『名城巡りと北前船の旅』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の企画し紹介している

「すすめ!北前船」第13回(下津井)

「すすめ!北前船」第13回

 今回は、倉敷市の「むかし下津井廻船問屋」の矢吹勝利館長だった2017年8月と2018年3月、そして2019年4月、下津井シービレッジプロジェクトのセンター長として話をして頂いた。
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児島半島の先端の下津井は、かっては「吉備の児島」と呼ばれた島で、本州との間に「吉備の穴海」(写真)の南に位置していた。

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    (児島駅前で)
 この「吉備の穴海」に、高梁川旭川、吉井川の3つの一級河川から、流れてきた土砂で海はだんだん浅くなっていく。
 岡山藩主の池田氏が、下津井城を大改修(と同時に城下町として町を整備する中、「吉備の穴海」の埋め立てを加速させ陸続きになる。(1618)。

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 下津井城跡 2018.4

  しかし、幕府の「一国一城令」で下津井城は廃城(1639)され、下津井は城下町から港町として発展する。

 塩分を含んだ広大な干拓地では、米の栽培は難しく、綿、藍、井草の生産された。

その肥料として大量のニシン粕が必要で、下津井港にニシン粕を積んだ北前船が沢山寄港するようになる。この付近はもともと、瀬戸内海で最も海流が激しく操船がかなり難かしかった事から、潮まち港として下津井が賑わうようになる。

80隻の帆船の入港で花街としても賑わい、その一つに下津井節があり今では 下津井節全国大会もあるという。

 この繁栄も日露戦争(1905)までで、北前船は全国的に衰退、下津井港も大型船は激減、綿も外国からの流入とで打撃を受ける。

 こうした中、1916年に学生服を開発、戦後は倉敷のジーンズがブランドで「繊維の町」として全国に知られます。

 2018年3月放送では、平成に入り瀬戸大橋開通から、岡山県が児島地方の観光の拠点にと、廻船問屋を営んでいた中西家の縫製工場跡に「むかし下津井廻船問屋」を開いた背景を紹介している。

 2019年の放送では、 この館長として活躍していた矢吹さんに、地元の方々から過疎化、空き家に対する対策への相談が多く寄せられたという。

 この対策に地元の方々の後押しもあって出来たのが、矢吹さんが中心になり企画した下津井シービレッジプロジェクトだ。

このプロジェクトは、漁業協同組合等多くの地元の方々の協力で下津井廻船問屋の横に

2019年4オープンした。

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(2019年5月 下津井フェスティバル 矢吹さんは前列右側)

 最近は、若い人が移住するケースがあり、対岸の直島から下津井に外人が来ることが多くなったという。

 このニシン粕と綿そして北前船の繋がりから、倉敷市石狩市の子供達の交流学習を北海道新聞が報道しています。これをブロデュースしたのが石狩市の石黒龍一さん。f:id:chopini:20191024175507j:image

  写真 石黒隆一さん提供

これをまとめた冊子「北前船全国こども調査団ブック2018」は38市町に11月に配布された。瀬戸内海では、呉市御手洗、倉敷市下津井、赤穂市坂越で実施された。

 倉敷では、こども新聞のキッャチフレーズが、「鰊粕と綿で栄えた港町の歴史」に対し、石狩では「石狩に来た北前船は行きも帰りも宝船」。 石狩厚田の登り船の積み荷のニシン粕が、綿の肥料として下津井では重宝され世界のジーインズが誕生する。

 下津井は、金比羅参りでも栄え後方の岡山より前面の四国や塩飽と関係が深かった事も紹介しています。
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 2018年3月放送の翌月、紹介された下津井祇園神社にも行き、赤星宮神社の創建にもかかった塩飽の大工の棟梁の話を聞いた。

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 下津井には、2015年秋に初めて行き当時の矢吹館長に下津井の北前船の活躍を案内していただいた。