「名城巡りと北前船の旅」

FM札幌しろいし局放送の「チエンバリスト明楽みゆきの浪漫紀行」を企画をしたものを紹介している

『北前船寄港地船主集落の旅』第4回 野辺地(青森県)


 

野辺地は青森県陸奥湾に面した地で、2018年『北前船寄港地 船主集落』で日本遺産認定された。

 

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この船主集落について「野辺地町歴史を探る会」の鈴木幹人会長のインタビューを紹介する。

 鈴木さんは「青森古文書解読研究会」の理事でもあり、歴史上、「野辺地湊」が出てくるのは、文禄2年(1592)南部信直の手紙からと語る。

 

下北半島周辺は日本有数のヒバの産地で野辺地湊は、北陸へ木材を運ぶ陸奥湾の田名部湊の補助港だった。

その野辺地が脚光を浴びるようになったのは、鹿角地方の尾去沢銅山から産出された銅だったという。

この銅山は明和2年(1765)盛岡藩直轄になり、産出された銅を野辺地から大坂に廻漕されるようになったのは、明和3年(1766)だった。

 尾去沢銅山の銅は、阿仁銅山(秋田)・別子銅山(愛媛))と共に、大坂に銅座に運ばれた。この銅座は明和3年幕府がつくり管理下に置いていたためである。

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青い森鉄道野辺地駅前(2016 9)

 青い森鉄道野辺地駅で下車すると、左手案内板に盛岡藩とあり現在と行政区分が違っていたのがわかった。

 

野辺地湊には銅や大豆(銅とセットで移出された)を保管する倉庫もあり、干しアワビ、イリコ、フカヒレは俵詰めされ、野辺地から田名部に陸送されて中国に輸出された。俵物を一手に引き請けていたのは仙臺屋彦兵衛で、その方の家の記録が永記録で、北国船・羽賀瀬船。 弁才船。 蝦夷船等の運んでいたと、鈴木さんのコメントを頂いています。

 野辺地湊がなぜ重要な湊になったのか、当時の幕府の財政状態から調べた。

新井白石と対立した荻原重秀は、小判の金の含有量を減らし、貿易決済に金から銅を使われるようになり野辺地が重要になってくる。

その後、田沼意次が活躍する時代になり、意次は自由な経済活動を促進させ 野辺地や秋田で採れた銅を積み出す湊として重要になり、特産品も運んでいたのではないかと考えた。

 

鈴木さんは、野辺地は度重なる火事で木造物が少なく、構成文化財に町並みはないが石造物等は沢山残っていると話している。

 野辺地湊の浜町の常夜燈(写真)は、5代目野村治三郎により建立された。(日本遺産構成文化財

  

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2017年北前船寄港地フォーラムのへじで案内する鈴木幹人さん

 

 これは塩飽の橘屋吉五郎が、文政10年(1827)に運んできたもので、3月から10月迄毎晩灯りを灯していたという。この常夜燈の近くに陸揚げされた北前船を再現した「みちのく丸」が展示されている。

 秋田、江差等、北前船で伝わった祭りは多く、構成文化財「のへじ祇園祭」は、北前船の他、盛岡藩八戸藩などの陸地からの影響もあった。

 

和磁石、船箪笥、古文書、客船帳等があり野辺地町立歴史民俗資料館に展示されていた。(日本遺産構成文化財

『野辺地町史通説編第1巻』には、この資料館周辺は野辺地代官所の跡地で、貞享元年(1684)からの歴代代官の名前が記載され、野辺地湊は、西廻り、東廻り、蝦夷地の交易の重要な拠点となっていたことがわかる。

 

私がこの資料館にいったのは2016年9月のことで、野辺地の歴史と現状を教えくれたのが鈴木幹人さんだった。

 

 

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野辺地民俗資料館(2016.9)

ここには、五十嵐家の『久星客船帳』に坂越の大西家の名もあり、竹原の古文書が沢山展示されていた。

  野辺地には、この他尾道、小豆島、塩飽諸島等の瀬戸内海の廻船の活躍の足跡が多くある。尾道で加工され塩飽が運んだ手水石が常光寺にある他、廻船問屋野村治三郎により瀬戸内海から運んだ手水石等の石が残る。

 その一部が野辺地の愛宕公園の石段で、小豆島の土庄町小海産の花崗岩だった事がわかり、平成22年「大坂城残石記念公園(土庄町)」と「愛宕公園」は友好公園として調印を交わしていた。

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小豆島土庄町の大坂城残石記念公園 2018.8

 これをブログで発信したことから、南堀英二さんから野辺地の話を「大坂城残石記念公園」で聞くことができた。

 

 調印式に野辺地に行ったのが土庄町の当時の岡田好平町長と南堀さんだったからだ。

 その後、北前船寄港地フォーラム淡路で鈴木さん、南堀さんに会った。

 

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南堀さん 野辺地町中谷元町長 筆者(2017淡路の北前船寄港地フォーラム)

  

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 左から 南堀さん、野辺地の鈴木さんと 職員  (淡路)

「2つの公園の石が兄弟石だと突き止めたのが、野辺地町の江渡正樹議員だった」とうい話で盛り上がった。

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 小豆島土庄町の「大坂城残石記念公園」内の展示(2018.8)

 

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2019年、長岡市北前船寄港地フォーラムで、この江渡議員著の『塩飽橘屋廻船資料集』をフォーラム役員の茂木仁さんから頂いた

 

  陸奥湾と塩飽との繋がりについて塩飽出身の吉田幸男さんが、この放送で語っている。

「塩飽は幕府の御用船として抱えられていたが、吉宗の改革で職を失った人達が陸奥湾に移住し、ヒバで船を建造した」話しもあった。この資料集に吉田幸男さんの名もあった。

 浜町の常夜燈にある橘屋吉五郎について鈴木さんは、塩飽の船頭で後に船問屋を営んだ人で、塩飽諸島の広島に居宅があり、別名尾上吉五郎とも云い、江渡議員が尾上家の古文書を解読し前出書を出版されと教えていただいた。

 

『北前船寄港地船主集落の旅』第3回 三国湊(坂井市)

三国湊は2018年に「北前船寄港地船主集落」で日本遺産認定された。

そこで「みくに龍翔館」 学芸員の角明浩さんと福井市の(有)匠工芸代表取締役 村田浩史さんに、認定された 日本遺産構成文化財の船箪笥解説して頂いた。

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みくに龍翔館内の展示 (2015.10)

『みくに龍翔館』は、復元した明治時代の小学校を使用したレトロ感のある建物で「北前船寄港地フォーラムIN坂井市三国湊」では案内のコースにもなった。現在リニュアル中で、令和5年のオープンまで長期休館中である。


まず角さんは、丸岡城(日本100名城)を藩庁とする丸岡藩と、福井藩の権益争いの舞台となった九頭竜川河口の瀧谷湊(瀧谷寺)について、『みくに龍翔館』に残る文献から紹介している。

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(丸岡城 2015.10)

九頭竜川竹田川日野川足羽川などの河川が合流している。

この舟運を利用した交易は、福井藩と丸岡藩の財源を明治維新まで支えた。

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みくに龍翔館近くの三国観光ホテル屋上から見える九頭竜川河口 (2018.7)

2つの湊は現在は坂井市だが、明治までは瀧谷湊は丸岡藩、三国湊は福井藩だった。

かっての瀧谷湊には、瀧谷寺や魚志楼(松崎家住宅)があり、共に日本遺産構成文化財で、魚志楼は北前船の船主や商人が利用してにあり花街の中心にあり賑わった。

両港から、特産品の青い笏谷石等が北前船蝦夷地等に運ばれ、蝦夷からは海産物、瀬戸内海からは塩などが運ばれていた。

三国湊の更に下流の瀧谷湊は、瀧谷寺の門前に開けた村で、丸岡藩が管理し藩倉が置かれ、藩札を発行する程の重要な湊だった。

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福井藩は、下流の丸岡藩領滝谷村との境界に三国湊口留番所を置いて、港銭取立所で港の管理運営をしていた。 

  瀧谷湊に入港するには、川上の福井藩に入出帆時の諸届出が必要で、時の丸岡藩主 本多成重が福井藩に抗議するも声は届かず、本多氏に替わって元禄年間有馬氏が入部した後も続いた。

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丸岡城内にあった案内版2015.10)
福井藩は「キリシタン改め」を口実に、三国湊に入船させ調べさせた記録がある。 江戸後期になると、上流から土砂が堆積して三国湊は下流に移動し、下流の瀧谷湊との利害がさらに激化し訴訟に発展する。湊の権益争いは地元では解決出来ず、江戸幕府に持ち込んだ折の和解の訴状も『みくに龍翔館』に残っている。

 

みくに龍翔館にある日本遺産構成文化財の「三国船箪笥」について、匠工芸の村田社長に語って頂いた。

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匠工芸が復元した三国船箪笥は、これまで東京等の百貨店で「職人の伝統の技」に展示販売している。
 写真は2020年9月東京吉祥寺の東急百貨店の「第40回日本の職人展」の時のもの。

 

船箪笥は設計図がなかったことから、50年ほど前、先代は、仕様・素材・意匠も北前船が活躍した時代のまま復元させる為に佐渡で調べたという。

旧家に残っていた古い船箪笥を解体し、試行錯誤を繰り返し完成させた。

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吉祥寺東急百貨店の「第40回日本の職人展」2020年9月

 船箪笥は、船の往来手形・北前船の売買で得た小判・仕切書・印鑑等を保管するために必要なものだった。



船が遭難しても船箪笥は水面に浮かび内部に水が入らない構造になっていて、破船して船箪笥が海岸に漂着すると役所に届けられ、家紋や屋号、船往来手形から持ち主がわかるようになっていた。

 40キロから100キロある船箪笥が何故海に浮かび、中の重要書類が水にぬれないのか?

船箪笥の中は桐で出来ていて、水にぬれると膨張し気密性が高まり容易に開かない構造になっているが、これだけでは水に浮かない。



 中に水が入らないようするため船箪笥の前面は重い鉄の金具で装飾し、水中ではこの装飾金具の重みから前面が下を向き、バケツをひっくり返したような構造から浮力が生まれ、船が沈んでも船箪笥は浮く仕組みになっている。

  

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 村田さん提供

これを証明するため、平成6年高さ22メートルの福井県三国の東尋坊から、復元した船箪笥の投下実験を行っている。

 

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 村田さん提供

この模様はニュースの生放送で中継され、船箪笥が浮くこと、頑丈さを証明し、伝統技術の優秀さがめられている。
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「懸硯」(かけすずり)村田さん提供

船箪笥には1枚扉の「懸硯」(かけすずり)、廻船問屋が一番大切にし「帳箱」、中に引き出しが2段ある「半櫃」(はんがい)があり、商談の時に使う衣装が入っていた。  
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「帳箱」村田さん提供
 湊に船が着くと「懸硯」を陸揚げして、レジ替わりに商いをしていた。

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はんがい 村田さん提供

机の役割をしていた「知工箪笥」(ちくだんす)は、海に浮かばなかったという。
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知工箪笥 村田さん提供

これら4つを総称して船箪笥と名付けたのが、民芸運動家の柳宗悦で1961年に提唱された。

三国船箪笥は、民芸運動家の柳宗悦が推奨するほどの高い技術で製作され、北前船がうんだ工芸品だ。

佐渡の宿根木での宿では、これら4つの箪笥を座敷に展示し、どれだけ成功してきたかを豪華なつくりでその格を見せていた。

「北前船寄港地・船主集落の旅」第2回  佐渡

2020年4月「BS新日本風土記」で『北前船のおくりもの』が「北前船寄港地船主集落」(日本遺産認定)の地域から2週にわたって放送された。

 佐渡市教育委員会にBSに出演された方を紹介していただいた。
 その方が、FM番組「明楽みゆきの浪漫紀行」の今回のゲスト、佐渡国小木民俗博物館 元館長で 学芸指導員の高藤一郎平さん。
 
高藤さん(左)と石黒さん(右)

一方、石狩市の歴史研究会の石黒隆一さんは、何度も佐渡へ行き、高藤さんと長年交流があった事から、明楽みゆきさんの放送を聴いた感想を写真入りでFBに投稿された。

   石黒さん提供
 石黒さんは、ジオラマ石狩市厚田道の駅に展示中)で弁財船を再現するにあたり、白山丸の構造や製作方法などを高藤さんのから聞いて参考にしている。
 石黒さん提供
石黒さんによる内容は以下のとうりです。

160年前の「千石船」復元の決め手になったのは、「側面だけでなく平面図もある幸栄丸の板図を発見したことだった。 真っ黒の板を洗ったところ、鮮明な板図(十分の一の設計図)が出てきた」と話されています。

  私が佐渡に行ったときに、高藤さんからその板図の赤外線写真データを提供していただきました。本当に貴重な資料です。
 
白山丸の板図を石黒さんに紹介している高藤さん 。

 高藤さんのお話も尽きることなく、インタビューでは気仙船匠会の船大工さんと地元船大工さん、そして、復元を支えた地元の皆さんの喜びを印象的に話してくださいました。

完成した白山丸をどう保存するかという議論の中で陸上保存を選び、そのために船大工さんが望んだ進水式を行わなかったことについて、高藤さんは当事者ならではの苦悩を話されていました。その時に陸上しかも屋内保存を選択したから、今の白山丸を見ることができるわけですが・・・。

<宿根木の街並。狭い面積に密集して生活していたので、道が狭く、独特の風情がある。写真は有名な三角家

その他、放送で特徴的だったのは、宿根木の街並み保存とたらい舟の話でした。たらい船が今も漁業に使われていること。かつては、それぞれの家に家族の数だけたらい船があったこと。


宿根木のたらい舟。これは観光用だが、今も漁業に活用されている

たまたま見ることができた大樽の技術伝承風景。千石船展示館・白山丸の横で取り組んでいることが印象的。これを半分に切って、たらい船にしたという。(2019年5月に佐渡を再訪時)

高藤さんの世代は「親父のたらい船で大学にいかせてもらった」「味噌醤油の樽を半分に切って船にしたので半切りといわれていた」など、本当に興味深いインビューで佐渡にまた行きたくなりました。
 
 いつも思うのですが、明楽さん、本当に聴き上手ですね。私がこれ以上説明しても、今日の放送の魅力を伝えることはできません。やはり再放送を聴くしかありません。

 以上の石黒さんの投稿は、佐渡の「北前船寄港地船主集落」のようすを生き生きと述べられている。
今回は、写真を含めほぼそのまま掲載させていただいた。

 
ここで話は変わるが高藤さんは、明楽さんのインタビューの中で、佐渡に影響を与えた離島振興法(昭和28年)成立に尽力した宮本常一民俗学者)の提案で、大正9年築の旧宿根木小学校を民俗博物館としてのこされたとの紹介があった。

出典   佐渡国小木民俗博物館 のHP
佐渡での常一の助言、そして高藤さんの佐渡への想いが今日まで地域おこしを支えてきている。

常一は、全国をくまなく歩き、私の郷里坂越にも昭和25年と43年に来ている。 赤穂塩を長年研究していた廣山尭道 を同志と呼び、常一もまた『塩の道』を出版している。

加えて能楽の祖、世阿弥佐渡に流され、観世流として現代に受け継がれた具体的な流れも高藤さんは紹介された。
 この話から、世阿弥の先祖の秦河勝ウツボ舟で坂越に逃れてきた『風姿花伝』(世阿弥著)の記述も思いだした。


 (一社 )佐渡観光交流機構 提供

坂越については、「北前船寄港地・船主集落の旅」 坂越港で紹介します。


 
 
 

『名城巡りと北前船の旅』第53回⑭上田城と小諸城

『名城と北前船寄港地巡りの旅』⑭上田城*小諸城

長野からの最初のゲストは、長野大学の山西敏博教授と前川道博教授。
 上田藩が蚕種を日本一へと発展させたお話です。
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 出典 こもろ観光局

 上田城千曲川沿いにある。この川は、新潟では信濃川と呼ばれ新潟港に注ぐ大河である。
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 上田城日本100名城)は、真田昌幸天正11年(1583)築城した。

 元和8年(1622)上流の小諸城藩主だった仙石秀久氏の子忠正が上田城藩主となり、真田時代からあった養蚕や紬の生産を奨励した。

 この後に入封(1706年)した松平氏も、上田紬、蚕種に力を入れ、幕末の藩主松平忠優は老中になり、横浜港開港(1859年)に尽力し生糸輸出に貢献した。 

 千曲川沿いは傾斜地が多くコメ栽培に適さなかったが、雨が少なく乾燥した風が強く吹くため桑の葉に害虫がつかない事から、質の高い蚕から良質の繭を育てることができた。

 上田の人々の勤勉さと藩の後押し、信州の蚕糸研究者達の活躍もあり、蚕種製造の一大産地になる。上田藩は養蚕の収益で財政が豊かになるが、養蚕農家に後世に残る大店は生まれていない。

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   出典 小岩井紬工房協力(上田市

 江戸期の庶民は絹織物の着用が禁止されていた。
しかし、上田紬は廃物のマユを利用して織っていた事で絹織物に含めない事になり庄屋等に着用が許され、その風合いの良さから全国に広がった。

 
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出典 
上田紬製造元(有)藤本
上田市

  放送の後、上田紬はどのように各地に広がったのか文献から調べたので紹介する。

  1688年発行の井原西鶴の『日本永代蔵』、1802年十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に上田紬を着た人物が描かれている。(『人づくり風土記長野』)
 寛文年間(1661〜73)大坂、京都から移入する商品の見返りの商品が上田紬だった。
 享保ー宝暦年間(1716〜63)には江戸から白木屋越後屋、大丸屋等が、大口の買付に来ている。『長野県の歴史』塚田正朋著


 この運送には古くから馬に依存した「中馬」 であつた。 千曲川の舟運が公許されたのは1790年だが、信濃川へは直接通航は出来なかった。『日本交通史』児玉幸多


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 「中馬」は農民の副業から専業的色彩になり、信州の物資の主な輸送手段だった。『古島敏雄集 信州中馬の研究』

 こうして上田紬の9割が江戸方面に馬で運ばれ、文政年間(1820年前後)上田の養蚕は全国に知られるようになる。 『人づくり風土記』 

これには江戸から東廻り航路の活躍で全国に普及したと考えられる。

 『菜の花の沖』には1800年頃、近江商人が江戸から古着を東廻り航路で八戸に運び、庄屋(地主)に販売し莫大な利益を得ていた小説。
 
 上田紬は、全国の庄屋が好んで買っていた。

次のゲストは、小室節保存会の中山喜重会長で、「中馬」の制度の源流のお話につながっていく。
 
 小諸城日本100名城)は、上田城の上流の千曲川沿いにある。
 築城したのは武田信玄の家臣 山本勘助で本丸が城下町より低い日本唯一の穴城と紹介している。

 江戸時代に入ると小諸宿として賑わった。

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 2017年9月 

 小諸城址は懐古園として整備され、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」(小諸なる古城のほとり・・)の歌碑が建立されている。

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(出典:こもろ観光局)高橋英樹は、島崎藤村の詩に感激しその後に城が好きになったと力説した。
  

 続いて「小諸馬子唄は江差追分けのルーツだと、江差追分会館で語られている」と中山会長の小諸節の話が始まる。
 小諸馬子唄は小室節から派生したもので、小室節は、モンゴルの古謡「駿馬の曲」とメロディーが酷似しているという。

 小諸市周辺の御牧ヶ原は、平安時代長野最大の牧でモンゴルからの渡来人が馬の飼育に携わり、望郷の念に駆られて歌ったのが原型ではないかという。

 平安時代には日本の官牧場が全国に32あり、そのうち16がこの地 にあり、御牧ヶ原牧場が最大だった。『長野県の歴史』塚田正朋には、大宝律令(701年)と、その後改修された養老律令(718年)に「駅制・伝馬制」の交通制度の記述がある。
 
 小諸付近の御牧ヶ原には、馬の逃亡を防ぐため土堤の野馬除け跡がある。
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 野馬除け跡 出典 gooフォト

  遠いモンゴルの地から海を越えやって来た人々の唄の調べが、生活や仕事の中から共有され、自然に唄われ小室節の起源となった。

 中山会長は長野県モンゴル親善協会会長でもあり、モンゴルから招かれたり現在も交流が続いている。
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出典 長野県モンゴル親善協会提供
 
江戸時代は、小諸の祇園祭でも歌われ、松尾芭蕉の門下生、水田正秀の「春の日や 茶の木の中の 小室節」、小林一茶の「江戸口や まめで出代る 小室節」等、詠まれている。

 
 越後から江差北前船で伝わったと言われる中馬たちの小諸馬子唄。
 岩手にも似た馬子唄がある事から、江戸から東廻り航路で小諸馬子唄が伝播したとも考えられる。

 

 参考文献

『人づくり風土記長野』 

 『日本交通史』児玉幸多 

 『古島敏雄集 信州中馬の研究』

『長野県の歴史』塚田正朋

「北前船寄港地・船主集落の旅」第1回 兵庫津

北前船寄港地・船主集落の旅」第1回 兵庫津
 兵庫津で江戸時代からの商家「樽屋五兵衛」の12代目当主高田誠司さん(協和商事社長)の話を紹介する。

明石城での北前船のイベントで前井戸兵庫県知事と筆者は2018年高田氏と初めて会った。

 初代樽屋五兵衛は近江出身で、兵庫津(現神戸市兵庫区)で樽を作る商売を営み、北風荘右衛門や高田屋嘉兵衛など兵庫商人として北前船の時代から活躍していた。

(明楽みゆきさん 高田さん)

 
 高田さんは、2010年地元経営者と「(一社)よみがえる兵庫津連絡協議会」を立ち上げ、会長として活躍中である。
会の設立から10年、2020年の総会では民間・行政・政治が一体となった取り組みを計画し「神戸ルネサンス構想」を打ち出している。

 150年以上前の江戸時代の町衆から15の自治会を基盤に、「日本遺産の会」の活動が実を結び、2018年「北前船寄港地・船主集落」で、神戸では初めて日本遺産に認定された。高田さんの活動は、2020年11月1日の神戸新聞でも紹介された。 
 
兵庫津のほぼ中心部だった「大坂町奉行所兵庫勤番所跡」に、慶応4年(1868)に初代兵庫県庁が置かれた。ここに、2021年秋「県立兵庫津ミュージアム」(初代県庁館)が復元された。 これは高田さん達の日ごろの活動で実ったものだ。
 
出典 よみがえる兵庫津連絡協議会

「よみがえる兵庫津連絡協議会」の活動拠点「岡方倶楽部」は、江戸後期は3つの行政区画にわかれたその一つ岡方には惣会所が設けられていた。
 
 この跡地に昭和2年兵庫商人達の地域の社交場として建てられたのが、兵庫津歴史館 岡方倶楽部だった。



 工楽松右衛門、高田屋嘉兵衛の史跡は、兵庫津の「日本遺産」の構成文化財で、それぞれの出身地である高砂 洲本も日本遺産の構成文化財である。
 
 
 兵庫津に大坂奉行所があった背景が神戸市史に詳しく掲載されている。 
 
 幕府は、兵庫津が大坂を経由せず江戸への物資輸送をしていた等の理由をつけ、明和6年(1769)尼崎藩領から幕府領にし奉行の支配下に置いた。大坂の港を重視していた幕府は、兵庫津の商人は脅威で、幕府管理下に置き交易品の規制をしていた。
 
 
 次は、高田さんと「よみがえる兵庫津連絡協議会」で神戸を盛り上げている工楽隆造さん(工楽松右衛門の6代目)に松右衛門を語って頂いた。工楽さんとは、2019年長岡市での北前船寄港地フォーラムでお話している。

 
高砂出身の松右衛門は、15歳で志をもち兵庫津に行き船頭としての約25年の経験から「松右衛門帆布」を生み出した。
 
 当時の帆布は濡れると重く非効率だった。地元伝統の播州木綿を使い試行錯誤のうえ独特の織り方を工夫し、大きな和船に使える帆をこの兵庫津で完成させている。天明5(1785)年のことだった。
 
 その結果、より速くより遠くへ航行が可能になり、北前船が活躍する大きなきっかけとなった。
 工楽松右衛門は発明家でもあり帆布だけでなく、幕命によりエトロフ等に船着き場を作る工事にもかかわり、築港の工事専用船を設計して湊を完成させた。

工楽松右衛門の店があった佐比江(現在の猿田彦神社近く)
 
 享和2年(1802)、幕府はその功労を賞し、工楽(工夫を楽しむの意)の姓を与えた。高砂港の工事については、ブログ「第47回姫路城」で紹介している。

 

 
菜の花の沖』連載するにあたり 司馬遼太郎氏は、工楽さんのお父さんに松右衛門に話を聞きにこられている。

 工楽さんは、加賀市で開催されている「全国北前船セミナー」、「北前船寄港地フォーラム」に参加される等北前船の研究家でもある。

『名城巡りと北前船の旅』第52回⑬福山城と鞆の浦

『名城と北前船寄港地巡りの旅』⑬福山城鞆の浦
 福山城鞆の浦について、2018年まで鞆の浦歴史民俗資料館で学芸員をされていた園尾裕さんのインタビューから紹介します。

 日本100名城福山城は、新幹線福山駅の北口を出ると目の前に城壁がそびえたつているのが見える。
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2016年7月筆者と福山城ガイドの久保田さん!

福山城は、一国一城令(1615)の後の築城で、その背景が西の広島藩浅野家、東の岡山藩外様大名を監視する役目があった為、初代藩主となった水野 勝成は徳川家康の従兄弟だった。
 
 勝成は、築城にあたり芦田川河口の三角州に選んだため、井戸を掘っても塩気を含んだ水しか出なかったので、上水道整備をすすめ城下町を築いている。
 この上水道は、神田、赤穂、近江八幡、大分中津に次ぐ5番目に造られ、赤穂上水道神田上水道と共に「日本三大上水道」といわれている。
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  鞆酒造(株)提供
 
 勝成は、福山へは鞆の浦の湊から上陸している。

 鞆の浦には、立派な鞆城があつたが、一国一城令が出る前の1609年廃城され、この鞆城跡に福山藩は奉行所を置いて、船の出入りや安全を管理・監督していた。
 こうして港を中心とした商業で賑わう町として発展していく。
   
 園尾さんは、29ある鞆の浦の「日本遺産構成文化財」から代表的なものを紹介している。

 鞆の浦の象徴である江戸時代の港湾施設、「常夜燈・雁木・波止・焚場跡(今のドック)・船番所跡」が残っている。

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 写真  鞆酒造(株)提供

一番目立つ「常夜灯」は、高さ10mを超え、当時は航海の目印になり、160年前から鞆の浦のシンボルになっている。

 「雁木」は、船着場として大きな役割を果たし全長約150mあり、海の干満に合わせて見え隠れする石段で、その先端には大波を阻む石積みの防波堤「波止」が横たわる。
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波止場   鞆酒造(株)提供

重要伝統的建造物群保存地区」は、廻船業の物資を保管するための白壁の蔵、路地には豪商の屋敷が当時の面影を残し、8.6ヘクタールの町並みが続いている。
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  鞆酒造(株)提供 

「保命酒」は福山藩から専売品として奨励され、 江戸幕府からも備後の特産品として保護され、諸大名の贈答品や饗応の酒として用いられ、朝鮮通信使、 幕末に来航したペリー提督にも供された。
 保命酒 の起源は、約360年前の万治2年(1661)大阪の医師・中村吉兵衛が、醸造業で栄えていた鞆の浦の酒と16種類の漢方の薬草を配合して造ったものである。
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  鞆酒造(株)

 掲載の鞆の浦の写真は、鞆酒造(株)代表取締役 岡本純夫社長のHPから掲載させていた頂いたもので、岡本さんは保命酒協同組合の代表理事長をつとめられている。
 鞆の浦には今も4軒の店が保命酒を製造し、歴史ある名産品として販売されている。

 園尾さんは、2009年札幌の開拓記念館に出張で行き、鞆から運ばれた江戸期の酢の徳利を借りており、鞆が北前船で北海道と交易をしていた事を確認している。
 鞆には鰊粕等が運ばれ、鞆からは、タバコ、米、古着、井草、綿、酢、砂糖、塩等が北前船で運んでいた。

 鞆の浦は、「朝鮮通使がユネスコ世界の記憶」「港町文化が日本遺産」「町並みが重要伝統的建造物群保存地区」の3つがの評価をうけている。
 福山はまた、錨、船釘等の鍛冶の歴史が今に引き継がれ鉄鋼の町になっている。

 

   

 

 

 

 

 

 

『名城巡りと北前船の旅』第51回 ⑫七尾城

名城と北前船寄港地巡りの旅⑫七尾城
七尾の城と湊
その文化について七尾市教育委員会の北林雅康学芸員のインタビューから紹介します。


 
七尾湾には能登島があり七尾北湾が大口瀬戸、南湾が小口瀬戸とよばれ天然の良港である。
 七尾は今から1300年前の養老2年(718)に国府が置かれる前から能登の中心地だった。

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  七尾湊

天正10年(1582)前田利家は、山城の七尾城(日本100名城)に入封するが、海に面した小丸山城を築城し居住した。
 しかし1615年「一国一城令」で翌年、小丸山城は廃城され七尾湊は加賀藩の管理下に入る。
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七尾城 (2015.10)
 寛永15年(1638)には、加賀藩の御蔵米を七尾湊から大坂に運んでいる。
 大坂への御蔵米輸送の成功から、大坂への航路を河村瑞賢が参考にして西回り航路を開発している。
  この地域では自然を生かし昔ながらの農林漁業を守り続けてきたことから、「能登里山里海」は2011年世界農業遺産に認定されている。
 さらに、毎年5月1日から5日に開催される七尾の祭り「青柏祭の曳山行事」は、2016年ユネスコ無形文化遺産(国の重要無形民俗文化財)に認定されている。
これは、3つの地区から奉納される曳山、通称「でか山」の車輪は直径2メートル、高さ約12メートル、重さ約20トンあるという。

 七尾の祭りについては、毎年5月3日から5日に開催されているユネスコ無形文化遺産(国の重要無形民俗文化財)「青柏祭の曳山行事」で、3つの山町から奉納される曳山・通称「でか山」の車輪は直径2m、高さ約12メートル、重さ約20トンあるという。

 この「でか山」は、北前船を模すしたものと言われ、船の建造の技術が活かされその資金も北前船の交易で豊かになり祭りを続けられたようだ。
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和倉温泉お祭り会館)トリップアドバイザー提供

 今回のインタビューから、昨年2019年1月に行った七尾市「のと里山里海ミュージアム」で見た展示物の2つの点について考えた。
 その一つは、北海道から大坂までの各地の客船帳に七尾の記録が展示されていた。


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(のと里山里海ミュージアム

 これを具体的に知りたかったので北林さんに『七尾市史15~16通史編』を紹介していただいた。
 15通史編には、享保 2 年(1717)に加賀藩の森田盛昌が著した『能州紀行』に以下の詳しい記述があった。
越中・越後・佐渡・出羽・奥州・松前なぞへ船便り宜しき故、繁昌の所なり、酒屋数百余軒、是ハ佐渡松前・えぞへ酒を商売する故也」このことから七尾港の北前船の活躍がよくわかった。

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 七尾市史海運編には、ほぼ全国の客船帳が掲載され、『佐渡両津市浦川湊入津船』も掲載されていた。ここには薩摩の廻船が6隻掲載され播磨からは坂越が51隻あった。

 2つ目は、北前船の帆に使われていた特産の七尾 筵(むしろ)が展示されていたが、
19世紀初頭に松右衛門帆の開発で使われなくなった筵は、どうなったのだろうと思っていた。
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(のと里山里海ミュージアム)の掲示
この筵についてもは『16通史編』に北前船との関係を以下の記述で伝えている。
「文政の頃(1820年代)松前と交易をしていた七尾商人上村屋金右衛門が、松前から筵を数枚持ち帰り八幡村七之助らに製造を託した。

 八幡村では筵生産が盛んになり、七尾筵として七尾商人が松前などで売り出して、多くの利益を得ていたといわれる。
加賀藩天保の飢饉では、農民達に「松前行目形筵」の生産を奨励している。

明治に入っても鰊を肥料として七尾へ運び入れるための袋として筵は必要だったことも掲載されていた。

 工楽松右衛門帆が全国に普及した後、七尾筵は松前等で幅広く使われ、その用途から北前船では塩俵、酒樽、醤油樽、縄など不可欠なものだった。

 小説『菜の花の沖』では、北前航路の往路で筵を買い、蝦夷地で干鰯、鰊粕をかますに袋詰め大坂に持ち帰る様子が描写されている。
 参考文献
七尾市史15通史編2』
七尾市史16通史編3』
七尾市史 海運編』
 

「名城巡りと北前船の旅」第50回⑪萩城~村田清風

⑪萩城~山口城

 関ヶ原で破れた西軍総大将毛利輝元氏は、広島城から、周防 長門の2か国に大幅減封され萩に築城した。

長州藩は、日本海側の萩に築城(日本100名城)した当初から財政難だった。

   (2019,5)

 それが、村田清風の北前船が必ず通る下関等の改革の成功で、豊かな藩になったことを、
日本100名城巡りで行った萩博物館で初めて知った。 
そこで清風の改革から明治維新までを、長門市、防府市、山口市の専門の方にゲスト出演をお願いした。

 
 まず、「村田清風」について長門市村田清風記念館の中野和典館長にお話して頂いた。

 (萩博物館で2019.5)
 中野さんは、「志があっても資金がなければ明治維新は成功しなかった」
と、吉田松陰、高杉晋作のように知られていない村田清風を語る。

 

 村田清風博物館提供

参勤交代等の幕府の各藩に対する弱体化政策、天保の飢饉、更に厳しい年貢の取り立てや特産品の販売規制から、
大規模な一揆が多発していた。

 これに、天保7年、3人の藩主の葬儀で莫大な出費が重なり、220万両に借金が膨らんでいた。

  第13代藩主・毛利敬親は、藩財政から立て直すため、55歳だった村田清風を登用し、三田尻塩田の拡大や交易港の整備を進めた。  


    中野和典さん提供

 清風は、北前船が必ず通過する関門海峡の下関に越荷方(金融・倉庫業)を設置し、北前船の積み荷の海産物や米等を買い取り、藩の倉庫に一旦保管した。   
 相場を見てこれらを大坂に回漕し、藩の蔵屋敷の出入り商人に売りさばくが、これは藩営の貿易会社だった。

 北前船の船頭からの倉敷料・手数料・前渡し金の利子なども藩の収入源になった。
清風は、ハゼの木のロウを加えた「四白政策」(和紙・ロウ・米・塩)を、
打ち出し自由に販売を認めるなど次々に規制緩和をし財政の立て直しに成功する。 
 
三田尻では、塩の新たなビジネスを考案している。
 
次に、防府市三田尻塩田記念産業公園の芝口英夫園長お話していただいた。
 赤穂から瀬戸内海の全域に広がった新しい「入浜式塩田」により、
三田尻は赤穂に次ぐ塩の大生産地となったと語っている。
 
入浜式塩田のしくみ(防府市おもてなし観光課提供)
瀬戸内海で日本海に一番近かった三田尻の塩は、1800年頃から松前や江差にも運ばれ、北海道では塩といえば三田尻塩になっている。

 防府市おもてなし観光課提供

 現在三田尻塩田は、煙突2本が残り記念産業公園になっている

 (芝口英夫さん提供)

 この公園は子供達の塩つくり体験は人気スポットで、跡地は東京ドーム75個分もあり、ブリヂストン、マツダとその関連企業が進出している。

 
 清風の天保の改革から20年余り、財政が豊かになり1863年幕府に秘密で萩城から内陸の山口城に藩庁を移し、
明治維新への扉を開く事になる。
 そこで山口城近くの「十朋亭維新館」の立石智章学芸員のインタビューを紹介します。
  十朋亭維新館は、醤油の商いを営んだ豪商・萬代家十朋亭の離れを改修したもので、伊藤博文、井上薫も宿泊していたと話す。

    十朋亭維新館提供
  長州藩は、萩の明倫館の他、各支藩でも早い時期から藩士の教育と人材育成に力を入れ、改革の潤沢な資金で1863年5名をイギリスに密航留学させた。
 この5名が、伊藤博文の「内閣の父」井上馨は「外交の父」遠藤謹助は「造幣の父」山尾庸三は「工学の父」(東大工学部の前身工部大学校の工学頭)井上勝は「鉄道の父」と明治に入り活躍している。
 この5傑は長州5ファイブとして映画化された。

 更に1865年イギリスから大量の武器を密輸入し倒幕に備えた。
 1868年明治維新をむかえたが尚100万両の資金で新政府に貢献した。

 
太神宮(山口大神宮)十朋亭維新館提供

文久3年(1863)、長州藩の藩庁が萩から山口に移った頃

この十朋亭維新館では、ARアプリ、資料も使い維新期の長州藩、山口地域の歴史を紹介している。

今回のインタビューから長州藩の改革が、北前船に関係しそれが明治維新につながる好循環になっていたのがわかった。



参考文献

『防長風土注進案』

『ひとづくり風土記山口』

 

 

 

 

「名城巡りと北前船の旅」第49回⑩岩国城

名城巡りと北前船寄港地の旅⑩  岩国城

今回は、山口県東部に位置していた岩国城下について、岩国市教育委員会文化財専門員の藤田慎一さんのインタビュ-からです。

岩国城は、毛利家の吉川広家が防御のために横山山頂に建てた城だが、1615年の「一国一城令」で廃城になる。
この岩国が、岩国藩として認められたのは幕末の慶応4年(1867)で、それまでは、藩のようで藩でない状況と藤田さんは説明している。

初代吉川広家は、築城に並行して錦川を天然の外堀とし、山の麓の横山地区には藩主の居館・武家屋敷を築き、
対岸の錦見地区に中下級武士や町民の居住区を置いた。
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錦見地区に住む中下級武士にとって、藩政の中心地横山地区へ行くには幅200m の錦川を渡る橋は重要だった。
しかし豪雨災害で度々橋は流失し、藩政に与える影響は深刻で、流されない橋の実現が藩の悲願になっていた。


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佐々木小次郎像と山頂に小さく見える岩国城
3代目吉川広嘉は早くから、流されない橋の実現のため研究と検討や創意工夫を重ね1673年錦帯橋を造る。 
 約200mの錦川の川幅の両岸をアーチでつないだのは、中国の僧侶独立(どくりゅう)から紹介された『西湖志』を参考に造られた。
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           2016年8月
錦帯橋は、江戸期の橋の番付で東の日本橋、西の錦帯橋と言われ、当時から沢山の見物客が訪れにぎわっていた。
 
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 出典『岩国城下町』岩国市教育委員会発行
  岩国城下には、錦川にそった陸の道「岩国往来」と、錦川の舟運で海へとつないだ廻船業が発達している。
この陸の道 岩国往来は、2019年文化庁の歴史の道100選に選ばれた。
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萩藩主や役人が岩国藩を視察のために整備された歴史的な道 (写真は藤田さん提供)

 錦川の下流今津の港には、萩藩の蔵があり防長4白のうち、綿、紙は陸路で運ばれた。
 岩国に城下町ができるまでは、藩主の屋敷が由宇(ゆう)にあった。由宇の港は、明治に入ると鉄道・蒸気船が発達し、廻船業は衰退していく。f:id:chopini:20201017144902j:plain
写真提供 伊東直人氏(小樽市在住)

 藤田さんは、由宇の廻船業者の中でいち早く蒸気船を導入した嶋谷汽船が、小樽等にも展開していたとはなす。
 嶋谷家は、大正12年拠点を神戸に移したが、故郷の岩国由宇の学校建設に協力した事も紹介している。
 この嶋谷汽船については、神戸市在住の嶋谷徹氏が『嶋谷海運業史』を出版している。
 これは、戦前に国策で嶋谷海運が三井船舶と合併させられたとき、社員によって編集されたを『嶋谷汽船略史』をベースに出版されたもので小樽など北前船研究者に注目されている。
  

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藤田さんの紹介で、『岩国市史』、『岩国城下町』を参考にしています


「名城巡りと北前船の旅」第48回⑨八戸城

⑨八戸城

東廻り航路で活躍していた八戸藩の廻船を、八戸市教育委員会の柏井容子学芸員のインタビューから八戸城とその城下と共に紹介します。


出典 八戸市博物館

 日本100名城の「根城」は、南北朝時代から江戸初頭までの約300年間、「根城南部氏」が拠点としていた。
 「根城南部氏」は、1627年盛岡藩初代藩主南部利直の命により遠野へ移封され、八戸地方の支配は盛岡藩(盛岡南部氏)が行うことになった。
藩庁は、この盛岡藩直轄領時代に造営され利直自らが町割りも利直が縄張りをしたと伝えられ、八戸城は利直の陣屋敷になっていた。
 
内陸部の盛岡と異なり、湊がある八戸は、盛岡藩にとって重要な土地であつた。
 遠野移封から約40年後の1664年、盛岡藩2代藩主南部重直が跡継ぎを決めないまま死去した。
 このため、幕府の裁定で10万石だった盛岡藩は8万石を盛岡藩、2万石を八戸藩に分割し重直の2人の弟に与えた。
 八戸地方は「八戸南部氏」による統治がスタートし明治まで続いた。

 柏井さんは、八戸の港として、東の鮫・中央の白銀浜・西の湊の3港も紹介している。

 このうち 鮫港は、馬淵川新井田川が合流する河口にあり、この川に挟まれた地域が八戸藩の城下町だった
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出典 八戸市博物館

八戸には数字がついた町名がたくさんある。

城の南側に東西に細長い
「町人町」と「武家町」が置かれ、町名が城下に12の町がまとまってある。
 これは、舟運や廻船での交易にとって最適な築城だったに違いない。

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出典  八戸市博物館
 当初(1664年)は、江戸と八戸の必要物資を相互に運んでいた。
これは河村瑞賢が東廻り航路を開発(1671)以前から江戸との廻船が活発だったことになる。
 わずか2万石の藩自体が、地元の産物を全国に遠隔地交易が始めたのは元禄の頃(1690年頃)からである。
 柏井さんから紹介された三浦忠司著
『海をつなぐ道〜八戸藩の海運の歴史』には、文献から詳細に紹介している。
 八戸藩の交易圏は、東廻り航路だったことから江戸、銚子、浦賀だったが大坂との産物の交易も文政4年(1821)からおこなわれていた。

 この海運史によると、大坂の改勢丸が木綿、古着を積んで八戸に入津し、売却代金で大豆を購入した記録も掲載している。

特産品に鰯や南部鉄があるが、米が採れなかった為大豆が最大の特産品で専売制をとっていた。

 大豆は、千葉銚子に運ばれ野田醤油になり、行徳塩から次第に良質な赤穂塩が使われるようになる。
赤穂塩は赤穂からは塩廻船で江戸に運ばれていたが、八戸の廻船も赤穂塩を江戸で商いをしていた記述がこの書では以下のように掲載されいる。

 八戸から大坂方面への廻船の航行は、御手船(官船)鶴栄丸が文政12年(1829)〆カス、魚油を積載して直接大坂に入津しその代金で、兵庫で赤穂塩を買い、江戸で赤穂塩を売却したと文書『為御登御産物江戸浦賀銚子規定写』から紹介している。
 廻船問屋も買積み廻船で活発な交易しており 八戸には、文化・文政期、藩の財政を肩代わりできるほどの商人もいた。
 
 掲載の常夜灯の写真は 大坂の商人が寄進したもので、多くの廻船が八戸港に入津していたようだ。
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三浦忠司氏提供
『海をつなぐ道〜八戸藩の海運の歴史』より

 この他『街道をゆく』で、司馬遼太郎が「名勝種差海岸」へ取材に来たこと、ユネスコの世界無形文化遺産に登録された八戸三社大祭は300年の歴史も紹介している。

 参考文献

『海をつなぐ道〜八戸藩の海運の歴史』 三浦忠司

名城と北前船の旅第47回⑧姫路城(北前船寄港地・船主集落の旅①)

城と北前船の旅⑧姫路城

 

姫路城は、姫路藩の藩庁で飾磨、高砂室津の3つの港を江戸初期から明治まで管理下に置いていた。

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そこで姫路市教育委員会文化財課の大谷輝彦課長とたつの市御津町室津観光ガイド代表の柏山泰訓さんに語って頂いた。

  大谷さんは、1993年法隆寺と共に日本で最初に世界文化遺産に登録されたと姫路城を紹介している。

 姫路藩初代藩主(1601〜)池田輝政は、姫路城築城と並行して城の外堀から飾磨津までの約5キロの運河の計画をしていたが不成功に終わっている。

 この構想は、本多忠政の代に成し遂げ、船役所・船置場を置き船手、水主を配置した。

 この本多家が藩主になる頃52万石から15万石に領地が縮小し、赤穂藩龍野藩などが姫路藩から独立した。

 水運を重要視していた姫路藩は、龍野藩室津飛地として明治まで管理し、「交易」の他「参勤交代」「朝鮮通信使」の接待に使用している。f:id:chopini:20200924124416j:image

たつの市室津民俗館を案内する柏山さん)

 高砂港も姫路藩領だったことで、1615年の一国一城令高砂城は廃城になり、城下町から港町として発展する。 

  17世紀高砂の荒井塩は、越後(新潟県史)にも運ばれ、江戸には1652年12月の記録だけで100艘の荒井船が入港している。(川越の商人、榎本弥左衛門の覚書《万之覚》)

 18世紀に入り加古川の大量の土砂の堆積で塩田の継続が難しくなり、姫路藩は荒井の塩田は綿花栽培へ転換を奨励し、塩田の村から綿花の村になり、播州木綿の積み出し港として姫路藩を支えた。f:id:chopini:20200928151222j:image

 高砂港の土砂を改修した工楽松右衛門 (最近の高砂港と8代目工楽隆造氏)

 

姫路市北前船の日本遺産構成文化財から2つ紹介します。

  奈良屋の菩提寺正法寺の唐戸(1768)は、先代奈良屋権兵衛の十三回忌に酒田の本間光丘が寄進したものでその口上書も残されている。豪商奈良屋(姫路城南)で三代目光丘は16歳の頃に修業している。

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出典 北前船KITAMAE公式サイト(正法寺

2015年新潟県兵庫県北前船企画書籍

に掲載されこの企画講演で、奈良屋の古着を

坂越の廻船が酒田の新渡戸家に運んでいた

話があり、奈良屋の手広い取引がわかる。

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(2015年兵庫県新潟県の共同企画) 

2つ目は、明治11年越前国の右近権左衛門ら

北前船船主5名が寄進した牛の石造は、

浜の宮天満宮の本殿前に置かれている。
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飾磨区須賀の牛の石像)

出典 北前船KITAMAE公式サイト

姫路市(飾磨)高砂市たつの市室津)は北前船の寄港地として

2019年日本遺産に同時に認定された。

 高砂の工楽松右衛門帆については、後日

8代目の工楽隆造氏が紹介する。

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写真の柏山さんの活動拠点は、室津海駅館

室津民俗館である。

海駅館は、廻船問屋だった「嶋屋」の建物を

1997年資料館として開館した。

室津民俗館は、江戸時代には苗字帯刀を許され

姫路藩の御用達をつとめた豪商の遺構で、姫路藩が管理していた足跡だ。

この地域が播州綿花の産地

だった事から 館嶋屋(室津海駅)は、その肥料として北海道

で羽鰊を買い付けていた。

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この羽鰊(写真)は、ニシンの骨の部分で

捨てられるものをただ同然で買い取り、綿の

肥料にしていた。

松木 哲 元神戸商船大学名誉教授が製作した

五分の一の帆船の展示もあり「廻船関連」

「参勤交代」(西国大名の本陣・脇本陣

「江戸参府」「朝鮮通信使」の4つの

テーマで展示。「江戸参府」は

シーボルトが長崎から陸路で小倉から海路             で室津で下船。

 その後は陸路で江戸に参府をしている。
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ケンペルが、日本での見聞をまとめた

『日本誌』が展示されている。これは、

18世紀ヨーロッパでベストセラーだったと 

シーボルトとの違いを紹介している。

 

 

参考文献 

新潟県史』

『新潟・兵庫連携企画図録 北前船』2015

『日本名城集成 姫路城』

「 名城巡りと北前船の旅」第46回⑦松前城

 

名城巡りと北前船寄港地の旅⑦松前城

 松前教育委員会の佐藤雄生学芸員のインタビューから紹介します。

 

佐藤さんは、藩主蠣崎(かきざき)氏が徳川政権に入る頃に蠣崎姓から松前姓に改称したと、最北の城下町松前を紹介しています。
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 松前氏(蠣崎)は、1600年海岸に近い福山の地に引っ越し、1606年城を完成させた。

 当初は、福山館とよばれていたが、領民には松前城とよばれていたそうだ。
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 福山館築城から200年後、北方警備の必要から 幕府は1807年(文化4)から1821年(文政4)の短い期間、伊達染川(福島県)に領地替えをした。

 松前藩復領後、北方警備の為に沢山の人が松前藩に召し抱えられたことで、生活のために大量の陶磁器が消費された。

 こうして古伊万里が、筑前芦屋(福岡県)の「旅行商人」によって運ばれた。

 松前には筑前芦屋浦の出身者の墓もあるという。

 松前城を発掘調査したところ、16世紀末~19世紀後半の唐津焼古伊万里が発見されている。これは、佐賀県立九州陶磁器芸文化館の鈴田由紀夫館長から頂いた『初期伊万里展2004』に掲載されている。

 この頃から九州との間で船での交易があったのがわかる。

 佐藤さんに推奨された『松前町史通説編』には、松前藩は、元禄・享保期(17世紀ー18世紀初頭)に場所請負制度を確立させたとの解説がある。
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 この制度で、入札により運上金を支払った者だけが漁場経営が出来る仕組みを確立し、

 場所請負人の活動地域が蝦夷地の東西に拡大していく。

 松前町史には幕末期の場所請負人の、松前商人(磐城飯坂出身)佐藤栄右衛門と近江商人、西川伝右衛門を紹介し、西川家の具体的な事例をあげている。

 松前藩復領後は、磐城飯坂つまり会津藩の商人か松前で活躍しており、会津藩の人達の蝦夷地での活躍は、明治維新以前からだったのがわかつた。

  日本海と太平洋の結節点で本州に一番近かった松前藩では、米がとれなかったことから本州ではみられない農業に立脚しない政策が多くあった。


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 船の接岸に有利な海岸線に商人を住まわせる政策もそのひとつだ。

場所請負商人が漁場においてアイヌ民族や和人を使役し、そこで獲れた豊富な海産物を松前城下に運び、出入りの商品に課税する。

 このアイスとの交易が、鎖国下4つの口の一つである(対馬-朝鮮・薩摩ー琉球・長崎ーオランダ中国)

すべては、徳川幕府により、蝦夷地での徴税権・交易権を認められた松前藩松前家のもとで管理されていた。

 

北前船拡大機構の公式HPには、入港税、出港税について松前藩の例が掲載され、藩財政を支える大きな柱になっていたとの記述がある。

 

 松前城資料館には、270年前の松前屏風のレプリカが展示されている。(写真)
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この他、北前船の船頭だった松本家の資料から長者丸の幟旗が展示され、いずれも北前船の日本遺産構成文化財である。 
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 この幟旗は、ハワイにまで流された長者丸とは違うと、佐藤さんから聞いた。

 このほか北前船関連のものが展示され、日本100名城の中で唯一北前船関連の資料が城内に展示されている。f:id:chopini:20200912055911j:image

 松前城には、写真のバス停で下車して行ける。

お城と港の深いかかわりがあるのは、赤穂の他この松前城で確かなものになった。

 
 

      参考文献   
           
     『松前町史通説編』
     『初期伊万里展2004』

名城巡りと北前船の旅 第40回 ①赤穂城

名城巡りと北前船を巡る旅 ①赤穂城

まず 赤穂市教育委員会の荒木幸治学芸員赤穂城、赤穂塩、塩廻船の繋がりを語って頂いた。

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 荒木さん出筆の書

 徳川政権の「一国一城令(1615年)」で廃城が増えた中、経済的な効果を重視し、

川・海の近くへの築城で舟運、廻船で栄えた一つに赤穂がある。

  赤穂藩主池田輝興の不祥事で、1645年茨城の笠間藩から移封になった浅野長直は翌年から、入浜式塩田開発と築城を開始している。  

  池田家以来の塩田開発を加速させ、新たな入浜式塩田の成功で築城にも弾みがついたという。    

  大規模な塩つくりで、流通手段の発達を背景として赤穂城下は栄えそれを支える様々な商売をする人々が赤穂城下に移り住んだ。

 坂越浦では池田家の時代、長崎・愛媛・山口に漁場を求め、漁民が集団移住の記録がある。

しかし新塩田開発以降は、移住の記録はなく坂越浦でも塩の大量生産の恩恵を受けていたのが荒木さんの話からわかる。  
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(『赤穂城攻略』より)

 塩田は、赤穂城の西に西浜塩田(250ヘクタール)、東に東浜塩田(150ヘクタール)があり、西浜塩田は真塩、東浜塩田は差塩を生産していた。

 塩屋荒神社(日本遺産構成文化財)の境内の案内板に、真塩がにがりが少なく良質な塩であるとの紹介文がある。
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  真塩は高級品で主に柴原家が上方に運び食文化に貢献していた他、

上方では専売制をとり誰でも赤穂塩を買えなかった。

 差塩は水分を多く含んでいたが、江戸に運ぶあいだに俵から水分が抜け良質な塩にかわるという。  

  この大規模塩田開発で豊かな城下町になっていくが、3代目浅野長矩江戸城内での刃傷事件で浅野家の統治はわずか50年余りで終わった。

 この入浜式塩田は、1647年竹原(広島県)に伝授したのを皮切りに、その製法を瀬戸内海全域に教えた結果、生産過剰から塩田不況を招き、後の森藩主は財政難で長く苦労し改革で乗り切っている。

この塩田不況については、青山学院大学博士課程で赤穂塩を研究中の千原義春さんがこの番組で紹介している。(前シリーズ26回)

 赤穂城跡は1971年に国史跡に指定され、25000以上あるなか2005年に日本100名城に選定された。

 今なお発掘調査が行われていると荒木さんは語っている。

  

 


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 荒木さん(右の方)は、「お城EXPO 2018横浜」の赤穂城のブースを説明していた。

荒木さんが執筆した『赤穂城攻略』(2020年3月)も参考にしています。

 

続いて赤穂市立歴史博物館の木曽こころ学芸員です。

 

 この館では、常設展示「赤穂の塩」「城と城下町」「赤穂上水道」「赤穂義士」をしている。

 赤穂塩は「日本第一の塩を産したまち播州赤穂」のストーリーで日本遺産に認定された。

この構成文化財、製塩用具(国有形民俗文化財)、旧塩務局庁舎など41件がある。

 特産品の赤穂緞通そのひとつで、佐賀の鍋島緞通、大阪堺緞通と並び日本三大緞通で、明治7年に商品化された。

「日本第一の塩」の文言は、江戸後期赤穂を訪れた絵師で学者の司馬江漢の言葉からきている。

単独で日本遺産に認定された赤穂塩について、2020年11月~2021年1月、「播州赤穂の塩づくり」の特別展で、古代の土器製塩の時代から現代の日本海水㈱赤穂化成㈱まで赤穂の製塩の歴史を紹介している。

赤穂では、古代から製塩の歴史があり、土器製塩→塩尻法→揚浜式塩田→古式入浜塩田(自然地形を利用した入浜)があった。

 池田氏時代(1600年~)に塩田開発が始まり、浅野氏入封後(1645年)大規模入浜式塩田開発された。

 これには加古川下流域の荒井村・姫路の的形村等から入浜式塩田の最先端地域から塩業者を呼び寄せ、東浜塩田の開拓に当たらせた。

 これには、築城に伴う石垣構築技術が使われ、赤穂城の東に東浜・西に西浜に入り浜式塩田が出来たが、天候、潮の干満、千種川のデルタ地帯の環境があった。

 浅野氏時代(~1701年)東浜100ha・西浜35haの開拓で浅野家5万3千石は、塩田の収入で8万~10万石を有したと言われた。

 浅野家の後、森家の時代を経て幕末頃には赤穂藩領全体で東浜に約150ha、西浜に250ha、合計400haの入浜式塩田が完成し、江戸時代後期の赤穂塩の生産量は5斗入俵(45kg)は60万俵(27000トン)で、全国シェアの7%を占めた。

 赤穂塩は差塩と真塩の2種類があり、差塩は煎熬の過程で苦汁をさらに差し加えた塩で、全体の生産量の80%を占め、真塩は苦汁を極力排除した上質の塩で、生産量の0%を占めた

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 (赤穂市歴史博物館提供)

生産塩の70%は江戸に輸送され、そのほぼが差塩で江戸では人気だった。

真塩は大坂・京都などの上方を中心に流通し、日本の出汁文化に貢献した。

差塩は江戸へ坂越港から奥藤家が、御崎港から田淵家が、天保時代に船を建造し運んでいた。(立川国立公文書館の田淵家文書)

  塩廻船図(赤穂市歴史博物館 提供)

塩廻船は北前船と同じ弁財船だが、側面にその違いがある。

江戸に塩を運こぶのが主流になると、赤穂藩は坂越港正面に坂越浦会所を設け、塩や船の入出港の管理をしていた。

赤穂塩は「日本第一の塩を産したまち播州赤穂」で日本遺産に認定され、これを運んでいた坂越港は、「北前船寄港地・船主集落」で日本遺産に追加認定されている。

坂越浦会所は日本遺産構成文化財に指定されている。



 

 

 

 

「名城巡りと北前船の旅」第45回富山城

 富山城

 

 富山市郷土博物館 の坂森幹浩館長(主幹学芸員)のはなしを紹介する。

 続日本100名城の富山城(富山市郷土博物館)は、天守閣を模した3重4階の建物で、富山産業大博覧会の記念建築物として昭和29年富山城址公園内に 建設された。
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(トリップアドバイザー2次使用)

 この博物館(富山城)では、400年に及ぶ富山城の歴史を常設展示している。  

 富山、石川は、江戸期は、越中、加賀、能登の3つの国に分かれ富山は越中だった。

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 いずれも前田家の支藩でそれぞれの地で違う文化が根付いていた。 

 このうち富山城は1615年の一国一城令で一旦廃城になったが、1639年加賀藩から分藩した富山藩ができ富山城が築城された。

 

 富山藩は、多くの家臣を抱え、参勤交代等で財政難に加え、生産性の低い領地に苦しめられていた。
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(トリップアドバイザー2次使用)
 そこで富山藩第2代藩主・前田正甫(1649~1706年)が力をいれたのが売薬「反魂丹」を広めた正甫の銅像が残されている。

f:id:chopini:20200801100121j:plain富山市郷土博物館のHPより

 これが、元禄の頃から売薬の販路を広げる原点になった。

 坂森氏はペリーが来航する頃には、  松前から鹿児島まで約2000人以上(20組)活躍していたという。   

  この20組の中に売薬組織薩摩組があり仲間組として強い団結力があった。 その売薬の積荷は、1000箱以上で富山の北前船がこれに貢献している。(富山市は、2018年北前船寄港地として日本遺産に認定された) 

 

 富山藩がとった政策は、中国と昆布交易をしていた薩摩の利益、中国の薬種を持ち帰り富山の売薬、そして関連の「ものづくり」にも及んている

 幕末になると、どの藩も財政難に陥り多くの藩は、自藩の産業の保護から「差し止め」をし、今で云う保護貿易にも話が及んでいる。


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(トリップアドバイザー2次使用)

 そこで得意先には進物として、浮世絵の版画を訪問時に渡す等で心を繋いでいた。 

 この売薬版画には、「忠臣蔵四段」と「忠臣蔵七段」もある。  

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富山市郷土博物館のHPより)
 平成11年12月の「博物館だより」第36号のテーマは「忠臣蔵」で、 大石内蔵助と富山藩士とのつながりを紹介している。  

 大石家と富山藩士の奥村家の家系図を掲載し、梅堂国政が手がけた討ち入りの場面を描いた浮世絵版画 が多数ある。 

この博物館では薬の生産から、原材料や包装等.への波及をHPで紹介している。 これらの 詳細は下記のサイトでご覧くださいhttps://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/index.html  

 この2020年5月鹿児島からNHKの「歴史ヒストリア」に出演された原口泉教授のこのFM番組については、前回紹介している。

 この鹿児島、富山双方のインタビューで、その時代の姿が具体的にわかった。

 

『名城巡りと北前船の旅第44回』⑤鹿児島城(鶴丸城)

⑤鹿児島城(鶴丸城

原口泉氏(志學館大学教授で鹿児島大学名誉教授)のインタビューから紹介する。

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  港に近い鹿児島城(日本100名城)は天守閣がなく、20メートルの立派な御楼門が2020年3月復元された。
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2020年2月(まだ工事中)

 かつてこの御楼門から城下町が広がり、港には役所等がある港湾都市で、この港から豊かな藩に変貌していく。 

 貢献したのが中国からの麝香を必要とした富山の薬売りと、濱崎一族を中心にした薩摩の廻船業者。

 蝦夷地から昆布を積んだ富山の船が港に着くとまず鹿児島城に挨拶に行き、その立派な御楼門に驚き、その絵図を描いたと話す。

 

 薩摩の特産品は奄美琉球の黒砂糖で、大坂等で薬として重宝され高く売られていたが財政難で苦しんでいた。加えて島津家から11代将軍徳川家斉に輿入れした事で、更に財政は深刻になる。

 

この救世主が、琉球経由の中国との密貿易。

薬の原料の麝香(ジャコウ)は長崎経由で大坂道修町で買う事が出来たが、幕府の言い値のままだったという。

 薩摩藩は中国から仕入れた麝香で薬を作り、これをカムフラージュするため薩摩

での麝香栽培の許可を幕府から許しを得ている。

 中国が欲しがる大量の昆布を富山の売薬組織の薩摩組が北前船で運び、鹿児島港から琉球の昆布座の役所に送られ中国に輸出された。

 鹿児島では、18世紀昆布を運ぶ船を北前船とよんでいたといい、薩摩に入れたのは、昆布を運んでいた富山の薩摩組の人達だけ。

薩摩に多くの情報をもたらし、薩摩で禁止されていた浄土真宗を広め、天保の時代14万人が摘発された例もあげている。

 島津家800年の歴史や文化を紹介している博物館「尚古集成館」(写真2020年2月)には、北前船の模型が展示され、発行された書籍に江戸期の鹿児島の港に停泊する琉球の船が描かれていた。


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それから200年が過ぎた今も、薩摩と富山は交流があるという。

富山の薬売りについて5月の放送のNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」で原口氏のインタビューでは、島津斉彬が富山の薩摩組の金盛五兵衛に贈った掛け軸と、島津久光が贈った刀の話をされ、9代目金盛正寛氏の話がある。 

 掛け軸には宝船が描かれていた事から、石狩市北前船紀行地フォーラムで参加者に配布された石黒隆一さんの『宝船』(写真)にふれ、これは貴重な書籍と紹介している。

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 薩摩の廻船の足跡は 浜田・出雲崎、輪島、酒田の客船帳にあるが記載が多くあるのにその活躍はあまり語れていない。

 酒田にある薩摩の足跡を知らせたいと 2018年に一般公開された客船帳『北前船寄港地酒田から全国帆船リスト』を企画制作して北前船寄港地フォーラム鹿児島で、原口氏にお渡した。
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この番組のゲスト庄内酒田古文書館の杉原丈夫館長も、酒田光丘文庫の7冊の客船帳の全国図を原口氏に渡している。(写真)


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 薩摩藩北前船を語る人が少ない中、鹿児島で北前船寄港地フォーラムでは原口氏がコーディネーターをつとめていた。

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 放送から半年後の2020.11佐倉の国立博物館でこれまで未公開だった、酒田沖飛島の鈴木家の客船帳を酒田市の杉原丈夫さんと閲覧した。

 70冊の中に薩摩の濱崎家の名をがあったので、原口氏に見て頂いた。

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 「濱崎太平次の一族で、俳優の濱畑賢吉さんの先祖だ」と教えて頂いた。

 指宿出身の濱崎家は、箱館など全国に支店網があり琉球を通じて中国とも貿易を行っていたのが分かった。

 

 尚、薩摩の抜け荷を調べた江戸幕府の記録『北越秘説』については、新潟市歴史博物館の方に明楽みゆきさんの番組で語って頂いた。