「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

「北前船寄港地・船主集落の旅」第7回出雲崎(新潟県)

 新潟県出雲崎町の教育長・佐藤亨氏にFM番組でお話しして頂きました。
 
 2019年日本遺産認定式(大阪市) 左から2番目が佐藤教育長

出雲崎1616年佐渡からの金銀荷揚げ港として越後で初めて7万石の代官所天領)が置かれ、北国街道の宿場町で賑わった。1672年西廻り航路が開発されると、出雲崎北前船が寄港し交易でも栄える港となった。

それが、奥行きの長い妻入り家屋が街道沿いに3.6キロ続く町並みとして残り、当時は2間や3間半の狭い間口の廻船問屋街や旅館街があったという(日本遺産構成文化財)。


出典 新潟観光ナビ

出雲崎町の日本遺産構成文化財にこの他、北前船関連資料、豪商・敦賀屋、熊木屋の文書や、船模型、船鑑札がある。


 (東京都立図書館蔵)
 佐藤さんのお話から、『出雲崎町史・海運資料集』を調べたところ、敦賀屋・熊木屋等の入船記録は、薩摩のほか坂越(赤穂市)では知られていない奥藤家の北前船の足跡があった。

 やがて日本遺産構成文化財出雲崎おけさ」の話になる。これは熊本牛深港から北前船で伝えられたハイヤ節と地元のおけさが融合したもので、「牛深ハイヤ節」とよく似た歌詞があるという。

出雲崎おけさ」の歌詞に良寛のことも唄われている。

「オーヤオヤオヤ。
  越後出雲崎良寛様は 破れ衣に鉄鉢持ちて 子ども集めて毎日々々
  手毬つくやらかくれんぼ 鬼にされてもその身は仏 仏心にソーレ 鬼はない」

 調べてみると、良寛は1758年、海上の通行権をもつ越後屈指の廻船問屋(橘屋)の長男として生まれ、廻船問屋橘屋を継ぐために18歳で名主見習いをしている。

しかし2年後、親の反対を押し切り出家、その後、瀬戸内海の玉島(現倉敷市)・円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め移住し12年の修行後、諸国をめぐっている。

 
出典 国土地理院

 出雲崎町は、8年程前から倉敷市玉島の「良寛会館」で、良寛の遺墨や良寛を敬慕する日本画家の作品展示を企画し、佐藤教育長、良寛記念館 永寶卓館長らが参加している。

 

 出雲崎町良寛記念館永寶卓館長と佐藤教育長(倉敷市玉島で2019.11)


続いて、その倉敷市から日本遺産推進室・藤原憲芳さんに話していただいた。
藤原さんは、2回にわたりブラタモリで案内役を務めている。

 藤原さんによると、備中松山城日本100名城)の初代藩主水谷勝隆が、飛び地だった玉島の地形に着目し、点在する小さな島々を干拓し、堤防を築き玉島港を開いている。この玉島港と高梁川の間には「高瀬通し」といわれる運河も造っている。

 海岸沿いの堤防には商家や土蔵が次々と建てられ、43の問屋やその蔵が立ち並んでいたという。残っている町並み保存地区は、日本遺産構成文化財に認定されている。

良寛会館の前から見る玉島のまち並み(2019,11)
 
かつて海岸沿いの堤防に北前船が横付けし、綿花の肥料・〆カスが北海道から運ばれ、積み荷を降ろしていたと話す。
 最盛期は西の浪速といわれ、備中一の賑わいだったという。

備中松山藩は良質の砂鉄がとれたことから「備中鍬」の特産品を、高梁川の舟運で35キロメートル下流の玉島港から江戸、大坂に運び山田方谷財政再建を果たす事になる。


高梁川の舟運 国土交通省のHPより

玉島には、廻船問屋に関連する「書」と「茶」と「和菓子」の文化が多くのこされている。江戸期は400程の茶室があり、廻船問屋や船主のもてなし等の商談に使われた。
 現在も、40の茶室が保存され、茶の湯文化が生活に根を生やしている。
 
 毎年春に良寛茶会が開かれ、良寛は玉島でも親しまれている。

 新幹線新倉敷駅(旧玉島駅)の良寛像(2019.11)

 その玉島は埋め立て地で綿花栽培していたことから倉敷市は「一輪の綿花から始まる倉敷物語」のストリーでもが日本遺産に認定されている。