「すすめ!北前船」第13回

児島半島の先端の下津井は、かっては「吉備の児島」と呼ばれた島で、本州との間に「吉備の穴海」(写真)の南に位置していた。

しかし、幕府の「一国一城令」で下津井城は廃城(1639)され、下津井は城下町から港町として発展する。
塩分を含んだ広大な干拓地では、米の栽培は難しく、綿、藍、井草の生産された。
その肥料として大量のニシン粕が必要で、下津井港にニシン粕を積んだ北前船が沢山寄港するようになる。この付近はもともと、瀬戸内海で最も海流が激しく操船がかなり難かしかった事から、潮まち港として下津井が賑わうようになる。
80隻の帆船の入港で花街としても賑わい、その一つに下津井節があり今では 下津井節全国大会もあるという。
この繁栄も日露戦争(1905)までで、北前船は全国的に衰退、下津井港も大型船は激減、綿も外国からの流入とで打撃を受ける。
こうした中、1916年に学生服を開発、戦後は倉敷のジーンズがブランドで「繊維の町」として全国に知られます。
2018年3月放送では、平成に入り瀬戸大橋開通から、岡山県が児島地方の観光の拠点にと、廻船問屋を営んでいた中西家の縫製工場跡に「むかし下津井廻船問屋」を開いた背景を紹介している。
2019年の放送では、 この館長として活躍していた矢吹さんに、地元の方々から過疎化、空き家に対する対策への相談が多く寄せられたという。
この対策に地元の方々の後押しもあって出来たのが、矢吹さんが中心になり企画した下津井シービレッジプロジェクトだ。
このプロジェクトは、漁業協同組合等多くの地元の方々の協力で下津井廻船問屋の横に
2019年4オープンした。
(2019年5月 下津井フェスティバル 矢吹さんは前列右側)
最近は、若い人が移住するケースがあり、対岸の直島から下津井に外人が来ることが多くなったという。
写真 石黒隆一さん提供
これをまとめた冊子「北前船全国こども調査団ブック2018」は38市町に11月に配布された。瀬戸内海では、呉市御手洗、倉敷市下津井、赤穂市坂越で実施された。
倉敷では、こども新聞のキッャチフレーズが、「鰊粕と綿で栄えた港町の歴史」に対し、石狩では「石狩に来た北前船は行きも帰りも宝船」。 石狩厚田の登り船の積み荷のニシン粕が、綿の肥料として下津井では重宝され世界のジーインズが誕生する。
