「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

『名城巡りと北前船の旅』第54回松江城

今回は「松江歴史館」の主任学芸員の、新庄正典さんのインタビューと、私が松江に行った話も紹介しています。

 松江城日本100名城)は、2015年に天守閣が国宝に指定され、現在は4つの橋で町並みをつなぐ堀があり、
観光遊覧船で一周できると新庄さんはインタビューに答えている。
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  写真提供 公益財団法人松江市観光振興公社

 お堀の北惣門橋を渡った所の「松江歴史館」では、松江城や町の移り変わりを、映像、模型、切り絵、書き割りなどで見ることができる。f:id:chopini:20210304102641j:plain

 松江城(2016 /3) 

 この城は関ケ原の合戦後の1611年、海と結ぶ太田川の近くの宍道湖に面し築城されたが、
完成前に初代藩主堀尾忠氏が亡なり、父吉晴が完成させた。その後も次々と藩主がかわった。

 1638年松平直政(家康の孫)が入封以後は、松平家明治維新まで続いた。

 
 松平直政は、寛永15年(1638)松江に入国した翌年、藩内の平穏を祈って城内に城山稲荷神社を創建(TOP写真)、後に松江城築城時からあった若宮八幡宮を合祀する。

 直政入府から10年目、慶安元年(1648)凶作になったことから五穀豊穣を祈り城山稲荷神社の御神霊を、船渡御によって阿太加夜神社に移した。

 これが10年に一度の「ホーランエンヤ祭り」の起こりだという。
この神事は、大阪天満宮の『天神祭』、広島厳島神社の『管絃祭』と合わせて日本3大船神事。
この神事は正式には絢爛豪華大船行列で、9日間にわたって執り行われる。

  この祭りの櫂伝馬踊りは、新潟から北前船の船頭が伝えたものである。

  松江歴史館のすぐ近くには、「ホーランエンヤ伝承館」がある。
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この館で案内して頂いた上田さんと。(2016./3)

 館内のDVDで「ホーランエンヤ祭り」が楽しめる。大橋川と意宇川沿岸の五つの地域から、豪華に飾り付けられた5艘の櫂伝馬船が、約100隻の船を曳航する大船行列を作る壮大な祭りだ。
伝馬船の上では、威勢のよい音頭取の声に合わせ櫂伝馬踊りが披露されていた。
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 日本海、九州、瀬戸内海の地域に似た船祭りがあると案内版にあり、まさに北前船が伝えたものだ。



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ホーランエンヤ伝承館のパネル案内(2016/3)


 また、瀬戸内海では宮島の「管弦祭」と、大阪の「天神祭」と、坂越の『船祭り』が三大祭りだが、
坂越の場合は3大神事に入っていない。

 この 松平直政が入封する前から、松江藩の財政は行き詰まり倹約等様々な藩政改革をしても、財政は悪化するばかりだった。

 それを7代目松平治郷(1751~1818年)が、財政を好転させる。治郷は家老に朝日丹波郷保を起用し、「御立派の改革」と呼ばれる財政再建策を進めた。

  たたらの鉄を農具等に加工、薬用ニンジン(高麗人参)を雲州人参として藩で栽培、これらを美保関の湊から長崎経由で中国に輸出した他、ハゼの実をロウソクに加工し、美保関から北前船で大坂などに運び、廻船が大活躍した。

 北前船の隆盛が、松江の財政の改革を成功に導くことになる。

  松平治郷は、茶道に精通した人物で大名茶人として名く「不昧公」の名で親しまれている。この不昧公の名は、1806年の隠居後に剃髪して名乗った号「不昧」からきている。

 この歴史館では、城を借景にした日本庭園に利休茶室が設置され、

茶道不昧流をおこした不昧公が残したお茶・和菓子文化も紹介している。

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風流堂 提供


最後に風流堂4代目の内藤守氏に聞いた話を紹介する。

 内藤家は200年続く廻船問屋で、屋号「伊野屋」として出雲崎で古着の商いをし北前船で活躍している。

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 風流堂の銘菓 山川 提供 風流堂

 明治に入り陸上交通の発達を見越した内藤竹次郎が、
廻船業に見切りをつけ明治23年(1890)商売替えをし新たに始めたのが風流堂だった。

2代目内藤隆平が不昧公好みの和菓子「山川」を復刻させた。「山川」は茶人のみならず広く愛好され東京のデパートでも販売されている。