『名城巡りと北前船の旅』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の企画し紹介している

『名城と北前船を巡る旅』第68回 備中松山城(玉島)

 
岡山県立博物館館長(学芸員)だった田村啓介氏は退官後、
故郷高梁市教育委員会の参与として活躍中の方である。
 「備中松山城」(日本100名城)は天守が現存する、国内に12残る天守の一つで「天空の山城」と言われている。高梁川の霧で、海抜430メートルの城が雲海に浮かんだように見え、兵庫県竹田城跡と比較される。

出典 岡山観光ウェブ
 近年、この城の飼い猫が住み着き「猫城主さんじゅうろう」として活躍し、城と共に高梁市の観光の目玉になっている。
 出典 岡山観光ウェブ
1642年この城に、水谷勝隆が備中松山藩主として5万石で入封したが、3代目の水谷勝美に継嗣がなく、お家断絶で元禄6年(1693)改易となる。
 幕府からこの城の引取役に播州赤穂藩の大石内蔵助が命じられ、備中松山藩家老、鶴見内蔵助との話し合いで、無血開城が実現する。2人の内蔵助の話は、後に歌舞伎にもなったという。この8年後、赤穂藩もまた無血開城でお家断絶に大石内蔵助が関わることになる。写真の説明はありません。
2015年3月備中松山城 筆者 
水谷3代47年にわたり、高梁川で運河「高瀬通し」(倉敷市船穂~玉島港間)の整備、飛び地の玉島港(現倉敷市)を干拓し新田開発をする等、城下の整備に力を注い藩の基盤を築いた。
干拓地に出来た玉島では綿花栽培を奨励し、西廻り航路では鰊カスがくる港で賑わった。
 
 城主水谷公が玉島開発の礎を築いたことから、玉島港の高台にある羽黒神社に「水谷神社」の御霊が祀られている。水谷氏の城下整備から160年ほど後、藩は10万両の借財に苦慮していた。
 山田方谷(1805~1877年)は、財政改革でこの借財を10万両の蓄財に7年で実現させた。
 農民で儒学者山田方谷を登用した7代藩主板倉勝静は、松平定信の孫だった。
 勝静は最後の将軍徳川慶喜を支え、老中首座を務めたこともある。
 特産品(鉄・煙草・漆・和紙・吹屋弁柄)は、高梁川高瀬舟で下り、玉島港から運ばれた。中でも、「備中鍬」は江戸でのヒット商品になった。(馬や牛を飼えない農家にも必需品だった)。山田方谷は多くの人材を育成、国内最古の郷学「閑谷学校」の再興、三島三州(二松學舍創学)等を育成。JR伯備線方谷駅」の駅名がある。
 この方谷を題材にした大河ドラマを求め、100万人の署名があったことも紹介している
 

 続いて、その倉敷市から日本遺産推進室・藤原憲芳さんに話していただいた。
藤原さんは、2回にわたりブラタモリで案内役を務めている。

 備中松山城日本100名城)の初代藩主水谷勝隆が、飛び地だった玉島の地形に着目し、点在する小さな島々を干拓し、堤防を築き玉島港を開く。この玉島港と高梁川の間には「高瀬通し」といわれる運河も造っている。

 海岸沿いの堤防には商家や土蔵が次々と建てられ、43の問屋やその蔵が立ち並んでいたという。残っている町並み保存地区は、日本遺産構成文化財に認定されている。
 
良寛会館の前から見る玉島のまち並み(2019,11)
 
かつて海岸沿いの堤防に北前船が横付けし、綿花の肥料・〆カスが北海道から運ばれ、積み荷を降ろしていた。最盛期は西の浪速といわれ、備中一の賑わいだったという。

備中松山藩は良質の砂鉄がとれたことから「備中鍬」の特産品を、高梁川の舟運で35キロメートル下流の玉島港から江戸、大坂に運び山田方谷財政再建を果たす。


高梁川の舟運 国土交通省のHPより

玉島には、廻船問屋に関連する「書」と「茶」と「和菓子」の文化が多くのこされている。江戸期は400程の茶室があり、廻船問屋や船主のもてなし等の商談に使われた。
 現在も、40の茶室が保存され、茶の湯文化が生活に根を生やしている。
 
 毎年春に良寛茶会が開かれ、良寛は玉島でも親しまれている。
 
 新幹線新倉敷駅(旧玉島駅)の良寛像(2019.11)

 玉島や下津井では埋め立て地で綿花栽培していたことから良質の綿が大量に生産された。

 足袋の生産では、大正期には2000万足に及ぶようになる。足袋の需要が減少すると、児島地区では学生服の生産で、国内メーカーの90%を占めるようになっていく。
 戦後、縫製技術から国内で初めてのジーンズを作ったのが1965年で、更にストーンウオッシュの技術を見出しブランドになった。
 
 児島地区のジーンズ街 出典 岡山観光WEB

 倉敷美観地区にある洋風の美術館は、クラボウの紡績工場跡地である。

『名城と北前船を巡る旅』第67回福知山城(由良川)

第67回福知山城

福知山城(続日本100名城)について福知山市文化財保護係の松本学博さんに話していただいた。

 福知山城は光秀が天正7年頃(1579)築城したが、当時から残る個性豊かな石垣と、北近畿唯一の天守が魅力である。

 光秀は福知山に市民から慕われ昭和61年(1986)復元され「福知山光秀ミュージアム」で詳しく展示されている。

 復元された福知山城(福知山市文化スポー振興課提供)

 

城の石垣は、寺社などで使われていた石塔等、500程の「転用石」が使われた野面積みは現存し市の文化財である。

城の近くの光秀を祀った『御霊神社』(福知山市文化スポーツ振興課提供)

大河ドラマ麒麟が来る』で見る光秀の家紋「桔梗」は、福知山の市の花に制定されている。

  福知山藩の特産品になった「丹波漆」は、1300年ほど前には税として納められており、藩が夜久野町で植栽を推進し、漆の増産を奨励していた。 

 「藍」については京都の松尾大社の荘園が福知山にあり、1473年にこの地の荘園の人々が松尾大社へ藍を納め、1496年には浅葱色(明るい青緑色)に染めた布を納めたという記録があり紺屋町の地名が残っている。

丹波の漆掻き」は平成3年が京都府無形民俗文化財に指定され、藍は、25年程前から藍同好会ができ、由良川の藍の栽培に成功し技術と伝統が継承されているという。

  17世紀後半、西廻り航路が活発になると福知山から、綿・茶・漆・紙等が由良川河口の由良港や神崎港に高瀬舟で集められた。由良川河口東に神崎、西側に由良村があり、若狭湾に面した海岸一帯では揚浜式塩田で製造された。廻船業も盛んで船主、船頭・水主の活躍で海から遠い綾部、福知山まで高瀬舟で運ばれた。

 由良川沿いに、川の港を意味する「天津・高津江・常津」などの「津」の地名、船着き場を示す「舟渡」の地名が残っているのはそのなごりだ。

 

 出典 京都府HPより

  

 由良川高瀬舟と藩の関係について、国土交通省のHPには、『安土桃山時代明智光秀が城下町を開くため堤防を築造し、由良川の河道を付け替えた堤防前の樹林群は「明智藪」と呼ばれ現在も残っている』と記述があった。

 (由良川の改良図) 国土交通省のHPより



明智藪;福知山市街地)国土交通省のHPより

これについて松本さんは一次史料では確認できていないと語り、由良川土師川(はぜがわ)の合流地点に堤防を築いたのは伝承であると話していた。

 

 

 

「名城巡りと北前船の旅」第66回水戸城(和算)

 第66回水戸城和算

 まず始めに、 水戸市教育委員会歴史文化財課 世界遺産係長・藤尾隆志氏の話から紹介する。

 水戸城日本100名城)は、鎌倉時代の創建で天守閣がなく土塁や空堀で構成されている。江戸期に水戸徳川家の藩庁になった。

 

復元された「大手門」(筆者)

薬医門が現存し、令和2年に「大手門」、令和3年に「二の丸角櫓」が復元された。
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復元された「二の丸角櫓」(写真筆者)

 2代藩主 徳川光圀水戸黄門)の『大日本史』と、9代藩主 徳川斉昭徳川慶喜の父)の「弘道館」は、日本遺産「近世日本の教育遺産群~学ぶ心・礼節の本源~」の構成文化財に認定されている。

 光圀が明暦3年(1657)に着手した『大日本史』は、明治39年(1906)に全397巻・目録5巻が完成している。
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大日本史編纂の地の碑 左手は水戸彰考館の門 

 光圀が開設した「水戸彰考館」は大日本史編纂所で、弘道館ができるまで藩校の役割をし、三つ目の構成文化財である。

 「水戸黄門」に登場する助さん=佐々介三郎、格さん=安積覚兵衛は、彰考館の学者だった。
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水戸駅前の黄門様・助さん・格さんと筆者

 「黄門」は、光圀の「権中納言」の中国風の呼び方で、光圀は、船を建造させ蝦夷地の調査を計画、家臣を石狩まで派遣し探検させている。

 弘道館は「文武不岐」など建学の精神を定め、儒学、歴史、歌道、音楽、数学(和算)、西洋医学、薬学、天文学など幅広い学問を修める今日の総合大学のような性格を有する教育施設として設けられた。

 偕楽園も、徳川斉昭が造ったもので、「一張一弛(いっちょういっし)」の考えから、学問や仕事の合間に家臣のみならず領民も楽しめる景勝の地として創設され、学問興隆の象徴として梅が植樹された。偕楽園日本三名園の一つであり、日本遺産構成文化財である。

 5つの構成文化財のうち、4つが光圀と斉昭によるものである。

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 足利市足利学校(幕府の学校)、備前市岡山藩閑谷学校)、日田市(咸宜園日本最大の私塾)の4市で世界遺産を目指している。

 

 弘道館では、江戸時代の和算を使ったイベントを催していた。

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弘道館で展示している和算の教科書の説明 筆者 )

 江戸初期、大坂・京都の商人の複雑な計算には和算は必要なものだった。1627年吉田光由の『塵劫記』(じんこうき)が出版されると、各地で寺子屋の教材に
使われた。明治に入ってもベストセラ―だったが、現在も、岩波書店から版を重ねて出版されている。

 和算は、田畑の面積、土木工事、暦を決める暦法、流通、船建造、航海術に必須で、北前船の設計に始まり、交易の決済の場面でも根付いていたに違いない。

 大坂堂島等の先物取引が世界に先駆け開始されたのは、和算の普及で計算能力が高かったことが伺われる。

 

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何度も改定された塵劫記(出典 国会図書館デジタルアーカイブ

 

 次は、神戸市在住の梶川雄二氏に、和算について話してもらった。梶川氏は、和算研究家で毎年全国和算研究大会に参加されている他、全国の算額絵馬を調べる旅をしている。

 忠臣蔵に出てくる梶川与惣兵衛の10代目で、2018年の赤穂義士祭で梶川役で登壇している。 

 NHKの「忠臣蔵の恋 」で描かれた村松三太夫の祖父 村松茂清(1608〜1695)は、円周率を小数点以下7桁までの正しい値を日本で最初(1663年)に発見し、「算俎」を出版している。(塵劫記は再版されたが円周率3.14までだった)

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(出典 国会図書館デジタルアーカイブ

 

 その後、和算第一人者の関 孝和が円周率下12桁を算出する等、中国から伝わった数学は、鎖国下の日本で独自に発達し各藩から数多くの和算家を排出している。

 津和野藩の堀田仁助が和算を使い天球儀を制作した話や、江差のニシン蕎麦の元祖、横山家の蔵に所蔵される『算法新書』(沈没した帆船で発見されたもの)についても話している。

 行列式は、日本が世界に先駆けて関孝和があみ出していたが、世界の学会では文字の問題から、まだ認めてもらえないと語っている。

 

 江戸から明治時代にかけ、船絵馬は北前船の寄港地の神社に盛んに奉納されていた。

 また円周率等の和算の問題を絵馬にして神社に奉納、この解答を絵馬にして奉納する日本独特の算額文化があった。自らの知識の高さを誇示し、全国の神社にたくさん算額が残っている。

写真の説明はありません。

 渋谷駅近くの金剛八宮の算額絵馬(筆者)

 

 

 最後は、射水市新湊博物館・学芸員 松山充宏氏に和算について話して頂いた。

射水市新湊博物館「利用・交通案内」

射水市新湊博物館)

 江戸時代後期、富山・石川両県の正確な地図を作った富山県射水の石黒信由(1760〜1836)は、和算を高度に発展させた関孝和(1642〜1708)の流れを汲む弟子にあたる。

 信由が陸奥国一関(岩手県)の和算家と算題をやり取りした記録があり、江戸後期、和算を通じた交流は各地に広がっていた

 

冨山】祈求算數精進的神社:射水放生津八幡宮- 東京タイプ

(石黒信由の算額絵馬 射水市放生津八幡宮提供)

 石黒信吉の和算から生まれた航海術書『算法 渡海標的』が、1836年に京都で出版された。この本は、天文学を基本にしたもので、北前船等の廻船には、必ず積まれていた事から、当時、廻船問屋のベストセラーになっていた。

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  (射水市新湊博物館蔵)

 この書は高度な和算を使い、船の上から星を測る方法が示され、安全な航海に必要な技術をまとめたものである。

 漂流して帰港出来なくなる事があるので、船の位置を知るために北極星の高度を測る方法を示したものであったため、 船乗りもこぞって買っていたという。  

 石黒信由とその子孫が作成した、算学や航海術に関する著書類や記録類、測量
器具などの関係資料をこの博物館で展示している。

 江戸時代の学者の関係遺品として現存する全国の資料の中でも、極めて希少なものと評価され、すべて国の重要文化財に指定されている。

 館内では、江戸時代の測量体験ほか様々な企画が用意され、大人から子供まで楽しめる。

「名城巡りと北前船の旅」 第65回 丸亀城

 
 最初は、丸亀市教育委員会文化財保存活用課・課長 東信男さんに丸亀城日本100名城)と、丸亀市の日本遺産について話していただいた。
  

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2015.7
丸亀城は、昔のままの天守が残る12ヶ城の一つで、昭和25年重要文化財に指定された。渡櫓や隅櫓で繋がれた天守と大手門が残る城は、弘前城高知城の3城しかなく、天守と大手門を合わせて見られる城は高知城丸亀城だけだ。
 石垣の城として知られ、「扇の勾配」の美しい反りをもち、搦手側の幾重にも折り重なる石垣は圧巻である。

2015.7
 丸亀城の石垣は20mを越え、この天守から塩飽諸島本島や岡山が見える。

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 この塩飽諸島周辺は潮流の変化が大きく、戦国時代までは操船技術を持つ塩飽水軍が活躍し、航行する船の停泊地や修理地にもなっていた。
 塩飽諸島は、令和元年、笠岡市丸亀市・土庄町・小豆島町と共に、備讃瀬戸をテーマとする「石の島のストーリーが知ってる!?悠久の時が流れる石の島 ~海を越え、日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」として日本遺産に認定された。
 塩飽の島々には、400年に渡って巨石を切り出し、加工し、船で運び、石と共に生きた人たちの足跡が残る。

 (2019.5)
 その構成文化財に、塩飽勤番所跡、笠島集落、廻船業で活躍した尾上邸、青木石の産地である石切丁場の上には王頭砂漠と呼ばれる王頭山がある。
 

(2019.5)

 本島にある塩飽勤番所跡は、昭和45年国指定史跡になり、天皇陛下が昭和57年、学生時代に水運のご研究のために立ち寄られ、番所跡に「雲間より志ののめの光さしくれば 瀬戸乃島々浮出にけり」の歌碑がある。
 本島の北東部の笠島集落は、昭和60年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、タイムスリップしたような家並みが残されている。
 塩飽諸島の広島町には、北前船で富を築いた尾上吉五郎邸がある。
 屋号を橘屋と名乗り、先代の吉五郎は青森県野辺地の青木石で造られた常夜灯の礎石にその名が刻まれている。笠島集落は瀬戸内国際芸術祭の会場になり、昔ながらの街並みを活用して芸術とのコラボが行われるので是非お越しいただければと、東さんは話しを締めくくった。

 

 続いて、多度町教育委員会学芸員 白木亨さんの話です。

白木さんは、「北前船・船主集落」で日本遺産申請するにあたり多度津北前船を調査されている。

 多度津藩は、元禄7年(1694)丸亀藩から分家した1万石の小藩だった。文政10年(1827)に陣屋を置いた後、天保9年(1838)、巨費を投じて桜川下流の港を整備した。

 そのため多度津港は北前船等の商船の発着港、金毘羅参詣者が降り立つ港として発展する。参拝客は、港から南に延びる「多度津金毘羅街道」を通り金毘羅詣りをした。

 (2019.5)
 多度津港から積み出されたものは、特産品の讃岐3白(塩・砂糖・綿)や、天霧山の天霧石がある。

 宇多津や讃岐荘内半島の塩田で塩が生産されていた。赤穂藩は、この地域など瀬戸内海各地に入浜式塩田を伝授していた。

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  (多度津町立資料館内  2019年5月

多度津町立資料館には、高見八幡宮に奉納された北前船の模型(写真)が展示されている。宝暦5年(1755) の弁財船で、香川県で最も古く全国では3番目に古いという。この北前船の模型は、日本遺産北前船関連資料群の一つである。

     金毘羅鳥居一の鳥居  白木亨さん提供

 そのほか構成文化財に、旅館跡・廻船問屋住宅跡・蔵・金毘羅街道に残る鳥居(現在は町内の桃陵公園に移設)・常夜燈(金毘羅燈籠)等、全部で12ある。

金毘羅鳥居三の鳥居 白木亭さん提供

 

 最後は、琴平町金刀比羅宮の元禰宜(ねぎ)で現在相談役の科野 齋さんに話して頂いた。

 香川県琴平町象頭山(海抜521m)の中腹に鎮座する金刀比羅宮(ことひらぐう)は、(こんぴらさん)の俗称で呼ばれ、漁師、船員などが航海安全を祈願する海の守護神として信仰され、全国に800ほどある金刀比羅の総本宮社である。

 江戸中期ごろから金刀比羅詣が盛んになり、上方から「こんぴらさん」に行くには、大坂淀屋橋からは船で丸亀港、西からは多度津湊から渡り、ここで一泊してから徒歩で金刀比羅宮に参る。

 その夜は、この門前町で芝居や豪遊を楽しみ、帰りは船で大坂へは下津井湊(岡山県)に渡り、山陽道で帰っていたという。

 (2015年.7)

参道には旧跡や文化財があり、土産店や飲食店などが建ち並ぶ。参道入口から御本宮までの石段の数は785段、さらに奥社までは583段あり、総数1,368段におよぶ。

 表書院(重要文化財)には円山応挙の虎の襖絵(重要文化財)、奥書院(重要文化財)には伊藤若冲の「百花図」があり、絵馬堂には嘉永3年(1850)の北前船(松栄講)の絵馬など、合わせて文化財は1725点に及ぶ。

 この中には、南越前町のブログで紹介した右近家が明治21年に奉納した絵馬がある。これは、大阪の絵馬屋藤兵衛の作品で、色も鮮やかで素晴らしい大作だという。

 この他、京都の近江商人が奉納した絵馬や、さまざまな方向から描いた異彩を放った絵馬もある。この他、北前船の模型・正月船の奉納は、正月に床の間に飾り楽しんだもので、山陰地方の風習で嫁入り道具のひとつであったという。

 また、前述した多度津港と同様の北前船寄港地の一つ、山形県酒田で鋳造された3メートルにおよぶ銅製の灯篭もある。

 瀬戸内海を航行する船は、「こんぴらさん」が見えると航海安全の願いを込め、金刀比羅宮の旗を立て、お賽銭や酒を入れた樽を海に流す「流し樽」と呼ばれる代参の風習があり、現在も年に数回あるという。

 この樽を拾った船乗りは、「こんぴらさん」へ奉納するというもので、樽を流した人も届けた人にも御利益があるといわれている。

 1年間の行事で最も重要な御祭「大祭」は10月に行われ、頭人を先頭に行列が1キロに及ぶ勇壮な祭りである。

 金刀比羅歌舞伎で有名な歌舞伎小屋(天保6年築)は、改修され重要文化財になっている。昭和60年から歌舞伎が毎年開催され、この催しのある時は、8000人の琴平町に10万人が訪れるという。

「しあわせさん こんぴらさん」がキャッチフレーズになっている事を、科野さんは最後に話していた。

「名城巡りと北前船の旅」第64回 広島城(宮島・安芸津)

 第64回 広島城(宮島・安芸津

始めは、日本100名城広島城について広島市文化財広島城主幹学芸員・小林奈緒美さんの話です。

広島城(2016.7 筆者撮影)

 吉田郡山城安芸高田市日本100名城)城主だった毛利元就の孫輝元は、山城が主流だった時代に、海に近い「五箇村」に城と城下が一体となる広島城を築いた。

 これは豊臣秀吉に京都聚楽第大坂城で謁見したことが影響していた。

 輝元は、水陸交通の重要性から、太田川のデルタ地帯を選び、築城開始と同時に大規模な干拓事業に力をいれ、城の周りには家臣や町人が住む城下町を作り広島発展の礎を築た。

f:id:chopini:20220222070815p:plain 安芸国正保城絵図(出典 国立公文書館デジタルアーカイブ  広島藩が作成した正保元年(1644)の地図で、広島城下の町割・山川の位置・形が詳細に記載があり国指定重要文化財である。

  「五箇村」の地に築いて「広島」と名付けた由来について、「広い島」がある等の説を紹介している。 輝元は、関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれたことからこの戦い後に山口に移封され、その後福島正則そして浅野長晟が入封した。

 浅野家は明治まで約250年にわたり広島を治め、輝元に続き新田開発・大規模な干拓を推進した。

 また舟運に加え、御手洗港で大がかりな石積み・雁木を作り海岸線を埋め立て、尾道では広島藩士平山角左衛門を派遣し、住吉浜を埋め立て港の拡大に力を入れた。

 広島藩赤穂藩浅野家の本家だったことから、1646年赤穂から2人の技術者を竹原に招き、いち早く「入り浜式塩田」を取り入れ、安芸津等で普及させた。

f:id:chopini:20220220182457j:plain  原爆投下前の広島城の絵葉書(出典 広島市デジタルアーカイブ    広島城は、昭和6年天守閣が国宝に指定され、昭和20年原爆の爆風で建物が倒壊したが石垣及び内堀は残った。天守閣は昭和33年に復元され、平成元年に資料や模型等で広島の歴史を伝える広島城博物館になった。

2021年、毛利輝元広島城入城430年目の企画展が開催された。

 

次は、廿日市市の宮島歴史民俗資料館学芸員・順田洋一さんの宮島の話です。

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(出典 ひろしま観光ナビ)

 厳島神社は、原爆ドームと同じ平成8年に、国内では8番目に世界遺産登録された。現在のような海上社殿となったのは平清盛の時代である。

f:id:chopini:20220222111114p:plain (明治時代の厳島神社 国会図書館デジタルアーカイブ

毛利氏時代は代官として役人が塔ノ岡に屋敷を構えたが、浅野氏時代になると宮島奉行所を置き保護した。

 広島城下の港は着岸地点が狭いことから宮島が広島藩の外港になり、燃料源である薪等を城下や近郊へ出荷する重要な港だった。

 しかし、沖乗り航行の北前船は、奥地の宮島の港には入ってこなかった。(この為、浅野氏は、前述の御手洗や尾道で港湾を増強し北前船で栄える港にする。)

f:id:chopini:20220222062348p:plain (出典 国会図書館デジタルアーカイブ)  

 浅野藩主が興行の多くを宮島に許可したことに加え、厳島八景の美しい景色・寺社などの名所・厳島神社の祭礼について十返舎一九の著書で取り上げられたこともあり、それらを一目見ようと大勢の観光客が訪れ大いに賑わった。

 年3回、大きな市がたてられ、芝居小屋では歌舞伎や能といった見世物興行が催され宮島は西海第一の劇場として歌舞伎界にとって重要な地になった。市川海老蔵松本幸四郎ら、あまたの名優の来演があった。  宮島の富座では、富くじが特別に許可され、「大束(薪の束)」が名目上の景品にされたが、景品には各地の特産品があてられた。

f:id:chopini:20220222062848p:plain 御座船と艘を横につないだ絵図((出典 国会図書館デジタルアーカイブ

 厳島神社の管絃祭は、御祭神が御座船と呼ばれる3艘を横につなぎ合わせた専用の船にのり、厳島神社と対岸の外宮・地御前神社を管弦演奏しながら渡御する。  f:id:chopini:20220220221954j:plain

(管絃祭 出典 ひろしま観光ナビ)

この管絃祭は、日本三大船神事(厳島神社の管絃祭・松江のホーランエンヤ祭・大阪の天神祭り)、瀬戸内三大船祭り(厳島神社の管絃祭・大阪の天神祭・坂越の船祭り)でもある。

f:id:chopini:20220220173456j:plain 宮島歴史民俗資料館 外観. (写真 提供 宮島歴史民俗資料館)

 宮島歴史民俗資料館は、江戸後期から明治にかけて醤油醸造・金融業を営んだ豪商「江上家」の主屋と土蔵を利用した施設で、旧宮島町が老舗旅館「岩惣」から譲りうけている。

f:id:chopini:20220220173732j:plain 宮島歴史民俗資料館 庭 錦鯉. (提供 宮島歴史民俗資料館)

 昭和49年に開館し、500坪の敷地に4つの展示館と主屋と復元された町家がある。

f:id:chopini:20220220173943j:plain 宮島の歴史と文化に係る多彩な資料の展示館D内観. (提供 宮島歴史民俗資料館)

順田さんは、歴史遺産等文化財が多い宮島を後世につなげる力に少しでもなれたらと話していた。

   続いて、東広島市文化課文化財係主事・竹下紘平さんに安芸津の廻船について話していただいた。

1974年に誕生した東広島市は、竹原市の西に位置し、安芸津町など周辺5町を2005年に編入している。

f:id:chopini:20220220200722j:plain JR西条駅周辺には、7社の蔵元がある (出典 ひろしま観光ナビ)

明治に入り「軟水醸造法」が生み出され、「吟醸酒の発祥の地」である。

 広島藩は江戸初期から新田開発に力を入れ、内陸部では米の生産、海岸部の埋め立て地では塩が生産された。天保年間には9カ所の「入り浜式塩田」が安芸津に存在した。

 安芸津は海運による交易が盛んで、「安芸地乗り」から、西廻り航路が開設(1672年)されると、陸を離れた「沖乗り」で活躍し、その足跡が日本海側に多く残る。

 広島藩で最大級の船を備えた木谷村は、天保12年(1841)には1~7反帆の船が30艘、21反数以上千石船が5艘あり、『芸藩通史』に木谷村を1300石以上の船を持つとの記述がある。

安芸津の「元屋万助」(元屋は光保家の屋号)の船で船頭若松が弘化3年(1846)に、福井県の大湊神社に奉納した絵馬がある他、新潟出雲崎の客船帳に三津浦の「吉宝丸」が1861年に入船し干鰯を買い入れた他、石川県の輪島では元屋の船11艘の記録がある。 f:id:chopini:20220220215356p:plain東広島市教育委員会提供)

 島根の浜田にも三津の「瀬野屋」が塩を売って干鰯を買い入れた他、「小田屋」が外ノ浦に入船した記録もある。干鰯を用いて綿が栽培され、綿織物として日本海沿岸で売られた。 f:id:chopini:20220220215821p:plain東広島市教育委員会提供)

「元屋」と「栄屋」は安芸津の代表的な廻船業者で、その繁盛ぶりは大坂の住吉大社に寄進した常夜灯、地元の塩竈神社と三種神社に残された足跡で分かる。

f:id:chopini:20220220215646p:plain東広島市教育委員会提供)

 塩竈神社は木谷村の塩田の守り神として建立され、灯籠と鳥居は元屋と角屋が寄進している。海水を煮る新しい塩竈を使う際、塩竈20日程で壊れる為、長く使えるようにお祈りをしていたという。  三種神社は廻船業者と関わりの深い神社で、「元屋」と「栄屋」が寄進した絵馬があり、江戸期の本殿、階段、灯籠などは安芸津の船持ちが寄進している。

 

 安芸津の元屋万助の船が、岩国藩の御城米を運んで江戸からの帰りの文化2年(1805)の始め遠州灘で遭難しアメリカ船に8名が助けられハワイに上陸する。その後マカオ→広東→インドネシアへと移動し、翌年の暮れ後に乗組員3人生きて帰国できたが善松一人だけが故郷安芸津に帰れた。

 2021年12月善松たちの『漂流記』の朗読劇が、地元で活動する劇団「安楽夢(あらむ)」が再現した。

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 (東広島市在住 松田悟さん提供)

「名城巡りと北前船の旅」 第63回首里城

 第63回(首里城

沖縄には首里城、中城城(なかぐすくじょう)、今帰仁城(なきじんじょう)の3つの日本100名城と、座喜味城(ざきみぐすく)と勝連城(かつれんぐすく)の2つの続日本100名城がある。これらの城は、2000年何れも世界遺産に登録された。
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出典 沖縄県立図書館

 琉球王国成立の原点、浦添グスクは国史跡だか日本の100名城・続100名城に入っていない。
 この浦添グスクについて、沖縄県浦添市 教育委員会文化財課史跡整備係・仁王浩司さんに話をして頂いた。
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提供 浦添市文化振興課

 仁王さんは、浦添グスク跡の復元・整備工事、発掘調査や整備を手がけ、浦添考古学の第一人者。

 浦添市那覇市の北に位置し、この20年で人口は1万人程増加し、現在は11万人余り。「浦添」の名の由来は、津々浦々を支配する「浦襲い(うらおそい)」が語源で、これが転じて「浦添」があてられたという。
 
 
 14世紀までは、琉球は「北山」「中山」「南山」3つの小国で勢力抗争をしていた。最も有力な勢力が浦添グスクに拠点を置く中山で開祖である舜天(しゅんてん)で、後に英祖・察度(さっと)が王位をつぐ。中国との朝貢貿易を始めたのが察度王の頃で、現在の浦添市の牧港が中心だった。


 仁王さんの発掘調査では、長さ40cm・重さ5㎏もある高麗系瓦(“高麗の瓦職人が造った”との文字が刻まれた瓦)が沢山発見された他、中国の大量の陶磁器・日本の鎧なども発掘され「中山」 の海外交易の証となっている。
 
15世紀に入ると三山が統一され、都を浦添から首里に移した事から交易の港も浦添から那覇に移る。

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浦添グスク・ようどれ館内」提供 浦添市文化振興課 
浦添グスク・ようどれ館」では原寸大レプリカで英祖王の墓の内部を見ることができ、発掘された瓦などの品々が展示されている。

ようどれの語源は「ゆうなぎ」の言葉からきており、夕凪の静かな様子から王様が眠る所という意味で使われるようになったと考えられており、浦添出身の尚寧王が改修し自らも葬られている。
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提供 浦添市文化振興課

 NHKの歴史番組で、中城グスクで1458年三眼銃(火器)で発砲した弾痕の跡を紹介していた。

 種子島に鉄砲が伝来したのは1543年 だが、それ以前に琉球では、既に火器が使われていたのを知り、仁王さんの朝貢貿易の話が具体的に分かった。

 次は、那覇市歴史博物館の学芸員・外間政明さんに首里城琉球王朝があった時代を話をお願いした。    
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出典 那覇市歴史博物館

 沖縄のグスク(城)の特色は、サンゴ礁石灰岩で石垣や門が造られており、中国など大陸の影響をうけ、有名な守礼門などにその様式がみられる。
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戦前の守礼門 提供 那覇市
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2015.2
 首里城自体は日本様式の木造建築であるが、正殿の装飾など日本・中国の影響を受けつつ、琉球独自に昇華したものになっている。
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 (出典  沖縄県立図書館蔵像)
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米軍空撮写真 昭和20(1945)年4月2日(出典 沖縄県立図書館像)
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提供 那覇市

 琉球が、王国として独自の貿易ができたのは1609年の薩摩藩侵攻までで、以後は、中国のみの交易が許されていた。
 
 昆布を中心にアワビ・フカヒレ等の俵物による輸出で、中国、琉球、薩摩の中継貿易がさかんに行われ、中国福建省からは、生糸・反物・漢方薬の麝香などを仕入れていたが当初は銀で決済していた。

 蝦夷地から薩摩に、富山の売薬商人(薩摩組)や、薩摩藩の廻船によって運ばれて来た昆布は、琉球の昆布座に集積され、さらに中国に運ばれた。

 薩摩の御用商人が昆布を一括して琉球の昆布座に運び、その隣にあった薩摩藩の在番奉行所で薩摩の役人が取り締まりをしていた。

 昆布は、市中にも出回り食生活に影響をあたえ、豚肉とともに琉球料理には欠かせない食品になり日本遺産のストーリーになった
 富山と並び国内有数の昆布の消費地だが、沖縄には何故か昆布を使った出汁文化はなかったという。
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  琉球染織 (出典 沖縄県立図書館蔵)
 浦添グスクと首里城は、沖縄県で初めて認定された日本遺産の構成文化財である。
 そのストーリーは、『琉球王国時代から連綿と続く沖縄の伝統的な「琉球料理」と「泡盛」そして「芸能」』。

 中国使節団から伝わった独自の文化である舞踊・三線・陶芸・漆器・織物等も日本遺産の構成文化財

 那覇市歴史博物館では、本土復帰50年記念の企画展の計画がある。


兵庫県たつの市の「室津海駅館」(北前船の日本遺産構成文化財)に、琉球使節団が薩摩藩と立ち寄った時の絵巻が展示されている。 f:id:chopini:20220126061339p:plain
室津海駅館にある絵巻

 折しも、琉球使節団の「江戸上り」について志學館大学の原口泉教授が2022年1月18日の朝日新聞(鹿児島版)に寄稿された「琉球王国のシンボル 首里城の再建 平和の礎」のなかで紹介されていたのでその一部を先生の承諾を得て掲載する。

『江戸時代、日中両属を余儀なくされた琉球王国は、定期的に中国皇帝と徳川将軍に使節を派遣した。18回に及ぶ「江戸上り」は琉球王子が正使を務め、花尾神社(祭神は源頼朝と島津初代忠久の母丹後の局)と日光東照宮(祭神は徳川家康)へも参拝した。鹿児島と中国福州には、琉球館という王国の出先機関があつた。天保年間、鹿児島城下絵図には錦江湾に浮かぶ琉球櫂船と琉球館が描かれていた。(中略)

 首里城には、大国の心がある。その心とは「守礼之邦」の平和外交の伝統である。1458年、尚泰久王は「万国津梁」の鐘を正殿に掲げ、王国の繁栄をうたった。首里城が再建され、沖縄が東アジアの礎となることを期待したい』
 と締めくくられていた。
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出典 沖縄県立図書館

 尚、原口泉教授には酒田市沖の飛島の客船帳(佐倉市国立民俗歴史博物館蔵)を閲覧出来た日、薩摩の濱崎新十郎は琉球箱館等に支店をもち廻船業を営なみ薩摩藩に貢献した濱崎太平次の一族だと教えて頂いていた。

「北前船寄港地・船主集落の旅」 第13回 南越前町

第13回 南越前町

  2017年北前船寄港地・船主集落として日本遺産に認定された南越前町から右近家に関わる3人のゲストを紹介する。

 一人目は、南越前町の斡旋で「河野北前船主通り案内の会」会長・千馬仁視さんのインタビューからです。
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 (写真 南越前町提供) 

 南越前町は、福井県のほぼ中央、越前海岸の南に位置し、海の「河野地区」、山の「今庄地区」、里の「南条地区」の山・海・里(さんかいり)と、それぞれ異なる自然、歴史、文化に特徴がある。
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(写真 南越前町提供) 
 このうち「河野地区」の北前船主通り200mほどに、右近家、中村家の2つの屋敷が建ち並ぶ。「北前船主の館・右近家」、国指定重要文化財の「中村家住宅」、いずれも日本遺産構成文化財である。右近家と中村家は支え合い姻戚関係で、中村家は幕末、沿岸警備の際、松平春嶽が宿泊し、扁額が残されるなど多くの記録が残る。

 「北前船主の館・右近家」は、明治期に建てられた本宅や蔵で、右近家12代当主が、本宅等の廻船経営に関わる資料の展示を目的に、平成2年に一般公開した。
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常設展示より (写真 南越前町提供) 
 
右近家の成り立ちは、340年程前の江戸初期にさかのぼる。右近家の菩提寺「金相寺」3代目の次男が分家するに際し、田畑山林とともに船1隻を与えられ、初代右近権左衛門を名乗ったことに始まる。家督を相続すると代々権左衛門を11代目まで名乗り、現在は13代目だという。

 右近家9代目権左衛門は次々と廻船を増やし北前船で飛躍する。
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  (写真 南越前町提供) 
この蔵の提示物にある船絵馬には、右近家の持ち船「仁恵丸」が住吉神社船霊の2つの神様が浮いているように描かれ、全国でも珍しい。
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 (写真 南越前町提供) 
  
 現在の建物は10代目右近権左衛門の代、明治34年に建築された。
 この背後の高台に、昭和10年(1935)に別荘として建てられた洋風の「西洋館」(日本遺産構成文化財)は、鉄筋コンクリート2階建(登録有形文化財)で、1階がスペイン風、2階がスイスのシャレー式建築で、「一度は訪ねてみたい洋館」に選出されている。
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(写真 南越前町提供) 

 この西洋館は11代目権左衛門が、昭和恐慌のあおりを受け困窮する村人達の雇用を考え、造ったことから「お助け普請の館」と言われ、これは河野の誇りだと千馬さんは語る。

 明治に入り時代の変遷を察し、大型蒸気船から明治29年日本海上保険を設立する。その後、11代目が昭和19年日本火災と合併するなど近代化の波に対応し、廻船経営から転換し、右近家は難局を乗りきっている。
 
 右近家は、芦屋の川沿いに住居を移したが、現在はこの敷地跡に30-40軒の家が建っていると、このブログ読者の方が教えてくれた。
   
 姫路市の日本遺産構成文化財に、右近権左衛門らが寄進した「牛の石像」を以前紹介したが、千馬さんに他の地域についてたずねると、香川県金毘羅神社で非公開の右近家の絵馬を拝観したとうかがった。 
 

 2人目は、右近家の菩提寺金相寺で生まれ育った書道家・右近桜月さん。
 雅号「桜月」(おうげつ)の由来は、桜の品種「鬱金桜」からきており、右近さんの書道の師匠が雅号を考えられた。f:id:chopini:20211227162217p:plain
 右近家住宅を背景に桜月さんが筆文字を提供したポスター
 (写真提供 右近桜月さん)

 「命を吹き込む書道家」として人々にとって書を身近に感じてほしいと、魂を込め作品を制作している。

 住職であった祖父の膝の上で3歳頃には鉛筆で名前を漢字で書くなど書に親しみ、4歳より筆を持ち習字教室に通い書の素晴らしさに魅了されたという。
 
 地元福井県の1500年の歴史と伝統を誇る越前和紙の魅力を書を通して発信し、作品の全てに手漉きの越前和紙を使用している。 
 デジタルの活字に溢れる現代だからこそ、手から生まれるぬくもりを伝えたいという信念を持っている。
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桜月さん書による福井国体限定の日本酒ラベル(写真提供 右近桜月さん)
 
 小樽の北前船シンポジウムに明楽さんと参加した桜月さんは、沢山の人が来られていたのに、若い年代の人がいなかった事にふれ、アニメ等で若者に広め繋ぐ構想を話していた。  
 
 「右近桜月」で検索するとブログがあり右近家の歴史を沢山の写真入りで見る事ができる。

 3人目は、現在福井市でカメイ珈琲店を経営している竹森政人さん。

 竹森さんは学生時代、ウガンダ共和国コーヒーの生育過程、生産過程を目の当たりし、コーヒーにたずさわるようになったという。

 その後、日本スペシャリティー協会のコーヒーマイスターを取得している。
 竹森さんの母方の先祖は右近家の船頭で、その名字がカメイだった事から「カメイ珈琲」の名前にしたという。
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 カメイ家の大叔母は、小説『海萌ゆる』で三浦綾子文学賞にノミネートされ、最後迄その候補に残った。竹森さんから頂いたこの書には、北前船の船頭の流転の人生が描かれていた。
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2018.7 北前船寄港地フォーラム(坂井市)撮影者 筆者

 竹森さんは、2018年7月坂井市北前船寄港地フォーラム会場のブースで、「北前珈琲」を販売していた。
また「北前船主の館 右近家」の西洋館のしゃれた雰囲気の一角で、「北前珈琲」の名で、1日限定10杯 販売したことがあった。

 竹森さんが企画した「北前珈琲」は、コーヒー糖を運んだ右近家文書が発見されてから。

 2016年5月4日、日刊県民福井新聞で以下のように紹介されている。

 『南越前町の図書館に保管される右近家文書21,000点の文書の中に、右近家所有船の一つ永宝丸の仕入れ記録にコーヒー糖があり、「買仕切」と「売仕切」の記録を、右近恵氏が発見している。「コーヒー糖はどんなものか分からないが、船頭は北海道の得意先へのお土産として買い取ったのではないか」と右近氏はコメントを寄せている。これは明治時代のことである。
 この新聞記事をブログで紹介するにあたり、河野北前船研究会会長でもある右近恵氏の貴重なお話をする機会を得とても参考になった。
 
 右近家のコーヒーの話から、コーヒーはいつ頃から飲んでいたのか関心をもつようになった。
 そんなある日、江戸時代から飲まれていた事が、2018年8月13日朝日新聞(東京版)夕刊一面トップに「江戸の香り コーヒー再現」のタイトルの記事があつた。

 それは、北海道最北の稚内にコーヒー豆の石碑がある話から、江戸期のコーヒー事情について掲載されたものだった。

 江戸後期、南下するロシアに対する危機感から幕府は、弘前藩などから蝦夷地警備に派遣していた。当時は「コーヒーが寒気をふせぎ、隠邪を払う」といわれ派遣された武士などに配られていた。薬のように飲まれたその記録が『蝦夷地御用留 第二 』にある。鎖国下、長崎の出島から「コーヒー」が津軽まで運ばれていた。・・・以下略』

 当時、日本海を航行していた北前船に積み運ばれていたことが推測できる。
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 津軽藩兵詰合の記念碑 (幅1.7m、高さ1.4m、台座を含め幅6m、高さ1.5m)
稚内市教育委員会提供)

 稚内市学芸員斉藤 譲一さんに尋ねたところ、これを建立したのは弘前市コーヒー店を経営されている方だと写真も送っていただいた。

『名城巡りと北前船の旅』第62回岡山城(日生・牛窓)

第62回岡山城(日生・牛窓

はじめに、岡山市産業観光局 観光振興課 岡山城学芸員 小野田伸さんにFM番組のインタビューを紹介する。

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 岡山市観光連盟 提供

 岡山城日本100名城)は、秀吉の指導を受け宇喜多秀家が慶長2年(1597)に完成する。3年後、関ヶ原の戦いで西軍の宇喜多秀家軍は壊滅、小早川秀秋がその後を継ぐが2年足らずで病死し、池田氏に替わり幕末まで続いた。
 シンボルの「黒い天守」は第二次大戦で焼失したが、昭和41年に再建された。耐震工事が終わる2022年11月、郷里出身の歴史学者 磯田道史氏監修でリニューアルオープンする。

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  岡山後楽園提供

 岡山城の直下を流れる旭川の北側に、藩主が憩いと趣を楽しむ大名庭園として造られた後楽園は、水戸偕楽園・金沢兼六園と並び日本3庭園の一つ。水戸偕楽園水戸藩の江戸上屋敷の庭園の小石川後楽園と同じく中国の古典から命名された。 

幕末の藩主「池田茂政」は水戸藩主「徳川斉昭」の九男で、最後の将軍「徳川慶喜」の弟だった。

備前市の「閑谷学校」は岡山藩が庶民のために造った学校で、水戸藩の藩校「弘道館」等と共に日本遺産に認定されている。

 

閑谷学校
(小豆島の南堀英ニさんと2018.2)

 岡山藩は沿岸の埋め立てを加速させ、島だった児島と陸続きとなる。干拓地では綿、塩などが生産され、内陸からは紙、木材、年貢の米など特産品が舟で運ばれた。砂鉄は「まかねふく」の枕詞としてもちいられるほどの歴史があり、瀬戸内市備前長船が知られている。

 備前焼は茶陶器、置物、生活道具として普及したが、岡山藩が保護統制したため自由には各地には運ばれなかった。(備前市の日本遺産)

岡山藩が力をいれた湊に、下津井湊(現倉敷市)、日比湊(現玉野市)、牛窓湊(現瀬戸内市)、日生沖の大多府島(現備前市)、西大寺湊(現岡山市)がある。

次に備前市日生町 加子浦歴史文化館・学芸員 西崎美香さんの話を紹介する。

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 加子浦歴史文化館 (岡山市観光連盟提供)

 赤穂線日生駅前に小豆島へ発着する中日生港があるが、加子浦歴史文化館は日生諸島への定期船の発着所である日生港に近い。

 この館の「加浦」の名は江戸中期の参勤交代の諸大名に、水や薪を供給等・水主役の労役が課された日生の歴史に由来しており、西崎さんはこれを紐解いている。

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  (備前観光協会提供 提供)

 元禄10年(1697)、薩摩の島津公が参勤の航海中、暴風雨にあい大多府島に無事避難する。島津公は、「この島を譲ってほしい」と岡山藩主池田綱政に申し出たが、聞き入れられなかった。藩主綱政は東端にある大多府島の存在すら知らなかったが、この話から藩はすぐに大多府島整備に着手。

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 元禄防波堤 (岡山市観光連盟提供)

閑谷学校建設に関わった津田永忠の指揮のもと、翌元禄11年防波堤を完成させた。 300 年以上経過した今も残る「元禄防波堤」で、2段に石を組んだ直立式石積の構造である。

 この開港で、島に加子番所を置き移民を奨励し、幕府の用船、諸藩の航海の便に備える島になった。こうして、日生沖は岡山藩の公用船に対する水夫(かこ)労役奉仕の義務を課され、「加子浦」とよばれるようになった。


 やがて日生を拠点に廻船業を営み一代で巨万の富を築いた伝説がある、姓は末友、屋号田渕屋の話になる。

48隻の千石船を所有し、蝦夷地から九州やルソンまで活躍し交易を繰り広げた伝説は、岡山藩の公式文書に残っていない。これは密貿易をしていた為、藩の記録に残すことが出来なかったと考えられている。

 しかし昭和26年偶然、日生町西念寺の裏山で埋もれていた石碑が発見された。それが廻船で活躍していた田渕屋甚九郎を顕彰したもので、勘九郎の実在を証明する資料となる。

 勘九郎西念寺の本堂及び鐘楼、山門、庫裡修築を始め、地域の神社などを修復している。この碑文には赤穂市の浄念寺の記述があり、浄念寺の住職は勘九郎が残した文があると話している。

牛窓については牛窓神社宮司 ・岡崎義弘さんの話を紹介する。


 岡崎宮司は、牛窓の名の由来を『備前国風土記逸文』にある神功皇后から紐解き、古来より多くの船が立ち寄っている。

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 牛窓神社(2017.6)

 江戸期に入ると参勤交代・朝鮮通信使・廻船で賑わった他、
古くから木造船の技術があり、小さな漁船から千石船まで建造し多くの船大工が見習いに来ている。この技術は、牛窓の祭りで、船の形のダンジリに生かされている。

 

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牛窓海遊文化館で(2017.6)

筆者の牛窓の縁は、北海道余市の福原漁場に展示の坂越湊と牛窓湊の絵の写真を頂いたのがきっかけである。
牛窓の絵の場所を解明する為、岡山市の清須浩光さん、高祖良子さんと探し、牛窓の廻船についても調べたのは2017年だった。f:id:chopini:20211122171215j:plain

 牛窓神社の玉垣(2017.6)
この玉垣にある「中屋傳四郎」は、高祖さんの先祖の屋号で赤穂の塩田の地主でもあった。

 牛窓は1445年の「兵庫北関入船納帳」に、牛窓船133隻が入港するなどもっとも多く、その後の『備陽記』(1721年)でも、牛窓の廻船の活躍が掲載されていた。
 
しかし、『牛窓町史』(資料編2)では、牛窓1810年、船の小型化が目立ち、大型廻船が激減したとあった。瀬戸内市民図書館・館長学芸員・村上 岳 氏は、「牛窓の隣の尻海に大型船が集約され、牛窓湊は小型化し近海で生き残りをはかった」と話していた。浜田市の「諸国御客船帳」からも、隣の尻海が主流になっていたのがわかった。

最後に、山陽新聞社(岡山本社)相談役・越宗孝昌氏は、
2017年7月「第20回北前船寄港地フォーラムinおかやま」のシンポジウムが瀬戸内市牛窓で開かれ、後夜祭でもフォーラム実行委員長としてここでも開会の挨拶をされた。
 越宗さんは、大連と地元岡山との交流、北前船寄港地フォーラムが開催が役割されてきた意義を話す中で、これまで知らなかった地域と広がりについて語っている。この岡山市のフォーラム開催は、岡山市玉野市倉敷市瀬戸内市の4都市の共同開催だった。


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 岡山市にはあまり話題にならない西大寺湊(旧西大寺市)があり、津山城市下の吉井川の高瀬舟の終着の港である。津山には高瀬舟の発着跡がある。いずれ津山城下から調べてみたいと考えている。

 

「北前船寄港地・船主集落の旅」第13回 酒田市・鶴岡市

第13回 酒田市鶴岡市

庄内酒田古文書館館長で地域史研究者 ・杉原丈夫さんのインタビューから紹介する。

 

杉原さんの近著『北前船と酒田』『絵図面の世界』の紹介と、酒田と薩摩の繫がりを本間郡兵衛と西郷隆盛の関係から話して頂いた。

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北前船と酒田』は、2013年に発見された「宮野浦阿部家の客船帳7冊」で寛政3年(1791)から明治29年(1896)までの酒田港に入船の記録を杉原さんが翻刻したもの。西廻り・東廻り・南海路、そして薩摩など九州の船が酒田港に寄港した記録である。

巻頭言には、鹿児島市志學館大学・原口泉教授が寄せられている。

酒田市丸山至市長が発刊に寄せての言葉、そして赤穂塩をFM番組で紹介した千原義春さん、このブログ筆者の私も祝辞を寄した。

 

 酒田港には瀬戸内海の塩や全国から特産品が運ばれ、上り船では最上川の水運で周辺の紅花や米等が酒田港に集積し北前船で運ばれていた。酒田港は西風が強く入港が難しく、蝦夷地に行くには酒田沖の飛島に寄港することが多いかったという。

そんなことから、飛島の鈴木家の客船帳には大量の記録が残っている。

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この客船帳が千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館に保管されており、2020年11月、私も閲覧したが杉原さんは70冊全を撮影していた。

 酒田の客船帳にはない高田屋嘉兵衛・薩摩の豪商濱崎家の記録がここにはあり、蝦夷地に向かう際、寄港していたことがわかる。この他、赤穂の塩田王・田淵家の記載もあった。

 飛島の客船帳は、富山市日本海文化研究所発行の『酒田市飛島・津国屋「御客船帳控」』と、長井政太郎氏の『飛島誌』がある。『飛島誌』は鈴木家の客船帳の集計のみなので、この客船帳も翻刻に期待が集まっている。

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『絵図面の世界』は、杉原さんが古書店で原画を購入し復刻したもので、天保年間の庄内藩の絵図など3部構成で、北前船研究にとっても貴重である。

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『絵図面の世界』(出典 秋田領国図)

私のブログ『北前船寄港地・船主集落の旅』第5回「 にかほ市能代市秋田県)」で、この絵図面を使い地名の由来の説明した。

 能代では1694年と1704年の2度の大地震で「野代」は壊滅的打撃を受けた。「野」は焼け野原の印象が強く、縁起が悪いと「能代」に地名変更の願いを出た記録があることからこの地図の時期がわかる。

また1689年、芭蕉が象潟に来た当時は西の松島といわれ、絵図でも潟が確認できる。1804年鳥海山噴火で潟が隆起し現在の姿になった事からこの地図の年代がわかる。

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杉原さん提供

北前船と酒田』には、本間郡兵衛のことも書かれている。

杉原さんは、本間郡兵衛研究会の会長で酒田と薩摩の関係を、本間郡兵衛、西郷隆盛から話していていた。 

 本間家に生まれた郡兵衛は、長崎で洋学の知識を得、英語が堪能だったことから、薩摩が必要とした人物だった。

 郡兵衛は小松帯刀に多くの上書し「薩州商社草案」もその一つで、日本で一番早く株式会社を考え提案していた史料。しかし、庄内藩から薩摩のスパイと疑われ、明治の改元される直前に何者かに毒殺された。

 庄内藩西郷隆盛とのつながりがあったことから、幕府側だったが軽い処分で終わった。このことから庄内では南洲語録「南洲翁遺訓」を自費出版し、全国に配布していた。

 杉原さんは、現在母校山形大学庄内地域文化研究所の研究員として「即身仏」の研究もされている。「即身仏」とは僧侶のミイラのことで、江戸後期の「鉄門海上人」は、湯殿山で修行をくり返し「即身仏」をめざした。

 杉原さんとは2016年9月酒田市資料館で、このブログ著者の私は初めて会い、2020年2月鹿児島の北前船寄港地フォーラムで再会した。f:id:chopini:20211109093049p:plain

 杉原さん提供

このフォーラムで、丸山至酒田市長が杉原さん作成の「酒田港北前船地図」と酒田の史料と私の企画制作した『酒田から全国帆船リスト』が、森博幸鹿児島市長に渡された。

コーディネーターを務められた原口泉志學館大学教授は、鹿児島もいよいよ北前船の仲間入りが出来たと話されていた。

 

 次に鶴岡市役所観光物産課 五十嵐崇さんに、「第27回北前船寄港地フォーラムin庄内山形」と鶴岡市の日本遺産の話をしていただいた。

 フォーラムは、酒田で第4回中日文化観光大連交流大会に続き、翌9月12日鶴岡市文化会館で開催し、翌日のエクスカッションは、酒田コースと、鶴岡コースがあると紹介。

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 鶴岡市は、山(出羽三山)、里(サムライシルク)海(北前船寄港地)の3つの日本遺産があり、北前船の構成文化財は以下のものと紹介している。

加茂港周辺の町並み
石名坂家住宅主屋・蔵(国登録、北前船船主の家屋及び蔵)
浄禅寺の釣鐘
善寳寺五百羅漢堂(国登録で531体の仏像も寄進で作られている)
致道博物館所蔵の北前船関連資料群(船模型、船絵馬、四爪錨、出船手形、船鑑札)
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浄禅寺の釣鐘(にかほ市の茂木仁さん提供)

 浄禅寺の釣鐘は、1790年に坂越(赤穂市)から運ばれたものだが地元坂越では知る人もなく、北前船の日本遺産が各地の歴史を発掘しつないだ一つ例である。

ブログ著者私は、鶴岡のエㇰスカーションに参加した。

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左が大貫さん(庄内刺し子を宣伝の為に着用している)


ギネス世界記録に認定されたことがある世界一の“クラゲ水族館”加茂水族館では、クラゲを見ながら専門家の解説があり興味深かった。また庄内藩主は釣り好きで、藩主の長い釣り竿が展示されていた。

 藤沢周平はこれを「海坂藩」小説で描いていたのを思い出し杉原さんに聞いた。

 出羽三山の国宝羽黒山五重塔のガイドは山伏姿で、一緒に回った山形市の大貫和春さんは、ここまで詳しく親切なガイドに出会ったことがないと話していた。

『名城巡りと北前船の旅』第41山形城のブログは大貫さんが語ったものだ。

 この放送から半年後、鹿児島のフォーラムのレセプションで五十嵐崇さんに会った。

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筆者 杉原丈夫さん 五十嵐崇さん(2020.02 鹿児島のフォーラムで)

『名城巡りと北前船の旅』第61回松坂城

北海道の名付け親「松浦武四郎」と、松坂城下の白子港の船頭の「大黒屋光太夫」の話です。
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まず三重県松阪市松浦武四郎記念館・学芸員 山本命さんの 松坂城(日本百名城)と「松浦武四郎」の話からです。

 松坂城蒲生氏郷が築城し(1588)城下を整備と、伊勢への参拝客が城下を通るよう街道のルートを変え、多くの人を呼び込んだ。楽市・楽座を進め、「豪商のまち」としての礎を築いき、縦縞が印象的な松阪の木綿を商いで発展させた豪商三井高利の他・本居宣長松浦武四郎の生誕地であった。

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2018.9 松坂城
蒲生氏郷は僅か2年で会津城主に栄進し、4代目藩主古田重治は1619年浜田藩主となり、松坂城下は紀州藩支藩になった。
 浜田藩第12代藩主・松平康定公が、本居宣長の「源氏物語」を聴講した返礼に贈った駅鈴が松阪のシンボルとして受け継がれ、2016年には「駅鈴で結ぶ松阪市浜田市観光・文化交流協定」が締結され、松阪には 駅鈴をかたどったもなか「鈴最中がある。
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松阪市三雲町の武四郎の生家
(津市在住の久保田としひろさん提供)
 松浦武四郎は17才から26才まで旅をしその間、家に帰らず沖縄と隠岐以外は全国を歩き生涯にわたり探検をしている。
長崎でロシアが蝦夷地を狙っている危機を知り、28才で蝦夷地に渡り、41才まで6回にわたり蝦夷の調査を行っている。
 アイヌの人々の協力で、6回の調査は樺太も含め1万キロメートルに及び、151冊の探検記録、9800におよぶアイヌ語の地名が書かれた地図がある。それには北方四島も描かれている。
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 2018.9 松坂市役所前
2018年の「松浦武四郎 生誕200年記念」の年に、北海道では北海道命名150年記念事業があり、武四郎はキーパーソンに選ばれた。
 北海道各地には、松浦武四郎の記念碑が60基近く建てられ、1500点余りの重要文化財の中には、幕末にアイヌ民族の女性から武四郎にプレゼントされた民族衣装もこの館あるという。
 山本さんは20年この館の学芸員を務め、松阪市・東京・北海道でも講演し、テレビでも武四郎を紹介している。
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山本命さん著『松浦武四郎 入門』は、本居宣長の書籍は多岐にわたるが、松浦武四郎はわかりやすい本がないことから、子孫の方からの、わかりやすい入門書を望む話から出来たという。
 松浦武四郎記念館は平成6年に開館し、現在リニューアル工事中で、令和4年4月下旬のオープンでは、松浦家から寄贈された貴重な資料を展示するほか、幕末の日本の歴史と共に武四郎の生涯の姿を紹介する予定である
武四郎から学ぶこととして、様々な価値観を受け入れ、偏見を持つことなく自分の目で大切だとインタビューを締めくくっている。

 
 続いて鈴鹿市文化スポーツ部文化財学芸員・代田美里さんに大黒屋光太夫の話をしていただいた。
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 紀州藩松坂城下の白子には、代官所が置かれ白子港から紀州藩の米を江戸に運び、輸送にあたる船には「紀」の字の印を掲かげることが義務づけられていた。「竹口家文書」の史料は、『鈴鹿市史』第五巻の「回船関係文書」にあり松坂木綿も運ばれ江戸との関わりは深かった。

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鈴鹿市若松の白子の浜にある井上靖氏が書いた光太夫の記念碑
(情報と写真は津市在住の久保田としひろさん提供)

 白子で船頭をしていた大黒屋光太夫の話になる。天明2年(1782)白子港から紀州藩の囲米を積み、17名を乗せた神昌丸は、江戸に向けて出航したが、暴風雨に巻き込まれカムチャッカのアムチトカ島へ流される。
 厳寒の過酷な中で生存者は6人となり、船を建造しシベリアを横断しイルクーツク到着時の寛政元年(1789)には、仲間は3人になる。
 光太夫は、現地の人と温かい交流でロシア語を覚え、ロシアから助成金をもらい生活していた。
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出典 国立公文書館デジタルアーカイブ
イルクーツクにはこの100年程前から日本語学校があり、光太夫日本語学校の講師を勧められるが帰国の願いが強く断った為、ロシア政府から助成金をもらえなくなる。
探検家キリル・ラクスマンフィンランド人)の援助で、当時の首都・サンクトペテルブルクへ行き、ロシア皇帝エカテェリーナ2世に帰国願いの許しを得ている。
寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われて根室へ上陸、ひと冬を過ごし、松前経由で江戸に送られる。
10年ぶりに日本へ帰国した光太夫の体験、情報をもとに『北槎聞略』が書かれ全国で読まれた。当時のロシア研究の最高峰で国の重要文化財になっている。
当時日本では知られていなかったオーストラリアの地図、スケート、紅茶を持ち帰り、ピアノの紹介もしている。
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鈴鹿はサーキットの他、華やかな春の祭りは歴史があり地域の誇りで、匠の里、ものづくりの里でもある。
伊勢型紙は鈴鹿市の白子地区を中心に生産されていたが、現在でも、型紙の99パーセントがこの白子地区で作られている。伊勢参りが盛んだったことから街道や宿場に関する資料も多く、東海道五十三次の45番目の庄野宿については、庄野宿資料館に宿場関係資料がある。

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代田さんが中心に開催している企画展

  これは3から4枚の和紙を柿渋で貼り合せ防水加工した「型地紙」に、専用の彫刻刀で様々な文様を彫り抜いて作り、江戸小紋や型友禅、印伝、茶碗などの染色用の型等に使われ、行商人が陸路で運んでいたという。

「北前船寄港地・船主集落の旅」第12回志賀町・泉佐野市

2020年6月石川県から白山市志賀町大阪府から泉佐野市の3市町が「北前船寄港地・船主集落」で日本遺産に追加認定された。今回は志賀町泉佐野市の話である。
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 まず泉佐野文化財保護課・中岡勝課長の話からです。


泉佐野市は「平地」「山」「関空のある海」のそれぞれのストーリーで、追加認定された。
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(写真は泉佐野観光協会提供)

2020年には「北前船寄港地・船主集落」(海)「修験道はじまりの地」(山)の2つが認定された。
北前船寄港地・船主集落」では、中世から豪商だった食野家と唐金家の本拠地で、80艘の千石船を持ち、両家は姻戚関係で結ばれ、同時期に全国市場に乗り出していた。
井原西鶴の『日本永大蔵』(1688年)や、古典落語にもでてきてくるという。『日本永代蔵』には、神通丸という3700石積みの当時としては日本一の大型船を所有していたとある。
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京都大学デジタルアーカイブ

今も食野家などの廻船問屋の蔵が残され、屋敷跡は第一小学校になっている。
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泉佐野ふるさと町屋館(いろは蔵 食野家跡)泉佐野観光協会提供
 佐野浦(佐野町場)は和泉国で最も栄えた港で、日本海側や北海道方面へは多数の北前船が、江戸方面へは樽廻船、菱垣廻船で交易し栄えた港だった。
 
 漁業でも対馬まで進出し、佐野浦は、城下町、門前町ではなく自然に出来た町で、道幅が狭く入り組み、天然の迷宮都市とあだ名がついているほどだ。
佐野浦は綿の産地でもあり、綿花を育てるための大量の鰊カスを北海道から北前船で運ばれていた歴史がありその足跡が酒田の客船帳に記されていた。
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出典  『北前船寄港地 酒田から全国帆船リスト』

綿織物が発展し、明治に入り泉州タオルの生産を手掛け、日本のタオルの発祥の地となる。
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この地域は昔の職業のままの面白い名字の方が多く、昔の繁栄が色濃く残されている。


 


もう一つ「修験道のはじまりの地」は、和歌山~大阪~奈良の境に聳える「葛城山」と呼ばれる19の峰々は延べ112㎞に及ぶ。
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葛城修験は、七宝瀧寺を中心に今も地域の人々により大切に守り伝えられ、世界遺産の吉野・大峯と並ぶ「修験の二大聖地」で、修験者たちの聖地として、塚、縁の寺社、滝、巨石が残され、誰でも巡ることが出来る。

あと一つは、2019年に認定された「中世日根荘の風景」。

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泉佐野は、鎌倉時代天皇家に仕えた貴族、九条家が荘園として治めており、当時の荘園の風景がそのまま現代に受け継がれている。
 これが書かれた「九条家文書」が宮内庁で発見され、九条政基の日記5冊「旅引付」と、2枚の「絵図」から当時のことが実証された。「歴史館いずみさの」にその写しがあり、この文書の一部は、国会図書館で閲覧できる。

次に、令和2年6月日本遺産の追加認定に関わった志賀町教育委員会・松田睦夫主幹のお話です。
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 志賀町能登半島輪島市の南、七尾市の西に位置し、海の交通に関係する歴史が残り、古くは渤海国との交流があったという。
福浦港は旧富来町にあり、平成17年に志賀町と合併している。

7つの日本遺産構成文化財を、志賀町教育委員会提供写真で紹介する。
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福浦港の日和山台地に位置し日和山に立つと、日本海が一望できる
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旧福浦灯台は、1608年、日和山に篝火を焚き夜の海を航行する船を護ったことに始まる。現存する木造洋式灯台は我が国では最古といわれ、1879年の形状をそのまま復興建造されたものである。
 

2つ目は北前船関係資料群で、この中に『佐渡屋諸国客船帳』がある。これは享保年間 (1729年)から大正末期(1923年)まで約200年間に及ぶ43ヶ国1864隻分の入船記録である。志賀町史続資料編に記載されているので、確認できる。
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佐渡屋」は福浦港の日和山の崖下で廻船業も営み、佐渡出身であることから佐渡屋を名乗った。その入船記録には、佐渡が最も多い。

 3つ目の構成文化財「めぐり」は、岩をえぐり貫いて穴を開け、その穴に綱を通して船を繋いだ施設である。f:id:chopini:20211007154806p:plain
福浦港周辺には約30ケ所も残されており、これだけの数があるのはめずらしく、全国で福浦港が一番多い。また、“めぐり銭”と称して船の停泊料を徴収している。これに似たものが新温泉町にもある。
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 絵馬群のひとつ

4つ目は、奉納された絵馬群で、松田さんは奉納されている絵馬の展示企画展を開いている。「よほどの嵐だったのか難破船が描かれているのは珍しい」と中日新聞のインタビューに答えている。

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5つ目は、志賀町の「福浦祭り」が認定されている。寄港地の日本遺産構成文化財に祭りは多い。
祭りは、猿田彦神社の神輿を船に乗せ、海上渡御を行う船を決める「神籤の儀」が行われる。宵祭り、本祭り、裏祭りが3日間にわたって行われる。
この他、「日和山」「方角石」の2つも認定されている。

志賀町にはこの他、平成27年珠洲市七尾市能登町等シリアル型で日本遺産に認定された「能登のキリコ祭り」がある。
 
この村((安部屋村)から利尻島礼文島等多くの人が北海道に移住し、歴史に残る人物として村山伝兵衛が知られている。
初代村山伝兵衛(1683~1757年)は、松前藩の船頭の娘婿として18歳で松前に移住し、廻船業を営んでいる。

 増毛町のホームページには、「宝暦元年(1751)に松前の商人・村山伝兵衛が、函館奉行所より増毛で場所請けを負い、出張番屋を設け、交易を始めて以降、増毛の地に和人が定着を始めていた。伝兵衛は宗谷・苫前・留萌・石狩など藩主直領の場所経営も任せられ、アイヌに漁法を指導している」と書かれている。

『名城巡りと北前船の旅』第60回宇和島城・松山城

『名城と北前船を巡る旅』第60回宇和島城松山城

愛媛県歴史文化博物館学芸課長・ 井上 淳さんは、宇和島城松山城の城郭研究等近世史が専門で、それぞれの城下の廻船について話していただいた。
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白地図使用

 関ケ原の戦いの後、藤堂高虎宇和島城日本100名城)を築城した。その後、高虎は今治に入り今治城も築城する。
 2代目城主、伊達秀宗伊達政宗の長男)が1614年に入城し伊達家が幕末まで在封した。
 宇和島藩の年貢積み出港は、川之石浦港(現八幡浜市)と、その枝浦である雨井浦があり、川之石浦港については宇和島藩『大成郡録』に詳しい記録がある。
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 宇和島城下(出典 愛媛県立博物館デジタルアーカイブ

雨井浦の廻船問屋「布袋屋一族」について、赤穂市坂越の奥藤家の『下筋御客帳』と、竹原市安芸忠海の「浜胡屋」と「江戸屋」の『御客帳』の3つがある。

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宇和島城下の港(出典 愛媛県立博物館デジタルアーカイブ

 奥藤家の『下筋御客帳』は、1833年における取引、塩・木材・木綿等の問屋、仲売り商人、船主、船頭を取り上げたものである。

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下筋御客帳(出典『 坂越廻船と奥藤家』)
「下筋」とあるのは、そのほとんどが坂越より西のもので、その入船記録は909件あり、豊後349件、長門265件、伊予163件で、九州と瀬戸内が全体の78%近くを占める。この他日本海では、加賀・越後の記載がある。

安芸忠海の「浜胡屋」と「江戸屋」の『御客船帳』は、広島県竹原市北前船の日本遺産構成文化財で、それによると浜胡屋は5038艘、「江戸屋」は6693艘で、雨井浦の廻船は84艘とある。

 井上さんは、雨井の「布袋屋一族」の廻船の建造や売却に関わる資料を「布袋屋年代記」と名付け研究されている。
 瀬戸内海では北前船のような長距離をつなぐ交易とは別に、近距離、九州、瀬戸内海の物流を網の目状につなぐ交易は宇和島藩の港が中心だったと語る。

 最近の研究では、1万石の伊予小松藩の役人が安芸の倉橋島(現呉市)に出張して、藩の御座船の建造を管理した際の文書(日記)が読み解かれている。

続いて松山城日本100名城)の話となる。
秀吉に見出された加藤嘉明だったが、関ヶ原では東軍に参戦し家康から1602年伊予半分の20万石に倍増され、松山城の築城を開始。その後、松平定行が1635年入封し幕末まで16代が在封した。

松山の中心部、勝山山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構え、21棟は幕末の嘉永5年(1852)の建築で、三重天守は国指定重要文化財で、現存する全国12天守のうちの一つである。
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松山城下図屏風」
(出典 愛媛県立博物館デジタルアーカイブ
松山城下図屏風」は横幅6メートにもおよび、元禄の終わり頃の松山城下を鳥の目で見たかのように描かれている。武家屋敷・町人町・石手川等、松山の特徴がある。これらの絵図や絵巻130点をデジタル化し、HP上で高精細画像が確認できる。

この屏風から、松山城下の繁栄は瀬戸内海を舞台にした海運による経済発展によるところが大きいと語っている。
平成25年、この屏風の情報が博物館に寄せられたときは、学芸員生活最大の感激だったと井上さんはふりかえる。
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松山城城郭図  左下が三津町の港まで流れている川
(出典 愛媛県立博物館デジタルアーカイブ

松山城から北西約5km離れた三津町の港の話になる。
ここは、加藤嘉明の時代から船奉行が置かれ藩水軍の本拠地だった。
 文久4年(1861)の『諸国入船帳」』(謄写本)は、港湾管理を目的に、町方が船の帆の大きさに応じて銭を徴収するため作成したもの。
年間351艘が入港のうち3月・4月が一番多く40艘近い。松山の南、大洲藩領が45%等ここでも瀬戸内海沿岸、九州が中心だった。
 
松山城下は木綿の産地で伊予絣(日本3大かすりの一つ)の生産地だったことから、「古手仕入れ」「縞仕入れ」のための積み荷の他、生魚、海産物、米雑穀、建築用材など多くは、運搬用に整備された三津街道を通じて城下に運ばれていた。

愛媛県歴史文化博物館は県西方の西予市にあり、愛媛の歴史・民俗に関する資料を展示、年4回程の特別展・企画展を開催している。
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愛媛県歴史文化博物館(当館のHPより)

この館のすぐ近くの卯之町の町並みは、国の重要伝統的建造物群に指定されている。松山の道後温泉万葉集にも登場する古湯で、「道後温泉本館」(国指定重要文化財)の近くには、もう一つの日本100名城である湯築城(跡)がある。

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 酒田で2013年に発見された客船帳9冊の内、2冊を記載した著書『北前船 寄港地 酒田から全国帆船リスト』(工藤幸治発刊 矢竹考司企画)を発行した。
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 僅か2冊の客船帳に、宇和島等伊予からの酒田への入船記録が40隻近くあり、伊予も北前船が活躍していたと井上さんにお伝えした。

「北前船寄港地・船主集落の旅」第11回 御手洗・竹原

第11回 御手洗・竹原

 かつて広島藩だった呉市(御手洗)・竹原市は、『北前船寄港地・船主集落』で日本遺産に認定された。

 御手洗(大崎下島)には、呉市から7つの島を結ぶ「安芸灘とびしま海道」と、尾道から「瀬戸内しまなみ海道」の2つのルートがある他、竹原港から高速船が航行している。

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中央の大崎下島が御手洗地区   出典広島県庁道路整備課HPより

 呉市教育委員会の紹介で、豊町観光協会のガイド田中一士さんのお話です。

 

 広島藩は、北前船が活躍する以前から(1660年頃)御手洗港を重視し、大がかりな石積みや雁木を作り海岸線を埋め立て、港の拡大と保護に力を入れていた。

御手洗港で藩札を流通させ、尾道・宮島でも使えた為、大商港として発展していく。

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提供 新光時計店

 河村瑞賢の西廻り航路で北前船が活躍する時代になると、沿岸を進む地乗りから沖合を進む沖乗りが主流になる。沖にある御手洗港は北西に向いていたことから有利になり、「風待ち、潮待ち港」として多くの廻船が寄港するようになる。御手洗に特産品はなく、北国から仕入れた米の流通で稼いでいた。

 藩が御手洗港整備に力を入れた事で、参勤交代で九州各藩の大名達が立ち寄る港になる。幕末になると薩摩藩との密貿易で富や文化が集積し、江戸幕府を揺さぶることになる長州藩との倒幕の「御手洗条約」が結ばれている。

 坂本龍馬大久保利通中岡慎太郎も立ち寄った記録があり、藩長連合成立の陰の舞台になるなど重要な拠点になっていたことが明らかになっている。

 広島藩公認の遊郭の1軒が現存し、この家屋の資材は薩摩藩屋久杉が使われている。この茶屋では遊女を100人以上かかえていたという。

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提供 新光時計店

 江戸から昭和までの港町の建物は、白壁、立派な瓦、千本格子の家並みが連なり、江戸時代からの下水道も保全されている。

 一角には、広島藩の御用商人・大坂の鴻池善右衛門が寄進した「住吉神社」も残されている(日本遺産構成文化財)。

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提供 呉市教育委員会

 1994年には「国の重要伝統的建造物群保存地区」に、全国唯一町全体が指定された。

 この家並みの中に創業150年の歴史を誇る『新光時計店』がある。世界にその名を知られ、BS新日風土記北前船の贈り物」で高級時計を求める人が往来する町と紹介された。

 写真を提供して頂いた『新光時計店』5代目松浦光司さんによると、「先祖は1770年頃、竹原より移住し、米や醤油などの販売から、時計の取り扱いを始めた。日本での時計製造は本格的に始まっておらず、主にアメリカ製を多く販売し、『各国時計販売所 松浦商店』の名で当初スタートし、 昭和初期に『新光時計店』に改名した。電車で来られる方は、広島駅から御手洗行の直行バスがある」と話す。 
 
 薩摩のことを聞くと作家穂高健一氏・志學館大学教授原口泉氏らによるシンポジュウム「幕末の真実に迫る~薩摩、芸州の果たした役割~」が開催されたと教えてくれた。

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各国時計販売所   新光時計店 提供

 続いて、竹原市文化財保護課・学芸員 三輪宜生さんのお話です。

 広島藩は、浅野家が1619年から明治維新まで約250年治め、竹原では新田開発として大規模な干拓が進められた。

 埋め立て地は塩分を含み耕作に適さない事を知る赤穂の商人が、塩浜にするのが良いと「入浜式塩田」の仕組みを伝えたという。

 当時、赤穂藩では大規模な「入り浜式塩田」開発に成功(1647)しており、広島藩浅野家は、赤穂藩浅野家の本家だったことから、赤穂藩から二人の技術者を招き試作した(1650)。

 良質の塩を得、予想外の利 潤をあげたことから、領内や在郷の町のみならず遠くの商人まで塩浜経営を希望するようになった。

 1652年には新たに67軒が増築され計98軒になり、竹原は有数の製塩地として繁栄した。

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竹原の伝統料理の魚飯店にあった新聞(2019年2月)

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「魚飯」は塩田主が好んで食していた料理(2019.2)

 竹原は塩の町として繁栄し、令和元年『北前船寄港地・船主集落』で日本遺産に認定され、構成文化財は塩に関係したものが多い。

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大阪住吉大社で(中央右が今榮敏彦竹原市長)

 各地の商人との交易記録や、塩の販売量等を記す「市立竹原書院図書館資料群」、

製塩業で繁栄した1800年頃の竹原の町並みを描いた「紙本著色竹原絵屏風」、 竹原一の塩問屋の邸宅「旧吉井家住宅」、そして竹原の繁栄を象徴する町並みは、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。

 北前船の船乗りたちが宿泊した記録が多く残され、北前船の入港の目印となった「常夜灯群」も構成文化財である。

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竹原のまち並み(2019年2月)

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 塩の買い付けなど北前船の商人で繁栄した江戸時代の廻船問屋は、そのまま残され立派な街並みが続く。西廻り航路開発(1672)以降は、北陸・東北へと大量に塩が運ばれた。

2020年BS番組「新日本風土記」の「北前船の贈り物」では、「竹鶴酒造」13代目当主が塩田と酒造り説明をしている。

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竹鶴酒造(2019年2月)

 NHK朝ドラで人気を博した「マッサン」こと竹鶴政孝さんは、「竹鶴酒造」が生家である。このマツサンと、前回の東京オリンピック当時首相だった池田勇人氏と、先輩後輩の関係だった話は意外だった。

 

竹原市の日本遺産構成文化財、『安芸忠海の浜胡屋と江戸屋の「御客帳」』については、次回、宇和島藩の廻船を研究されている愛媛県歴史文化博物館・学芸課長 井上淳さんのお話しの中で紹介する。

「北前船寄港地・船主集落の旅」第10回 宮津市

第10回 宮津市

宮津市の府立丹後郷土資料館 学芸員 吉野健一氏の話から紹介する。
北前船寄港地・船主集落」で宮津市が日本遺産に追加認定された2018年、吉野さんが中心になり、丹後ブロックが企画した「北前船フォーラムin宮津」が開催された。
北前船の日本遺産構成文化財に三上家文書や加藤家文書があり、吉野さんは構成文化財の和貴宮神社に富山の薬売衆や、銭屋五兵衛が奉納した玉垣があると紹介している。


 「北前船寄港地・船主集落」で宮津市が日本遺産に追加認定された2018年、吉野さんが中心になり、シンポジュウム・企画展を開催している。

 

宮津市白地図

 
北前船の日本遺産構成文化財に三上家文書や加藤家文書があり、吉野さんは構成文化財の和貴宮神社に富山の薬売衆や、銭屋五兵衛が奉納した玉垣があると紹介している。

 

 由良川河口東に神崎、西側に由良村があり、若狭湾に面した海岸平地の集落。

 河口付近は塩浜に従事する者が多く揚浜式製塩が行われ、廻船業も盛んで船主、船頭・水主の活躍で海から遠い綾部、福知山まで北前船と繋がっていた。   

由良駅近くの北前船資料館(構成文化財)提供 釼菱英明さん

由良地区で造船された北前船の15分の1のスケールの模型

 

 吉野さんは、北前船の研究には地元の方々の協力に加え、寄港地の古文書等で連携する必要性を述べ、この企画展開催等から地元の方々の意識に変化が出てきたと語っている。

 後日、舞鶴観光協会広域観光公社事業本部長・釼菱英明さんが上京された時、由良川の段差を利用し、そこに関所を作り藩が収入源としていた時期があったことを解明したのが吉野さんだったと知った。

 

 国土交通省のHPを見ると、『安土桃山時代明智光秀が城下町を開くため堤防を築造し、由良川の河道を付け替えたと言われ堤防前の樹林群は「明智藪」と呼ばれ現在も残っている』と記述があった。

 

 (由良川の改良図) 国土交通省のHPより



明智藪;福知山市街地)国土交通省のHPより

 福知山市文化財保護係の松本学博さんにお聞きすると、光秀が由良川を改修し「明智藪」とよばれる大堤防を築いた一次 史料はないと話していた。
今後この「明智藪」について新たな史料が出てくることに期待している。

 

『名城巡りと北前船の旅』第59回福岡城

第59回福岡城古伊万里

福岡県芦屋山鹿の「芦屋町歴史の里」資料館 学芸員・山田克樹さんのお話から紹介します。


芦屋町は、博多と小倉の中間にあり遠賀川の河口に位置し東に山鹿、西に芦屋がある。
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芦屋町は一番北(白地図使用)〉


「芦屋歴史の里」は芦屋町山鹿あり、考古資料、商業交易関係品、漁具、芸能などの収集品約6000点が収蔵されている。

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 〈提供 国交省遠賀川河川事務所〉

 源平合戦までは、山鹿城を拠点に山鹿兵藤次秀遠が芦屋津を支配し、筑前最大の勢力の水軍をもち海運からが主な収入源だった。
平家方についた山鹿兵藤次秀遠は、裏切ることなく最後まで安徳天皇を守った。

山鹿氏は壇ノ浦敗戦後、熊野に落ち延びその17代後が忠臣蔵に影響を与えた山鹿素行だった。


徳川時代黒田長政福岡城(日本100名城)に入ると、芦屋港は福岡藩の重要港となった。長政は当時最強の船、「安宅船」を作らせ「伊勢丸」と名付け芦屋港に置いた。

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安宅船「伊勢丸」(模型)提供;芦屋町歴史里資料館〉


 芦屋の廻船は、櫨蠟、栗、卵、綿などの遠賀川筋の特産品を伊万里へ運び、元禄年間(1688~1703年)のころから古伊万里仕入れ、交易に出かけた記録があり下関とも肩を並べるほどの港町だったという。

 黒田藩の御用商人・伊藤小左衛門は密貿易の罪にとわれたが、この小左衛門に仕えていた商人が、輸出が減っていた古伊万里の国内販売ルートを開発し古伊万里を全国に運ぶようになるが、これが旅行(たびゆき)商人の元と考えられている。

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〈「旅行商人」関連資料 提供;芦屋町歴史里資料館)

最も盛んだったのは文政・天保年間(1830年前後)で、旅行商人は大坂、江戸、山陰、北陸から遠くは蝦夷松前まで古伊万里の交易に出掛けていた。

当時、芦屋・山鹿は裕福な商家がたくさん軒を連ね、最盛期には古伊万里の3分の1を旅行商人が扱っていた。

弘化3年(1846)の記録に、旅行商人たちは「陶器組仲間」を作って結束し芦屋は関屋・掛屋など38人、山鹿は吉野屋・蛭子屋など27人の名がある。

 伊万里と芦屋の商人の深いつながりから、岡湊神社に大きな石灯籠の奉納を連名でしているほか、神武社にもある。



旅行商人は、「八朔の文化」も運んでいる。これは、旧暦8月1日の節句の一つで子供の誕生や健やかな成長を祝うもので、瀬戸内海の港町,福山市鞆の浦尾道、丸亀などにも伝わっている。

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〈写真は、山田さんが文化庁の広報誌で紹介したもの〉

芦屋から津軽にわたった長寿の女性の物語は、江戸でベストセラーになる。これが北九州市貴船神社に伝わる「ほら貝まつり」で、「芦屋町歴史の里」資料館で小冊子「筑前芦屋の民話」で見ることができる。
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 山鹿素行平戸城や、赤穂城築城に関わった人物だった事から芦屋町山鹿素行展に、このFM番組で赤穂の日本遺産を紹介した赤穂市歴史博物館の木曽こころ学芸員が研究の為、この企画展にいっている。



「すすめ!北前船」第9回(古伊万里) - 『北前船浪漫紀行』


今回は2020年に開催された40周年記念特別企画展について、鈴田由紀夫館長のお話を紹介する。

 特別展は、新潟市の故柴澤一仁氏(2018年死去)が、40年にわたって越後・佐渡庄内地域古伊万里を蒐集したコレクションで、1992年柴澤氏から「400年前の古伊万里を調べてほしい」とこの陶磁文化館に依頼がありその縁で、柴澤氏の意思で2019年に寄贈された。

 

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日本人好みの赤をたくさん使った古伊万里は、ハレの日に使われることが多いため良質な状態のまま残されているという。

 
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天保年間には、伊万里湊から福岡芦屋の旅行商人によって新潟に1年間に6000俵が運ばれ、新潟商人もまた伊万里湊に買い付けにきておりと顔なじみになり、その記録が伊万里の神社に残されている。

 幕末外国船の入港が認められていた箱館湊では、古伊万里の徳利に酒や醬油を入れて売られていたことから、土産に持ち帰ったロシアで一輪挿しとして使われていた記録もあるという。

 
 新潟港が明治元年(1869)に開港するとロシアの軍艦が下見にきており、名産品に陶磁器と魚の記録がある。これより10年前の安政6年(1859)「新潟湊之真景」には、多くの北前船や外国船(3隻)が描かれていた。

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一番遠くに見えるがロシア船
写真提供(新発田歴史図書 館鶴巻康志さん)