叔母は、小説『海萌ゆる』で三浦綾子文学賞にノミネートされ、最後迄その候補に残った。竹森さんから頂いたこの書には、北前船の船頭の流転の人生が描かれていた。

2018.7 北前船寄港地フォーラム(坂井市)撮影者 筆者

 竹森さんは、2018年7月坂井市北前船寄港地フォーラム会場のブースで、「北前珈琲」を販売していた。
また「北前船主の館 右近家」の西洋館のしゃれた雰囲気の一角で、「北前珈琲」の名で、1日限定10杯 販売したことがあった。

 竹森さんが企画した「北前珈琲」は、コーヒー糖を運んだ右近家文書が発見されてから。

 2016年5月4日、日刊県民福井新聞で以下のように紹介されている。

 『南越前町の図書館に保管される右近家文書21,000点の文書の中に、右近家所有船の一つ永宝丸の仕入れ記録にコーヒー糖があり、「買仕切」と「売仕切」の記録を、右近恵氏が発見している。「コーヒー糖はどんなものか分からないが、船頭は北海道の得意先へのお土産として買い取ったのではないか」と右近氏はコメントを寄せている。これは明治時代のことである。
 この新聞記事をブログで紹介するにあたり、河野北前船研究会会長でもある右近恵氏の貴重なお話をする機会を得とても参考になった。
 
 右近家のコーヒーの話から、コーヒーはいつ頃から飲んでいたのか関心をもつようになった。
 そんなある日、江戸時代から飲まれていた事が、2018年8月13日朝日新聞(東京版)夕刊一面トップに「江戸の香り コーヒー再現」のタイトルの記事があつた。

 それは、北海道最北の稚内にコーヒー豆の石碑がある話から、江戸期のコーヒー事情について掲載されたものだった。

 江戸後期、南下するロシアに対する危機感から幕府は、弘前藩などから蝦夷地警備に派遣していた。当時は「コーヒーが寒気をふせぎ、隠邪を払う」といわれ派遣された武士などに配られていた。薬のように飲まれたその記録が『蝦夷地御用留 第二 』にある。鎖国下、長崎の出島から「コーヒー」が津軽まで運ばれていた。・・・以下略』

 当時、日本海を航行していた北前船に積み運ばれていたことが推測できる。

 津軽藩兵詰合の記念碑 (幅1.7m、高さ1.4m、台座を含め幅6m、高さ1.5m)
稚内市教育委員会提供)

 稚内市学芸員斉藤 譲一さんに尋ねたところ、これを建立したのは弘前市コーヒー店を経営されている方だと写真も送っていただいた。