『名城巡りと北前船の旅』

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」の企画し紹介している

名城巡りと北前船の旅 第40回 ①赤穂城

名城巡りと北前船を巡る旅 ①赤穂城

まず 赤穂市教育委員会の荒木幸治学芸員赤穂城、赤穂塩、塩廻船の繋がりを語って頂いた。

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 荒木さん出筆の書

 徳川政権の「一国一城令(1615年)」で廃城が増えた中、経済的な効果を重視し、

川・海の近くへの築城で舟運、廻船で栄えた一つに赤穂がある。

  赤穂藩主池田輝興の不祥事で、1645年茨城の笠間藩から移封になった浅野長直は翌年から、入浜式塩田開発と築城を開始している。  

  池田家以来の塩田開発を加速させ、新たな入浜式塩田の成功で築城にも弾みがついたという。    

  大規模な塩つくりで、流通手段の発達を背景として赤穂城下は栄えそれを支える様々な商売をする人々が赤穂城下に移り住んだ。

 坂越浦では池田家の時代、長崎・愛媛・山口に漁場を求め、漁民が集団移住の記録がある。

しかし新塩田開発以降は、移住の記録はなく坂越浦でも塩の大量生産の恩恵を受けていたのが荒木さんの話からわかる。  
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(『赤穂城攻略』より)

 塩田は、赤穂城の西に西浜塩田(250ヘクタール)、東に東浜塩田(150ヘクタール)があり、西浜塩田は真塩、東浜塩田は差塩を生産していた。

 塩屋荒神社(日本遺産構成文化財)の境内の案内板に、真塩がにがりが少なく良質な塩であるとの紹介文がある。
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  真塩は高級品で主に柴原家が上方に運び食文化に貢献していた他、

上方では専売制をとり誰でも赤穂塩を買えなかった。

 差塩は水分を多く含んでいたが、江戸に運ぶあいだに俵から水分が抜け良質な塩にかわるという。  

  この大規模塩田開発で豊かな城下町になっていくが、3代目浅野長矩江戸城内での刃傷事件で浅野家の統治はわずか50年余りで終わった。

 この入浜式塩田は、1647年竹原(広島県)に伝授したのを皮切りに、その製法を瀬戸内海全域に教えた結果、生産過剰から塩田不況を招き、後の森藩主は財政難で長く苦労し改革で乗り切っている。

この塩田不況については、青山学院大学博士課程で赤穂塩を研究中の千原義春さんがこの番組で紹介している。(前シリーズ26回)

 赤穂城跡は1971年に国史跡に指定され、25000以上あるなか2005年に日本100名城に選定された。

 今なお発掘調査が行われていると荒木さんは語っている。

  

 


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 荒木さん(右の方)は、「お城EXPO 2018横浜」の赤穂城のブースを説明していた。

荒木さんが執筆した『赤穂城攻略』(2020年3月)も参考にしています。

 

続いて赤穂市立歴史博物館の木曽こころ学芸員です。

 

 この館では、常設展示「赤穂の塩」「城と城下町」「赤穂上水道」「赤穂義士」をしている。

 赤穂塩は「日本第一の塩を産したまち播州赤穂」のストーリーで日本遺産に認定された。

この構成文化財、製塩用具(国有形民俗文化財)、旧塩務局庁舎など41件がある。

 特産品の赤穂緞通そのひとつで、佐賀の鍋島緞通、大阪堺緞通と並び日本三大緞通で、明治7年に商品化された。

「日本第一の塩」の文言は、江戸後期赤穂を訪れた絵師で学者の司馬江漢の言葉からきている。

単独で日本遺産に認定された赤穂塩について、2020年11月~2021年1月、「播州赤穂の塩づくり」の特別展で、古代の土器製塩の時代から現代の日本海水㈱赤穂化成㈱まで赤穂の製塩の歴史を紹介している。

赤穂では、古代から製塩の歴史があり、土器製塩→塩尻法→揚浜式塩田→古式入浜塩田(自然地形を利用した入浜)があった。

 池田氏時代(1600年~)に塩田開発が始まり、浅野氏入封後(1645年)大規模入浜式塩田開発された。

 これには加古川下流域の荒井村・姫路の的形村等から入浜式塩田の最先端地域から塩業者を呼び寄せ、東浜塩田の開拓に当たらせた。

 これには、築城に伴う石垣構築技術が使われ、赤穂城の東に東浜・西に西浜に入り浜式塩田が出来たが、天候、潮の干満、千種川のデルタ地帯の環境があった。

 浅野氏時代(~1701年)東浜100ha・西浜35haの開拓で浅野家5万3千石は、塩田の収入で8万~10万石を有したと言われた。

 浅野家の後、森家の時代を経て幕末頃には赤穂藩領全体で東浜に約150ha、西浜に250ha、合計400haの入浜式塩田が完成し、江戸時代後期の赤穂塩の生産量は5斗入俵(45kg)は60万俵(27000トン)で、全国シェアの7%を占めた。

 赤穂塩は差塩と真塩の2種類があり、差塩は煎熬の過程で苦汁をさらに差し加えた塩で、全体の生産量の80%を占め、真塩は苦汁を極力排除した上質の塩で、生産量の0%を占めた

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 (赤穂市歴史博物館提供)

生産塩の70%は江戸に輸送され、そのほぼが差塩で江戸では人気だった。

真塩は大坂・京都などの上方を中心に流通し、日本の出汁文化に貢献した。

差塩は江戸へ坂越港から奥藤家が、御崎港から田淵家が、天保時代に船を建造し運んでいた。(立川国立公文書館の田淵家文書)

  塩廻船図(赤穂市歴史博物館 提供)

塩廻船は北前船と同じ弁財船だが、側面にその違いがある。

江戸に塩を運こぶのが主流になると、赤穂藩は坂越港正面に坂越浦会所を設け、塩や船の入出港の管理をしていた。

赤穂塩は「日本第一の塩を産したまち播州赤穂」で日本遺産に認定され、これを運んでいた坂越港は、「北前船寄港地・船主集落」で日本遺産に追加認定されている。

坂越浦会所は日本遺産構成文化財に指定されている。