『名城巡りと北前船の旅』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の企画し紹介している

「すすめ北前船」第10回(有田町) 

 

「すすめ北前船」第10回(有田町) 

2月16日と23日のゲスト蒲池孝典さんは 東西古今 明治伊万里研究所の代表取締役でギャラリー花伝の運営もされている方です。
写真提供 蒲地孝典さん
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 東西古今 明治伊万里研究所の代表取締役の蒲池孝典さんは、ギャラリー花伝の運営もされ、

明治古伊万里の「美」の世界を語っています。


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  古伊万里は、18世紀に入るとオランダからイギリスに貿易の主導権が移り、ドイツのマイセン、中国磁器が活躍するようになり、古伊万里は国内に活路を見出します。

 その結果、高級品から庶民向けまでの伊万里焼が、伊万里港から全国に船で運ばれ、大阪の佐賀藩指定の卸問屋にも運ばれます。
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 伊万里焼は、大阪からも全国に運ばれ、小浜、三国、福浦(石川)佐渡、酒田、松前では、大量の古伊万里が発見されています。


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 古伊万里が、ヨーロッパに大量に輸出された18世紀末迄が第一の黄金期だといい、第二期は、幕末パリ万博に伊万里焼の出品がきっかけです。
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明治始めは、文明開花の言葉がはやり、明治政府の日本の伝統美の推進、輸出拡大政策から黄金期でした。
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 西洋食器の文化を融合させた明治古伊万里が、明治16年鹿鳴館で使われた事から輸出が加速します。

 しかし大量に生産が出来なかった事から、価格競争に負け明治末に現在のノリタケに生産が移転されます。f:id:chopini:20190712213656j:image

まだ帆船の時代に、佐賀の小城藩主から蒸気船「大木丸」を与えられた久富 与平昌起を紹介しています。与平は、海運と貿易で五大州を廻らんと望んでおり、

 佐賀と釧路航路でも活躍していた与兵の大木丸は、明治初め千島沖で難破し半年余り漂流し病死する。

 この時、「遺体は海中に投ぜよ。死後長鯨に跨って初志を遂げん」と言い残していたといい、有田町の報恩寺には、鯨をかたどった台座に与平の碑が建っていると語っています。
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その後、佐賀の武富善吉が釧路で活躍し、釧路で知らない人はいないとの放送でした。