寄港地と名城めぐりの旅②山形城
山形市観光協会で山形城のガイド大貫和春さんのインタビューを参考に文献からも紹介します。
(掲載写真はシリーズ第1部)
大貫さんは、山形市で講演があったわらび座の「北前船ザブリンコ」の感動も語っている。
その後、山形城下の十日町~七日町界隈に進出した近江商人の活躍そして、三万食の日本一の芋煮会フェスティバルの芋煮の食材について、内陸の山形と、日本海に面した酒田との違う例や、言葉の違いも紹介している。
また名城巡りの醍醐味の一つ、地元のガイドの案内にとっておきの話がある事も紹介している。
私にもそんな経験が福井市の丸岡城であった。三国港の権益をめぐる福井藩と丸岡藩の争いで、港と城のあまり知られていないエピソードは、とっておきのガイドの話だった。
大貫さんの話から、文献を探すと、『新潟・兵庫連携企画図録 北前船』に山形での近江商人の活躍のついては記述があった。
日本三大急流の一つ最上川上流から、舟で紅花を酒田港まで運び、更に上方に運んでいた近江商人は紅花交易で富を得ていた記述が紅花で日本遺産になったサイトに紹介があった。
近江八幡の西谷善九郎家は、京都四条室町の紅花問屋伊勢屋源助と取引を重ね、西谷家から紅花、伊勢屋からは京細物などが販売された。
善九郎家は、寛文6年(1666)西谷善太郎家から分家し、〈ヤマダイ〉の家印をもつ西屋の屋号で山形に出店。
山形市内には、紅花交易で伝わった上方の座敷蔵文化が今も残り、山形の秋の風物詩の芋煮会、山形の食卓に欠かせない〈おみづけ(近江漬け)〉など、食文化にも影響を与えた。
近江商人は、この稼いだ資金で松尾芭蕉の句で有名な立石寺(りっこく)など手厚い寄進をおこなうなど、山形藩の財政にも貢献していた。
城下には、武士だけでなく商人も集まり発展する。川や港がある城下では、舟や廻船を通じて商いが活発になった例が山形城下にもあった。
大貫さんとは、日本100名城巡り最難関と言われるアイヌの砦跡「根室半島チャシ跡群・ヲンネモトチャシ跡」で一緒だった。
根室では、高田屋嘉兵衛の銅像がある根室金刀比羅神社では、前田康宮司から北前船や北方領土の話があった。
大貫さんは、日本100名城巡り2817番目の達成者である。その直前、赤穂城近くで祝杯をあげた。名城100巡りで出会った唯一の方だったので達成した記念にFM番組で語って頂いた。