すすめ北前船

北海道発のFM放送「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の「すすめ北前船」を瀬戸内海からFBとブログで発信しています

「すすめ北前船」第33回(三国安島)只今作成中

 

「すすめ北前船」第33回(三国安島)

(只今作成中ですーしばらくお待ちください

 

 これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」のfbのコメントを再構成したものです。

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今回の『すすめ北前船』は、坂井市三国の東尋坊がある安島(あんとう)からで、2017年5月19日と2019年1月28日の放送がありました。

 

 ゲスト森岡千代子さんは、工芸ギャラリーを運営し2017年放送では、安島の刺し子(モッコ)の復元から、安島の祭りの法被にするまでを語っています。

 安島の刺し子の発祥について、文献はなくいつ頃かはっきりしていない、3年程前にみくに龍翔館がまとめた薄い冊子があったと応えています。
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 安島は、江戸時代から続く船乗りの町で、北前船で出港すると半年は戻れない。
 残った女性は、夏は海女をして家族を支え、北前船で留守にした男性を思い、特産の麻の普段着に細かい針で一針、一針刺し、時間をかけ刺しゅうで補強し暖かくしたのが安島のモッコ(刺し子)だと。

 森岡さんは、2001年に安島に移住し3年程して、みくに龍翔館に展示されていた安島の刺し子(モッコ)に魅せられたといいます。

 復活させたいとの想いも、刺し子の技を持つ海女に出会いもなく10年、安島の海女が持っていた100年程前の保存状態の良い刺し子と出合いがモッコを復活につながります。

 これは、刺しゅうに詳しい地元育ちの坂野上百恵さんに解読をお願いして復元が実現。

 しかし、何処で使うか?どう残していくか?の課題にも祭りで使う法被に!百恵さんのひと声に、地元への想いを知ったと森岡さんは語っています。

 こうして、北前船と海女の文化の伝統を途絶えさせてはいけないと、百恵さんを先生に安島モッコつくりを始めます。
 やがて11人の女性が参加するようになり、館を借りる為に「安島モッコの会」と名前が自然に生まれています。
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 2017年明けから刺し子をつくり始め、2017年4月の安島の祭りに11着が使われたと語っています。

 三国には、三国際(毎年5月20日開催)を三国町の大和さんがこの番組で紹介していますが、安島には、1000年以上続く大湊神社の例大祭「雄島祭り」は、毎年4月20に開催されています。

 「雄島祭り」の、2017年のユーチューブの動画には、法被に色が薄のものと、濃い紺色の法被がありました。

 濃い色のものが、森岡さんや坂野上さんらの作品だとからわかりました。

 安島で育ちの坂野上百恵さんを先生に、森岡さんと始めたモッコ刺しは「安島モッコ刺しの会」の名になり、春と秋のそれぞれ3ヶ月のカリキュラムで普及活動しているのが、2018年の新聞で紹介されています。


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 それから1年半、2019年1月の放送では、「牛首紬」に坂野上さんが、モッコ刺しの大湊神社の御守袋をつくり、この紐に三国の紐の専門の作家の方のものを使うと話しています。

 これは、「牛首紬」の里の石川県白石市桑島の加藤手織牛首紬に、森岡さんと坂野上さんが訪ねて実現したもの。
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 文武天皇700年頃、安島の一部の人々が今の白山市桑島に移住した記録が、安島の大湊神社に残されており、桑島にもその記録が残っていると加藤さんの話を紹介。

牛首紬」は、石川県の無形文化財に指定され、白山市白峰の旧地名(牛首村)に由来し、平治の乱(1159年)の後その歴史があると言われています
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 大湊神社の御守袋と2017年の法被は、共に未来に残る安東のモッコ刺しになると語っています。 

 明楽さんは、小樽でお世話になっている呉服屋さんから牛首紬の案内があり、小紋北前船の図柄があったと話していました。

 最後に、この2年間で刺した安島モッコの展示会が、三国の旧森田銀行で2019年6月1日から9日まであると案内がありました。

 今回掲載の写真は、明楽さんのFBから。

 この放送は、札幌のFMしろいし局から放送され、その後、か北前船寄港地13ヶ所(トップ写真で紹介)で始まります。
 

 このfm放送は、スマホ等から日本ラジオをインストールしていただければ世界中でどこからでも聴く事が出来ます

「すすめ北前船」第32回(北前船の税)



「すすめ北前船」第32回(北前船の税)

 

 これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」のfbのコメントを再構成したものです。

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 2018年10月4日放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』は、北前船の税金について私が紹介しています。

 放送では、文献で読んだ訳でないと「下関(巌流島)を通過する船から、通行税を長州藩が取り、これが江戸幕府を倒す原動力になった」と北前船に詳しいある学芸員の話として紹介しました。
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この文献があればと、都立図書館から山口県史等を取り寄せ調べてもその文献を見つける事が出来ませんでした。
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 山口県文書館なら、何かわかるかもれないと時間をかけて調べてもらいました。

 結果は、関所の役割をしていた記録があったものの、税等を徴収した足跡は無かったと文書で返事がありました。

 文中の下関市立歴史博物館の学芸員の方にもお聞きしましたが、そのような文献はないとの事でした。

 お礼の電話をすると、文献が見つかれば知らせてほしいと言われました。

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 海の通行税は、豊臣秀吉の時代に禁止され徳川政権もこれを引き継いだのでは、と再び質問すると別の名目で徴収していたと、以前と同じ回答でした。

 一方、川で関所を設け通行税を徴収していたのが、福知山・綾部の由良川にあったと、このfm放送の舞鶴のゲストの方に東京で教えて頂きました。
  

 それは、北前船の積み荷を由良港高瀬舟に積み替え、由良川を上る途中に関所を作り、税を徴収していたと云うものです。

 これは、丹後各地と由良川北前船を研究している、京都府立丹後郷土資料館の学芸員の方が解明したと聞きました。
 

 北前船拡大機構の公式HPには、入港税、出港税について松前藩の例が掲載され〜藩財政を支える大きな柱になっていたと記載があります。
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 また、船の大きさに応じて税額が決まっていたので、北前船を小さく見せる工夫があった事も紹介されています。

 北前船は、1回の航海で現代の換算で1億近い利益を上げた船主もあると云われ、その蓄積で、北前船の終焉する明治中頃には、各地で銀行業を始めた話はよく聞きます。

 瀬戸内海の坂越にもその銀行の建物が、今も残されており、このfm放送でも坂井市三国港の旧森田銀行を紹介していました。
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 年に1億も儲けると、現代なら所得税地方税が引かれ残りが半分(個人の場合)になり使うと更に消費税が!

 江戸期は税に甘かったのかのだろうか?

 2018年6月に行った、酒田市立光丘文庫の古典籍調査員の田村さんにお聞ききしました。
 

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 税の徴収は、昔も厳しく酒田港では入港、出港の時それぞれの荷に3.75%税をきちんと徴収していたと〜1800年代のある半年間の税が4800両あった記録があったと、ここに残された文献から教えて頂きました。
 藩の1年の税が、4800両もあった酒田は、北前船で豊かだったようです。

 江戸幕府には、民から直接税金を徴収する仕組みはなく、現代の国税所得税)の考え方が無かったのが国税庁のHPから想像できます。
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 (江戸時代の税〜国税庁のHPより)

 この為、北前船で莫大の利益を得ても、その廻船問屋からの税の徴収は、現代の仕組みから考えればわずかだった為に富が蓄積され、各地で銀行を設立する事が出来たのかもしれません。

 江戸時代と比べ、福祉、保険、行政サービスが充実している現代は、個人では税制面から富の蓄積は難しく、金融取引等の例外を除き大富豪が生まれにくのが改めてわかりました。

 このFM放送は、札幌のFMしろいし局で制作され、北前船寄港地13ヵ所で収録放送されます。

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「すすめ北前船」第31回(ブラタモリ有田焼)

「すすめ北前船」第31回(ブラタモリ有田焼)

 

 これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」のfbのコメントを再構成したものです

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今回は、11月9日放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の前半のブラタモリ(有田焼)を紹介します。

 2018年10月に2週放送された『ブラタモリ』(有田焼)の番組の案内人になった佐賀県立九州陶磁文化館の鈴田由紀夫館長は、有田焼を40年研究されている方です。 

 この『進め北前船』のコーナーにも去年2回ゲストとして出演され、松前の勝山城跡で大量の古伊万里が発見されたと北前船との関わりを紹介しています。


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(続日本100名城ガイドブックより)

 これをブログ『すすめ北前船9回有田焼』で紹介していますが、今回後半で放送された『進め北前船』は、その前で紹介しています。
https://chopini.hatenablog.com/entry/2018/03/27/171642

 

 

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 ブラタモリで、江戸時代、港町として栄た兵庫津、米の倉庫や飛島の役割を紹介した酒田は、共に北船寄港地として日本遺産に登録されています。
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 今回ブラタモリで紹介された有田焼は、江戸時代は古伊万里とよばれ、日本海側や松前等で大量に発見されています。 

 しかし、伊万里港からどこで積替えして北海道まで運ばれていたか不明ですが、北前船が運んだ積み荷だったのは確かなのでこのコーナで紹介します。

   焼き物には土から作る「陶器」と、陶石から作る「磁器」があり、有田焼は「磁器」で作られています。

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 日本の磁器の発祥地有田には、江戸時代にヨーロッパでも大ブームを巻き起こした「世界の有田焼」があり、この磁器にタモリさんと鈴田館長が、有田焼に挑んだ初代柿右衛門の知恵と工夫まで紐解きます。


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 最初に行ったドイツの宮殿を再現した有田焼テーマパークの館内には、最高級の有田焼がずらりとあり、万国博覧会にも出品された超巨大花瓶についてはこのFM放送でも紹介がありました。

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次に、有田焼誕生の原点を求めて訪れたのが江戸時代の「陶石」の泉山採石場

これより、地質・地形・歴史の3つの切り口で紐解いていきます。

 

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 ブラタモリのHPには、有田焼誕生を支えてた自然の奇跡の石を生み出した背景をくわしく紹介しています。

  FM放送のインタビューでは、鈴田館長が有田の泉山の原料について、これ迄わからなった謎が解けたとタモリさんの興味のお陰だとはなし、有田は岩山が美しくこの内、泉山だけが焼き物の原料の石が採れた背景を圧力鍋の例で説明しています。
 また泉山近くには、火山があった地形で250万年かけてこの奇跡の原料が採れるようになったプロセスも紹介しています。

 2週目のブラタモリは、15代目柿右衛門の制作現場に鈴田館長と訪問する場面から始まります。

 柿右衛門の基本となる赤絵の初代の知恵の秘密をfm放送でわかりやすく鈴田さんが語っています。

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 その後、15代目柿右衛門さんが登場して制作現場にテレビカメラが入り、柿右衛門釜を説明しています。

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(左の方が15代柿右衛門

 下記の写真は、「赤絵町1丁目1番地」近くの赤い絵の具屋さんの店での場面。

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 明治に入ると電気を通さない磁器は、電信や電気の電柱等で使われるガイシとして脚光を浴びます。
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 この碍子で有田は潤い、今もある工場の方の話に、ガイシ好きのタモリさんは感激していました。

 fm放送では鈴田館長は、ブラタモリの放送

で、これまで誰も注目していなかったガイシが注目され、多くの方が訪れるようになったと喜んでいました。


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ブラタモリ』はシリーズになっています。明楽さんは有田焼が発行されるのを楽しみにしていると言っていました。

 この時は、北前船を紹介した酒田と同じシリーズで発行になる事を期待して聴いていました。

 「世界の有田焼」は、自然の恵みに加え、初代柿右衛門の赤絵の知恵、それを支えた人達、明治入りガイシに支えられていたのを知りました 

  このFM放送は、札幌のFMしろいし局で制作され、北前船寄港地13ヵ所で収録放送されます。無料アプリ日本ラジオをダウンロードして頂ければ世界のどこからも聴けます

「すすめ北前船」第30回(函館ー加賀)

「すすめ北前船」第30回(函館ー加賀)

 

 これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の後半の「進め!北前船」のfbのコメントを再構成したものです。

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 9月28日放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』は、函館からです。
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(北前船寄港地フォーラム江差での函館の前夜祭と函館山の2次会から)


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 ゲスト橋谷秀一さんは、橋谷(株)代表取締役社長の4代目で、今も砂糖や小麦粉、食用油などの卸問屋として神戸等で事業を展開しています。

 詳細は、全国の経営者の自叙伝を紹介しているHP (下記のURL)に掲載されています。
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(以下のHPの写真より)
http://www.ddr38.net/0hashiya/0hashiya.html 

 橋谷さんは、4年前社長に就任して先祖が創業した想いを知りたくなり、会社のルーツを調べるようになったと話が始まります。

  1895年(明治28年)曽祖父の橋谷已之吉氏が今の石川県加賀市小塩町から北前船で函館に移り、タバコの行商がその始まりだと。

 かって北千島にも事業所があり、自社の廻船で昆布や鮭を故郷の加賀や沖縄に運び、沖縄からは、黒糖を北海道に輸送したのが、橋谷さんの調べでわかったといいます。
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 砂糖は、北洋漁業ですり身などの水産加工業で保存料として必要で、函館、釧路では水産で膨大な砂糖が必要だったと語っています。

 当時、6隻の船を所有していた事もわかり、琉球王国の沢山の名刺、明治時代の世界地図が発見された事から、日本の活躍していた地域が広かったのがわかり、橋谷家の活躍地域がもっとわかるかも知れません。
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(写真は、紹介のHPより) 

先祖が暮らしていた小塩町は、加賀橋立にある北前船の里資料館に近く北前船で活発に活躍していた地域でした。
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(2015年北前船寄港地フォーラム加賀橋立で)
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 この小塩町より10キロ程内陸部の山中温泉に行く途中の河南町に、橋谷家の足跡があったのが、この地区の遠縁の方と4年前の出会いでわかったと。
 
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北前船寄港地フォーラム翌日の山中温泉

 河南町の菅原神社の玉垣に橋谷家の名、函館の人の名があり、河南町と函館がつながっていたのもわかったといいます。
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河南町の菅原神社グーグルマップの写真!には、沢山の玉垣があり名前もはっきり見えました。)

 その方の先祖は、瓦屋さんでこの瓦が函館の橋谷家の瓦の一部だった事がわかり、
 この日に放送であった夕張の小林酒造の瓦の一部と関係しているかもしれないと語っていました。 

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(レンガ造りの小林酒造 明楽さんのfBから ) 

この解明に小樽商科大学の高野康弘学術研究員らの協力があり、まだ未解明な資料が沢山ある事から、新たにわかればお招きしたいと明楽さんが応えていました。
 

 高野さんは、加賀橋立の出身の方で北前船拡大機構で全国の北前船寄港地のデータベース化の責任者でもあるので、橋谷さんの資料も参考になりそうで今後の調査結果が楽しみです

 坂井市での全国北前船研究セミナーの翌朝、かって小浜市で焼かれた瓦が

北海道で発見された事がNHKで紹介され発見したのが高野さんでした。

この放送は、下記のアルファベットからご覧いただけます。

https://www.facebook.com/100015058422253/videos/pcb.501801673665109/501811006997509/?type=3&theater


 このFM放送は、札幌のFMしろいし局で制作され、北前船寄港地13ヵ所で収録放送されます。無料アプリ日本ラジオをダウンロードして頂ければ世界のどこからも聴けます

「すすめ北前船」第29回(塩飽廻船第3回)

 

「すすめ北前船」第29回(塩飽廻船第3回)

 

塩飽出身の吉田幸男さんが、2018年3月30日から4月27日まで5回連続で塩飽廻船に語っています。これを時代順に再構成しています。
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 また5月4日対岸の下津井から私が、これをまとめた生放送がありました。
 

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 第1回

「すすめ北前船」第20回(塩飽廻船第1回) - すすめ北前船

 

 第2回

「すすめ北前船」第23回(塩飽廻船第2回) - すすめ北前船

 

 今回は、第2回目の続きで最後になります。
 
 ヒバの産地の青森では、一人でもヒバを山から雪の上を滑らせる事が可能で、 南の屋久島の杉を運ぶ例と比較し、青森でも雪が少ない年は、船が作れなかったと陸奥湾岸に移住した背景を紹介しています。
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 この千石船は、150㌧程積め60キロの米なら2500俵積めたといい、その優れた操作性や使いよさの工夫があり、
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青森湾で修理中のみちのく丸2017年9月) 
 
 帆柱は、船の中央より若干後よりにある造りから、起動性が生まれ舵が取り易くなり、港の奥に入る時、曳船の必要がなかったと、
 
 当時の南蛮船や酒田沖の飛島の例と比較しています。 
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(野辺地の北前船寄港地フォーラムで)
  更に、大きな一枚帆にも風を逃がす等の工夫があり、冬の寒い時期に2ー3ヶ月の短期間で建造されています。
 寒さで木が縮み水漏れのない良い船が出来たと、寒さの重要性も紹介し
 特許がなかった時代、これが全国に広がったと語っています。
 
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 (北前船船首集落のHPより) 
 
 この津軽藩と塩飽との繋がりから、天保の飢饉で「紙谷仁蔵」の話が生まれます。

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 飢饉の救援で津軽に米を運ぶ途中、悪天候能代港に立ち寄った仁蔵は、飢餓で苦しむ人々を見て船から米を下ろし粥を炊いてふるまいます。
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 これは、津軽藩や、塩飽をも裏切る結果となり、塩飽に帰れず能代蕎麦屋を営み余生を送ります。
 蕎麦をひいた仁蔵の臼の墓石(写真)が、今も光久寺にあり訪れる人は多いいと。
 能代では、仁蔵の話が平成の今日まで語り継がれ2012年能代ミュージカルの演目になっています。
  これを知った吉田さんのコメント「二百数十年も経過しているにもかかわらず塩飽住民『紙谷仁蔵』を忘れずに、その上ミュージカルにして上演するとの報に感謝の言葉もみつかりません」が紹介されていました。

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 この紙谷仁蔵の足跡を調べる為に、 能代の光久寺から高齢のお坊さんが、塩飽に訪ねています。 
 しかし、塩飽にとっては不名誉な事で、島を調べても何も残っていないと語っていました。
 
 次は、幕末ぺリーが来航(1853年)を機に、幕府は8ヶ月で洋式軍艦の鳳凰丸を建造した後、塩飽の水主(かこ)の苦悩と誇りを残されていた日記等から紹介しています。

 鳳凰丸が完成しても、操船出来る者がいなかつた為、塩飽に幕命が下り当初30人が樽廻船等で浦賀へ行き、3ヶ月で鳳凰丸を動かし浦賀の水主達に教えたといい、延べ1200人程が幕府の軍艦に塩飽の水主が乗る事になる。

 長崎伝習所が出来ると、今度は長崎に行きオランダ人から習いますが、吉田さんの先祖はまだ13歳だったといいます。

 その後、日米修好通商条約が1858年に締結され、この批准書交換の為1860年アメリカ行く事になります。
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 ボーハタン号と共に咸臨丸に、勝海舟福沢諭吉、ジョン万次郎、小野友五郎、木村摂津守ら、総勢195名の中に塩飽の水主は35人いたと。

 塩飽の水主は、死を覚悟しての航海で、アメリカ行きを喜んでいたのは福沢諭吉だけだったと語っています。

 吉田さんの先祖は、この時16歳で塩飽の役人の家で育った宿命から仕方なく行ったと。この時、みんな咸臨丸の任務がよくわかっていなかったと話しています。

 ブルックも咸臨丸に乗船しており気圧計の低下から、ジョン万次郎に咸臨丸の危機を伝えますが、役人達は聞き入れず、塩飽の水主達の苦労は最後まで続きます。

 この時、最高責任者の木村摂津守が何もしなかった背景を紹介し、沢山の褒美を水主達に渡した功績を吉田さんは絶賛しています。

 この苦難の航海で3名が死亡し、小野友五郎が遺品と45両を塩飽の水主の遺族に渡しに来たといい、褒美の額から木村摂津守の暖かさを語っていました。

 

 最後は、皇太子殿下が卒業論文『中世瀬戸内水運史』の資料集めで昭和57年塩飽を訪問された話があります。
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 数年後、貸し出された資料が桐の箱で返され資勤番所に展示され、その記念碑が勤番所左側にあると語っていました。
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 吉田さんの塩飽史は、アマゾンでも販売されていると明楽さんが紹介しています。
 
 この『進め!北前船』は、チエンバリスト明楽みゆき浪漫紀行の後半で放送されています。
  札幌しろいし局で放送され、収録放送は毎週木曜日「FMラジオななお」を皮切りに北前船寄港地13局ネット(詳細はトップの画像)で放送されます。
 
 
 
 

「すすめ北前船28回 」(伊勢の御塩)

 

これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の前半と、後半の「進め!北前船」のfbのコメントを再構成したものです。

 

「すすめ北前船28回 」(伊勢の御塩)

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 9月21日放送のゲスト東村篤さんは、伊勢市在住で四日市大学教授から今年、同大学の環境技術研究所の研究員として活躍されている方です。

 瀬戸内海の赤穂塩、日本海能登の塩に続き、太平洋側の伊勢の塩について、
伊勢商工会議所の「検定お伊勢さん」の検定上級資格をお持ちの東村さんが案内します。
 

 東村さんは、定年で27年ぶりに実家伊勢に戻り、かって賑わっていた二見(臨海部)の落ち込みを見て、
 二見の『御塩』の塩道でブランディング研究会を立ち上げ、伊勢神宮の御塩の活性化に取り組んだ事を語っています。
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 塩の研究の為、岩手、仙台の釜石、今治等に行き、去年秋には赤穂市にも来られています。

 この時、赤穂塩の千原さん、珠洲市の横道さんの能登の塩の投稿等の『瀬戸内坂越の北前船交流記』を、坂越まち並み館の濱田さんが贈呈しています

 二見浦は、1498年の地震による大津波で、この浜郷の塩田に大きな影響が出ても、伊勢神宮の御塩は、神事として続けられたと紹介しています。

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  神宮の御塩の生産が中断しなかったのは、お祭りの際、お供えとして捧げられるだけでなく、お清めの塩としても使用されていたのがその背景のようです。

  東村さんから頂いた『神宮の御塩』には、二見浦からの御塩を共進したのが、実在した可能が高いといわれている第11代垂仁天皇(紀元前69年〜?)の時代からと書かれています。

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 鎌倉時代鴨長明(1155-1216)の『伊勢記』には、「二見がた神錆びてる御塩殿 幾千代みちぬ松蔭にして」という歌が残っている事が書かれています。

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 1295年の『伊勢新名所絵歌合』の下巻には、当時の塩作りの様子が見事に描写されている事も書かれ、はっきりした古い歴史がわかります。
 

  塩田は古式入り浜塩田で、今も年間1500の神事催事があり、
 毎年5月と9月の5日、12月半ばの締め縄を替える神事を語っています。

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 この塩田は、江戸に入り商業用も復活され神事の二見の御塩と共に、塩、米等の天然の有り難さを語っています。
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 後半の『進め!北前船』は、三重県出身の西廻り航路を開発した河村瑞賢と、北海道と命名した松浦武四郎の話をしています。

 南伊勢町の出身の瑞賢の像は、酒田と南伊勢町にあるものの、地元ではだんだんと忘れられようとしていると。

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 そんな中、南伊勢町では生誕400年の記念式典があり、教育委員会が小学5年生を主に社会科の教材として『河村瑞賢』を発行していると紹介しています。
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 東村さんから頂いた72ページのこの教材のタイトルは、「商人をこえた日本の偉人」の中で、瑞賢を分かりやすく書いています。f:id:chopini:20181114171317j:image
 瑞賢は、江戸で大火に遭遇した時、自宅をそのままにして、木曽に行っています。

 僅か10両の資金で、木曽の材木に瑞賢の印を押すまでのプロレスが書かれていました。

 その後、大火で買い付けに来た江戸の材木商に高く売り、莫大な利益を出した例等が書かれています。f:id:chopini:20181114161331j:image

 瑞賢は、伊勢商人近江商人や大阪商人と並び商才にたけていた背景を教育から語っています。

 それは、伊勢では寺子屋等教育に力を入れ、東村さんが教授をしていた四日市大学で研究がすすんでいる関孝和和算からも語っています。

 伊勢商人の流れを組む企業に、イオンや岡三証券があります。
 東村さんは、その岡三証券で39年定年まで勤め、その後に四日市大学の教授をされています。

 こうした経験から、伊勢市には証券人口が多いいと言っていました。

 バブル崩壊までの証券界は、4大証券と7つの準大手証券がありました。

 バブル崩壊で大手の山一証券は倒産、準大手6社は倒産や統廃合され、岡三証券だけが単独で生き残っています。
 失われた20年と言われた時代を乗りきり、たくましく生き残つたのもわかる気がしました。

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 今年は、松浦武四郎蝦夷から北海道と命名して150年目になります。

 松阪城跡近くの松阪市役所には、松浦武四郎生誕200年!の垂れ幕があり、記念イベントのパンフレットがありました。

 このFM放送は、毎週金曜日4時から、札幌しろいし局から放送され、

その後、fm七尾を皮切りに、北前船寄港地13局で放送されます。
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「すすめ北前船27回 」(能登の塩)

これは、「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』のfbのコメントを再構成したものです。

 

「すすめ北前船27回 」(能登の塩)
 8月24日放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の特別コーナー『進め!北前船』は、珠洲市からでした。

 この前後の週に、「赤穂塩」の放送があり「すすめ北前船26回」で紹介しています。

 ゲスト横道嘉弘さんは、珠洲市の道の駅で奥能登塩田村の社長から、今年相談役になられています。

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 能登の塩作りは、奈良時代からで江戸期に入り加賀藩の保護政策の時代の製法と殆ど変わっていないと話が始まります。

  1959年、全国の揚げ浜製塩は禁止されます。
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この時、角花家の強い希望で唯一残されこれを守るのが隣にある奥能登塩田村だとインタビューに応えています。

 経営は、家族単位で瀬戸内海との違いがありその過酷な労働を語っています。

 朝早くから天秤棒で大きな桶に18回運び、運んだ海水を砂に撒き、
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砂が乾くと箱に入れそこに海水を含んだ砂を入れ釜屋で20時間程煮込むと。f:id:chopini:20181107163014j:image

 この塩田村では、天秤棒で海水を運び砂にまく所まで体験が出来、塩の資料館もある事から、夏休みは全国からの子供達で賑わうと語っていました。

 NHKの朝ドラ「まれ」の舞台は、輪島市でしたが撮影は、珠洲市のこの塩田村で行われました。
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 この朝ドラ人気から、塩生産が追いつかくなって通信販売が出来なくなり、東京ではスカイツリーの近くで販売していると紹介しています。

 この塩は、梅干し、おにぎりにすれば、違いがわかると言っていましたが、確かに美味しい塩です。 
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 この自信から、フランス料理の巨匠三国清三氏に帝国ホテルのパーティーの時、自社の製品を渡していました。
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 能登沖は、暖流と寒流がぶつかる事から多くのプランクトンを含みここで採れた塩は、フランス料理に欠かせないと三国シェフのHPにありました。 

 

 横道さんが出版した能登の揚浜式塩田』には、塩釜の事も詳しく書かれています。

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 珠洲市の南の穴水町は、鉄の鋳物の産地で平安時代に編纂された『新猿楽記』の歌の中で諸国の特産物を都でも古くから鉄釜が能登の名物だった記述があります。
 こうした事から 加賀藩では、1605年高価な鉄釜を12年の契約で835枚貸し付け、1737年には2000枚まで貸し付けていたと述べられています。
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 加賀藩は、鉄釜でも塩の生産を支援し、税を得ていたのがわかりました。
  能登では、塩は鉄釜で作られ、それは赤穂の西浜塩田と同じ真塩の高級品だったのがわかります。

 加賀料理には、この真塩が使われ輪島の漆器と共にその料理の名声を高めていたのが想像できます
 

 当時、瀬戸内海で使われていた塩釜は石釜で、竹原市学芸員も竹原では明治30年になって鉄釜を使用した記録があると言っていました。

 赤穂塩がブランドになった背景には、この他焼塩等、塩に付加価値を付けていたかもしれません。
 
 尚、横道さんには、瀬戸内坂越の北前船シリーズに投稿して頂いていたので紹介します。

http://sakosi-kitamaebune.hatenadiary.jp/entry/2017/01/04/205538

このFM放送は、北前船寄港地13ヵ所で収録放送されます。 
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