松前町教育委員会の佐藤雄生学芸員のインタビューから紹介します。
佐藤さんは、藩主蠣崎(かきざき)氏が徳川政権に入る頃に蠣崎姓から松前姓に改称したと、最北の城下町松前を紹介しています。
松前氏(蠣崎)は、1600年海岸に近い福山の地に引っ越し、1606年城を完成させた。
当初は、福山館とよばれていたが、領民には松前城とよばれていたそうだ。
福山館築城から200年後、北方警備の必要から 幕府は1807年(文化4)から1821年(文政4)の短い期間、伊達染川(福島県)に領地替えをした。
松前藩復領後、北方警備の為に沢山の人が松前藩に召し抱えられたことで、生活のために大量の陶磁器が消費された。
こうして古伊万里が、筑前芦屋(福岡県)の「旅行商人」によって運ばれた。
松前城を発掘調査したところ、16世紀末~19世紀後半の唐津焼や古伊万里が発見されている。これは、佐賀県立九州陶磁器芸文化館の鈴田由紀夫館長から頂いた『初期伊万里展2004』に掲載されている。
この頃から九州との間で船での交易があったのがわかる。
佐藤さんに推奨された『松前町史通説編』には、松前藩は、元禄・享保期(17世紀ー18世紀初頭)に場所請負制度を確立させたとの解説がある。
この制度で、入札により運上金を支払った者だけが漁場経営が出来る仕組みを確立し、
場所請負人の活動地域が蝦夷地の東西に拡大していく。
松前町史には幕末期の場所請負人の、松前商人(磐城飯坂出身)佐藤栄右衛門と近江商人、西川伝右衛門を紹介し、西川家の具体的な事例をあげている。
松前藩復領後は、磐城飯坂つまり会津藩の商人か松前で活躍しており、会津藩の人達の蝦夷地での活躍は、明治維新以前からだったのがわかつた。
日本海と太平洋の結節点で本州に一番近かった松前藩では、米がとれなかったことから本州ではみられない農業に立脚しない政策が多くあった。
船の接岸に有利な海岸線に商人を住まわせる政策もそのひとつだ。
場所請負商人が漁場においてアイヌ民族や和人を使役し、そこで獲れた豊富な海産物を松前城下に運び、出入りの商品に課税する。
このアイスとの交易が、鎖国下4つの口の一つである(対馬-朝鮮・薩摩ー琉球・長崎ーオランダ中国)
すべては、徳川幕府により、蝦夷地での徴税権・交易権を認められた松前藩主松前家のもとで管理されていた。
北前船拡大機構の公式HPには、入港税、出港税について松前藩の例が掲載され、藩財政を支える大きな柱になっていたとの記述がある。
松前城資料館には、270年前の松前屏風のレプリカが展示されている。(写真)
この他、北前船の船頭だった松本家の資料から長者丸の幟旗が展示され、いずれも北前船の日本遺産構成文化財である。
この幟旗は、ハワイにまで流された長者丸とは違うと、佐藤さんから聞いた。
このほか北前船関連のものが展示され、日本100名城の中で唯一北前船関連の資料が城内に展示されている。
松前城には、写真のバス停で下車して行ける。
お城と港の深いかかわりがあるのは、赤穂の他この松前城で確かなものになった。