「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「名城巡りと北前船の旅」第50回⑪萩城~村田清風

⑪萩城~山口城

 関ヶ原で破れた西軍総大将毛利輝元氏は、広島城から、周防 長門の2か国に大幅減封され萩に築城した。

長州藩は、日本海側の萩に築城(日本100名城)した当初から財政難だった。

   (2019,5)

 それが、村田清風の北前船が必ず通る下関等の改革の成功で、豊かな藩になったことを、
日本100名城巡りで行った萩博物館で初めて知った。 
そこで清風の改革から明治維新までを、長門市、防府市、山口市の専門の方にゲスト出演をお願いした。

 
 まず、「村田清風」について長門市村田清風記念館の中野和典館長にお話して頂いた。

 (萩博物館で2019.5)
 中野さんは、「志があっても資金がなければ明治維新は成功しなかった」
と、吉田松陰、高杉晋作のように知られていない村田清風を語る。

 

 村田清風博物館提供

参勤交代等の幕府の各藩に対する弱体化政策、天保の飢饉、更に厳しい年貢の取り立てや特産品の販売規制から、
大規模な一揆が多発していた。

 これに、天保7年、3人の藩主の葬儀で莫大な出費が重なり、220万両に借金が膨らんでいた。

  第13代藩主・毛利敬親は、藩財政から立て直すため、55歳だった村田清風を登用し、三田尻塩田の拡大や交易港の整備を進めた。  


    中野和典さん提供

 清風は、北前船が必ず通過する関門海峡の下関に越荷方(金融・倉庫業)を設置し、北前船の積み荷の海産物や米等を買い取り、藩の倉庫に一旦保管した。   
 相場を見てこれらを大坂に回漕し、藩の蔵屋敷の出入り商人に売りさばくが、これは藩営の貿易会社だった。

 北前船の船頭からの倉敷料・手数料・前渡し金の利子なども藩の収入源になった。
清風は、ハゼの木のロウを加えた「四白政策」(和紙・ロウ・米・塩)を、
打ち出し自由に販売を認めるなど次々に規制緩和をし財政の立て直しに成功する。 
 
三田尻では、塩の新たなビジネスを考案している。
 
次に、防府市三田尻塩田記念産業公園の芝口英夫園長お話していただいた。
 赤穂から瀬戸内海の全域に広がった新しい「入浜式塩田」により、
三田尻は赤穂に次ぐ塩の大生産地となったと語っている。
 
入浜式塩田のしくみ(防府市おもてなし観光課提供)
瀬戸内海で日本海に一番近かった三田尻の塩は、1800年頃から松前や江差にも運ばれ、北海道では塩といえば三田尻塩になっている。

 防府市おもてなし観光課提供

 現在三田尻塩田は、煙突2本が残り記念産業公園になっている

 (芝口英夫さん提供)

 この公園は子供達の塩つくり体験は人気スポットで、跡地は東京ドーム75個分もあり、ブリヂストン、マツダとその関連企業が進出している。

 
 清風の天保の改革から20年余り、財政が豊かになり1863年幕府に秘密で萩城から内陸の山口城に藩庁を移し、
明治維新への扉を開く事になる。
 そこで山口城近くの「十朋亭維新館」の立石智章学芸員のインタビューを紹介します。
  十朋亭維新館は、醤油の商いを営んだ豪商・萬代家十朋亭の離れを改修したもので、伊藤博文、井上薫も宿泊していたと話す。

    十朋亭維新館提供
  長州藩は、萩の明倫館の他、各支藩でも早い時期から藩士の教育と人材育成に力を入れ、改革の潤沢な資金で1863年5名をイギリスに密航留学させた。
 この5名が、伊藤博文の「内閣の父」井上馨は「外交の父」遠藤謹助は「造幣の父」山尾庸三は「工学の父」(東大工学部の前身工部大学校の工学頭)井上勝は「鉄道の父」と明治に入り活躍している。
 この5傑は長州5ファイブとして映画化された。

 更に1865年イギリスから大量の武器を密輸入し倒幕に備えた。
 1868年明治維新をむかえたが尚100万両の資金で新政府に貢献した。

 
太神宮(山口大神宮)十朋亭維新館提供

文久3年(1863)、長州藩の藩庁が萩から山口に移った頃

この十朋亭維新館では、ARアプリ、資料も使い維新期の長州藩、山口地域の歴史を紹介している。

今回のインタビューから長州藩の改革が、北前船に関係しそれが明治維新につながる好循環になっていたのがわかった。



参考文献

『防長風土注進案』

『ひとづくり風土記山口』