(2019.5)
本島にある塩飽勤番所跡は、昭和45年国指定史跡になり、天皇陛下が昭和57年、学生時代に水運のご研究のために立ち寄られ、勤番所跡に「雲間より志ののめの光さしくれば 瀬戸乃島々浮出にけり」の歌碑がある。
白木さんは、「北前船・船主集落」で日本遺産申請するにあたり多度津の北前船を調査されている。
多度津藩は、元禄7年(1694)丸亀藩から分家した1万石の小藩だった。文政10年(1827)に陣屋を置いた後、天保9年(1838)、巨費を投じて桜川下流の港を整備した。
そのため多度津港は北前船等の商船の発着港、金毘羅参詣者が降り立つ港として発展する。参拝客は、港から南に延びる「多度津金毘羅街道」を通り金毘羅詣りをした。
(2019.5)
多度津港から積み出されたものは、特産品の讃岐3白(塩・砂糖・綿)や、天霧山の天霧石がある。
宇多津や讃岐荘内半島の塩田で塩が生産されていた。赤穂藩は、この地域など瀬戸内海各地に入浜式塩田を伝授していた。
(多度津町立資料館内 2019年5月)
多度津町立資料館には、高見八幡宮に奉納された北前船の模型(写真)が展示されている。宝暦5年(1755) の弁財船で、香川県で最も古く全国では3番目に古いという。この北前船の模型は、日本遺産北前船関連資料群の一つである。
金毘羅鳥居一の鳥居 白木亨さん提供
そのほか構成文化財に、旅館跡・廻船問屋住宅跡・蔵・金毘羅街道に残る鳥居(現在は町内の桃陵公園に移設)・常夜燈(金毘羅燈籠)等、全部で12ある。
金毘羅鳥居三の鳥居 白木亭さん提供
最後は、琴平町の金刀比羅宮の元禰宜(ねぎ)で現在相談役の科野 齋さんに話して頂いた。
香川県琴平町の象頭山(海抜521m)の中腹に鎮座する金刀比羅宮(ことひらぐう)は、(こんぴらさん)の俗称で呼ばれ、漁師、船員などが航海安全を祈願する海の守護神として信仰され、全国に800ほどある金刀比羅の総本宮社である。
江戸中期ごろから金刀比羅詣が盛んになり、上方から「こんぴらさん」に行くには、大坂淀屋橋からは船で丸亀港、西からは多度津湊から渡り、ここで一泊してから徒歩で金刀比羅宮に参る。
その夜は、この門前町で芝居や豪遊を楽しみ、帰りは船で大坂へは下津井湊(岡山県)に渡り、山陽道で帰っていたという。
(2015年.7)
参道には旧跡や文化財があり、土産店や飲食店などが建ち並ぶ。参道入口から御本宮までの石段の数は785段、さらに奥社までは583段あり、総数1,368段におよぶ。
表書院(重要文化財)には円山応挙の虎の襖絵(重要文化財)、奥書院(重要文化財)には伊藤若冲の「百花図」があり、絵馬堂には嘉永3年(1850)の北前船(松栄講)の絵馬など、合わせて文化財は1725点に及ぶ。
この中には、南越前町のブログで紹介した右近家が明治21年に奉納した絵馬がある。これは、大阪の絵馬屋藤兵衛の作品で、色も鮮やかで素晴らしい大作だという。
この他、京都の近江商人が奉納した絵馬や、さまざまな方向から描いた異彩を放った絵馬もある。この他、北前船の模型・正月船の奉納は、正月に床の間に飾り楽しんだもので、山陰地方の風習で嫁入り道具のひとつであったという。
また、前述した多度津港と同様の北前船寄港地の一つ、山形県酒田で鋳造された3メートルにおよぶ銅製の灯篭もある。
瀬戸内海を航行する船は、「こんぴらさん」が見えると航海安全の願いを込め、金刀比羅宮の旗を立て、お賽銭や酒を入れた樽を海に流す「流し樽」と呼ばれる代参の風習があり、現在も年に数回あるという。
この樽を拾った船乗りは、「こんぴらさん」へ奉納するというもので、樽を流した人も届けた人にも御利益があるといわれている。
1年間の行事で最も重要な御祭「大祭」は10月に行われ、頭人を先頭に行列が1キロに及ぶ勇壮な祭りである。
金刀比羅歌舞伎で有名な歌舞伎小屋(天保6年築)は、改修され重要文化財になっている。昭和60年から歌舞伎が毎年開催され、この催しのある時は、8000人の琴平町に10万人が訪れるという。
「しあわせさん こんぴらさん」がキャッチフレーズになっている事を、科野さんは最後に話していた。