「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅第72回 」平戸城と出島(長崎県)

平戸と出島の交易 

 

 長崎県平戸市文化交流課・学芸員 前田秀人氏の話から紹介する。

平戸市は2005年周辺の島々、対岸の九州本土の田平町等と合併し本土にも広がった。

 



写真の説明はありません。

(写真は国交省HPより)

 平戸島にある、平戸城(日本100名城)の藩主松浦氏は、中世の頃から「中小の武士団」をまとめ勢力を伸ばし1599年に現在の地に築城したが1613年(慶長18)火災により焼失している。松浦氏は、再築を徳川幕府に願い出て、1704年から14年かけ完成させた。天守閣はなく島の半島全体を城郭にした城だった。

平戸城 軍艦島ミュージアム提供

 赤穂城と同じ山鹿流だがその具体的なものはなく、素行の思想が入っていると前田氏は語る。現在の平戸城は1962年(昭和37)に造られ、平戸城の入口には城再築と山鹿流の関係を紹介したパネルがある。

 平戸城入口で(2020年筆者撮影)

 平戸島は古来より中国と博多を結ぶ航路の要所で、大陸との交易が盛んにおこなわれ寄港地として多くの異国の文化を受けいれている。

1550年、ポルトガル船の平戸港入港をきっかけに南蛮貿易が盛んになり、オランダ商館、イギリス商館が建てられ西洋との国際貿易港になった。

公式】平戸オランダ商館ホームページ - 平戸オランダ商館 国指定 ...

 平戸オランダ商館 所蔵

 平戸島には、2011年に復元オープンしたオランダ商館・松浦史料博物館(松浦家私邸)等、歴史を物語る建物が多くあり、江戸時代の地図もそのまま使えるという。

 オランダ商館  軍艦島ミュージアム提供

 フラシスコ・ザビエルは1549年鹿児島に来ているが、ポルトガル船入港を知り1550年に平戸に来てキリスト教の布教をしている。

 

 平戸藩は海外との南蛮貿易で豊かな藩だったが、幕府の鎖国政策で平戸オランダ商館は1641年取り壊され海外交易停止は大きな痛手となった。

 そのため、新田開発に力をいれた他、鯨組をつくり捕鯨に力を入れ、藩の財政を支え今でも平戸には鯨文化が残っている。

 

 

 幕府の鎖国政策で平戸オランダ商館が取り壊された後、出島に移され海外交易の拠点なり「四つの貿易口」の一つとなった

出島については、長崎市出島復元整備室・山口美由紀学芸員の話です。

(出典 国会図書館デジタルアーカイブ)

 徳川政権でもキリスト教を禁止したが、貿易の推進を望む幕府は寛永13年(1636)、日本人から隔離・収容する目的で、寛永13年(1636)に海を埋め立て扇型の人工の島・出島を築き当初はポルトガル人を住まわせている。

その後、ポルトガル人は退去させられ出島が無人になった為、平戸のオランダ商館が出島に移され、鎖国下、西洋との貿易の地になった。

アウトドアの画像のようです

写真は出島復元整備室提供・

 

 出島は、1641年の移転から安政6年(1859)オランダ商館閉鎖まで、218年間の歴史がある。写真の説明はありません。

 出典 国会図書館デジタルアーカイブ

この出島の貴重な歴史的遺産の復元に 出島復元整備室が取り組み、2016年に16棟の江戸時代の建物が復元され、2017年には表門に通じる橋も完成した。これらの整備には、市民や多くの人々の募金も用いられている。この建物や町並みは江戸時代の出島を体感できる観光スポットになっている。ポルトガル船来航から450年にあたる2021年、多くのイベントが開催された。

 

出島復元整備室提供

 残り3つの口、「薩摩藩の琉球」、「対馬藩の朝鮮」、「松前藩の蝦夷地」は、いずれも藩や商人の交易だったのに対し、天領だった長崎は幕府の管理下のもと、中国貿易、オランダの中継貿易が展開され、グローバルな経済活動に加え、医学等の学術や文化にも多くの影響を与えていた。

 

 出島での輸出は古伊万里が西洋で人気だった。輸入は生糸を含む衣類や砂糖があり、中でも砂糖で培われた食文化がある。そして中国船やオランダ船がもたらした砂糖は長崎に近かった九州北部の食文化にも影響を与え、とくに砂糖の文化が華開いた長崎街道沿いは、現在「シュガーロード」と呼ばれている。

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 山口さんは著書『旅する出島』で、写真や絵図を使い出島の魅力を紹介している。この本は、第31回地方出版文化功労賞の奨励賞に選ばれている。