小坂実さんは、利尻で生まれ育ちで、NPO法人利尻ふる里島ずくりセンターの理事長をされている方。
以下の内容は、『北前船浪漫紀行第1部」としてkindle版と書籍をアマゾンから発売していますので記事はそちらからからご覧下さい
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2021年1月の放送は、前半「江差いにしえ資源研究会」代表の室谷元男さん。
今回は、室谷さんの紹介で江差追分会館の元館長・松村隆氏(95才)のお話を紹介する。
松村さんは著書『江戸花街風土記』(2021.1月文芸社発行)から、江差の庶民文化、芸能について語っている。
かって江差の浜小屋は、北前船で賑わう花街の中心にあり、何十軒もの茶屋があった。 この花街にあった芸が江差の文化の根源になり、これが江差追分へと発展していったという。
この表紙は300年前の江差屏風で、この町で暮らしに根付いた人々の生き様を松村さんは詳しく語っている。
松村隆氏の書籍(明楽さん提供)
掲載の写真は ゲスト室谷元男さん提供。
室谷さんは、「いにしえ街道歴史まち商店街」の立役者で「江差いにしえ資源研究会」代表として活躍されている。
(2010年に明楽さんが立ち上げた「現代版北前船プロジェクト」)
鐙啓記さんは(一般社団法人)現代版北前船プロジェクト副理事長で、2021年5月の放送では最近の秋田を語っている。
男鹿市・戸賀湾の海底でいかり7本が発見され、これについて木造船研究の神奈川大の昆政明特任教授が「北前船」のものと分析されたことから、今後の研究に期待を寄せていた。
熊本牛深から秋田にかたちを変えて伝えられた「大正寺おけさ」は、日本遺産構成文化財の一つで、このシリーズ第56回『牛深ハイヤ節』で紹介している。
また秋田に運ばれた石が、どの寄港地から運ばれた石かDNA解析で分析が可能になった話もある。
更に、江差の松村隆氏の書籍(写真)にもふれ、現在90才の氏の活躍を称賛している。
鐙さんは(一社) 現代版北前船プロジェクトの副理事長として、
全国の北前船の寄港地を訪問し、再び写真を撮りたいと語っている。
2018年の放送では、NPO法人あきた地域資源ワーク理事長として出演され、2000年から2001年にかけ全国の北前船寄港地200箇所を取材し、出版した詳細を語っている。
坂井市の北前船寄港地フォーラムで、作家の加藤貞仁さんが、写真家と延べ80日かけ北前船の寄港地を取材した話をしていましたがこの写真家が鐙さん。
掲載されている400枚近い写真は、全て鐙さんが撮ったものである。
ブログでも坂越の大避神社の生浪島宮司の話として、日本で2番目に古い絵馬があると掲載。
当時、北前船の活躍の歴史を知らない地域がたくさんあり、北前船の関係の書籍は大学等の研究者しか読めない現実が、出版のきっかけだったという。
北前船寄港地の日本遺産認定で、北前船にダイナミックな動きがでてきたと〜
市町史の中に北前船の記述が少ないことから、この書籍が自治体のバイブルのようになり、出版した意味が出てきたと語る。
2018年の夏休み、日本財団、地域のテレビ局の協力を得て秋田市土崎の小学生5年生を対象に北前船の勉強会で壁新聞をつくる企画に、鐙さんがお手伝をしている。
2017年の放送は6月と12月で12月の後の後、神奈川大学の昆正明特任教授を明楽さんと鐙さんが訪ねている。
神奈川大学常民文化研究所で案内する昆特任教授と鐙さん(右側)
鐙さんが、北前船の本を出版する時、昆氏に 船の基礎的な事を教わったという。
昆氏は民族学専門の常民文化研究所がある神奈川大学の特任教授。
インタビューでは、常民文化の研究で知られている宮本常一の話もある。
常一は全国を歩き、地元の専門家に生活や歴史を取材し『私の日本地図』のシリーズがある。その⑫『備讃の瀬戸付近』では、坂越の港についても写真入りで掲載されている。
無明社の編集長だった鐙さんも、全国の北前船の寄港地を車で取材し、ブログそして書籍『北前船おっかけ旅日記』を出版された。
寄港地での取材の裏話、夜は地元の方と酒を飲み交わし、美味しい食べ物も紹介している。
鐙さんは活動中のジオパークの話では、現在全国43地域のジオパークの中で10ヶ所程が北前船寄港地にある。ジオパークと北前船で繋げ、北前船に詳しい方を増やしていきたいとその想い語っている。
2017年11月鳥取での北前船寄港地フォーラムで、来賓として挨拶された石破茂衆議院議員も、地元鳥取の北前船についてよく知らないと挨拶の中で語っている。これは、義務教育で北前船を深く取り上げて来なかったかもしれない。
そんな中、北前船寄港地の日本遺産認定で、北前船拡大機構の企画から義務教育の現場から子供達に伝え残す取り組みが日本遺産認定地域であった。
小樽に子供達が集まり北前船の勉強会をした話から、北前船の発着地大阪から北前船の企画をしたいと明楽さんと語る。
2017年6月の放送では、2010年の「現代版北前船プロジェクト」を立ち上げ
この50日程前、北前船寄港地が初めて日本遺産に登録された。秋田市が最初に認定されたが、鐙さんは土崎港の事前調査で報告書を提出する等、秋田市の日本遺産認定に協力をしている。
「すすめ!北前船」第13回
児島半島の先端の下津井は、かっては「吉備の児島」と呼ばれた島で、本州との間に「吉備の穴海」(写真)の南に位置していた。
しかし、幕府の「一国一城令」で下津井城は廃城(1639)され、下津井は城下町から港町として発展する。
塩分を含んだ広大な干拓地では、米の栽培は難しく、綿、藍、井草の生産された。
その肥料として大量のニシン粕が必要で、下津井港にニシン粕を積んだ北前船が沢山寄港するようになる。この付近はもともと、瀬戸内海で最も海流が激しく操船がかなり難かしかった事から、潮まち港として下津井が賑わうようになる。
80隻の帆船の入港で花街としても賑わい、その一つに下津井節があり今では 下津井節全国大会もあるという。
この繁栄も日露戦争(1905)までで、北前船は全国的に衰退、下津井港も大型船は激減、綿も外国からの流入とで打撃を受ける。
こうした中、1916年に学生服を開発、戦後は倉敷のジーンズがブランドで「繊維の町」として全国に知られます。
2018年3月放送では、平成に入り瀬戸大橋開通から、岡山県が児島地方の観光の拠点にと、廻船問屋を営んでいた中西家の縫製工場跡に「むかし下津井廻船問屋」を開いた背景を紹介している。
2019年の放送では、 この館長として活躍していた矢吹さんに、地元の方々から過疎化、空き家に対する対策への相談が多く寄せられたという。
この対策に地元の方々の後押しもあって出来たのが、矢吹さんが中心になり企画した下津井シービレッジプロジェクトだ。
このプロジェクトは、漁業協同組合等多くの地元の方々の協力で下津井廻船問屋の横に
2019年4オープンした。
(2019年5月 下津井フェスティバル 矢吹さんは前列右側)
最近は、若い人が移住するケースがあり、対岸の直島から下津井に外人が来ることが多くなったという。
写真 石黒隆一さん提供
これをまとめた冊子「北前船全国こども調査団ブック2018」は38市町に11月に配布された。瀬戸内海では、呉市御手洗、倉敷市下津井、赤穂市坂越で実施された。
倉敷では、こども新聞のキッャチフレーズが、「鰊粕と綿で栄えた港町の歴史」に対し、石狩では「石狩に来た北前船は行きも帰りも宝船」。 石狩厚田の登り船の積み荷のニシン粕が、綿の肥料として下津井では重宝され世界のジーインズが誕生する。
「すすめ北前船」第12回(小樽1)
2018年3月16日のゲストは、札幌在住の佐藤美智夫さんで小樽の旧青山別邸への想いを語っています。
(写真提供 にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸))
小樽市に残る旧青山別邸(貴賓館)は、3代目17歳の青山政恵が、酒田の本間邸に魅せられその夢を、初代の青山留吉と政吉の親子二代が、鰊漁で巨万の富を得た資金で叶えたものです。
旧青山貴賓邸は、大正6年から6年余りをかけ建てられ、平成22年国の登録有形文化財に登録されています。
約1500坪の敷地内に木造2階建ての190坪の建坪で、6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに異なった趣きにとロマンがあると明楽さんが案内しています。
高い天井がある貴賓館の一角で、チェンバロ演奏をしたお礼の挨拶からインタビューが始まります。
佐藤さんが、40歳の時この青山別邸を見て気に入り、持ち主と会って2か月もたたないうちにこの別邸を譲り受けたといいます。
この時、東京や大阪からも話がある中で、佐藤さんが管理する事になった、佐藤さんの想いや情熱が持ち主に伝わったのがわかります。
大正時代の造り方材料、直し方にもこだわり、昔のままを保つ事に力を注いで来られた中で瓦修復をしています。
それは10年前程前の事で使う瓦、瓦の下の木にもこだわった瓦職人の気概を熱く語っています。
瓦の下の木は腐っているはずと、現代の木ではなじまないからと、大正時代の木にもこだわり、瓦も当時の焼き方で焼いた瓦をでないと修復はしない兵庫県の瓦職人をたたえていました。
佐藤さんは、時代の木を探しだし、24000枚の瓦を4か月半かかったと語っていました。
この青山別邸は、山形県から60人程の宮大工や建具職人等が建造に関わり、高い天井の板は紀元前4世紀の鳥海山の木、廊下や柱、階段などの木は、神代杉、屋久杉など、北前船で運ばれていたといいます。
各部屋には絵や工芸品の数々が展示されています。
佐藤さんが自ら手入した牡丹400株、芍薬は37種300株、ゆり300株、アジサイが600株が、次々と綺麗に咲いている庭からも情熱が伝わってきます。
ニシンは、食べるだけでなくそのカスは肥料として北前船で運ばれ、これが日本の農業の発展に貢献していたと語っています。
この鰊カスを肥料にして、綿の生産から更に発展させた倉敷市児島地区の下津井の話につながります。
「すすめ北前船」第10回(有田町)
2月16日と23日のゲスト蒲池孝典さんは 東西古今 明治伊万里研究所の代表取締役でギャラリー花伝の運営もされている方です。
写真提供 蒲地孝典さん
東西古今 明治伊万里研究所の代表取締役の蒲池孝典さんは、ギャラリー花伝の運営もされ、
明治古伊万里の「美」の世界を語っています。
古伊万里は、18世紀に入るとオランダからイギリスに貿易の主導権が移り、ドイツのマイセン、中国磁器が活躍するようになり、古伊万里は国内に活路を見出します。
その結果、高級品から庶民向けまでの伊万里焼が、伊万里港から全国に船で運ばれ、大阪の佐賀藩指定の卸問屋にも運ばれます。
伊万里焼は、大阪からも全国に運ばれ、小浜、三国、福浦(石川)佐渡、酒田、松前では、大量の古伊万里が発見されています。
古伊万里が、ヨーロッパに大量に輸出された18世紀末迄が第一の黄金期だといい、第二期は、幕末パリ万博に伊万里焼の出品がきっかけです。
明治始めは、文明開花の言葉がはやり、明治政府の日本の伝統美の推進、輸出拡大政策から黄金期でした。
西洋食器の文化を融合させた明治古伊万里が、明治16年鹿鳴館で使われた事から輸出が加速します。
しかし大量に生産が出来なかった事から、価格競争に負け明治末に現在のノリタケに生産が移転されます。
まだ帆船の時代に、佐賀の小城藩主から蒸気船「大木丸」を与えられた久富 与平昌起を紹介しています。与平は、海運と貿易で五大州を廻らんと望んでおり、
佐賀と釧路航路でも活躍していた与兵の大木丸は、明治初め千島沖で難破し半年余り漂流し病死する。
この時、「遺体は海中に投ぜよ。死後長鯨に跨って初志を遂げん」と言い残していたといい、有田町の報恩寺には、鯨をかたどった台座に与平の碑が建っていると語っています。
その後、佐賀の武富善吉が釧路で活躍し、釧路で知らない人はいないとの放送でした。